ごきげんようチャンネル



Smile, what's the use of crying?

You'll find that life is still worthwhile

If you just smile


生老病死は観念である 

物質には、生も死もない。

 

生物の「生」と「死」を観察すると、物質的なあり方にちがいがあるだろう。しかし、生物を構成している物質じたいは、みずからの物性にしたがって運動し、変化しているだけで、生きたり死んだりしない。

 

 

 

「誰も、自分の死を体験することはできない」

 

 

 

という。死んだとき、人はもはや生きていない。生きていない以上、死は体験できない。

 

このロジックが成り立つのも、生も死も、観念上の存在だからである。

 

 

 

老いも病いも、人体という物質の集まりがもつ相互関係の変化である。物質じたいは物性にしたがって運動しているだけで、老いもしないし、病んだりもしない。

 

してみれば、人間にとって不可避な「四苦」(生老病死)とは、肉体を構成する物質の相互関係の変化であり、その変化を概念としてとらえた言葉だということになる。

 

 

 

 

人間から見たとき、この世の実在は、

 

 

 

物質ー物質の相互関係ー観念的現実

 

 

 

の三層になっている。

 

宇宙を構成する物質は、滅びない。観念も、個人の認識は個人の肉体とともに滅びるが、社会的な概念はいくつもの世代の肉体に宿るから、かなりの期間、存続しうる。

 

確実に変化し、必ず滅びるのは、個体を構成する物質の相互関係である。たとえば、ひとつの生命体を支える物質の相互関係は確実に変化し、滅びていく。

 

生老病死とは、人体を構成する物質の相互関係の、生成・変化・滅亡をとらえた概念である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 00:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
真実には過ぎ去ったものもある

なぜ、仏教の諸宗派には今も修行があるか。

 

苦行に耐えたという自信。他人の尊敬や信用を集めること。宗派の規律と位階の基準としての修行。

 

どれも悪いことではないが、難行苦行によって現実を超越できるとは限らない。超越を体験したことは長く記憶できても、超越感覚そのものは長続きしない。

 

人間は、自分の認識のなかで超越という概念への無限の接近を試みるが、ふと我に帰還したとき、超越は到達至難、安住不可能な世界であることに気づく。

 

もともと、高度な宗教的境地は、人間が幻視する蜃気楼のようなところがある。かつて多くの修行者、僧侶が、この蜃気楼を追った。だが、過去から伝承された蜃気楼を、いつまでも追いつづける必要は、どこにあるのだろうか。

 

法然の念仏への帰依は、過去の教説の学習や伝統的な修行についての苦い反省から来ているのではないか。法然自身は、仏典を読み、極楽を幻視する行を繰り返していたようだが、彼はそれを庶民に勧めたわけではないようだ。

 

「極楽」「悟り」... あらゆる概念は、個人的な認識の特殊性を照らしだす社会的準拠である。だが、それは心中の抽象的観念であるから、生身の人間がそこにとどまることは不可能である。しかし、そこに概念がある以上、人はいつの世にも到達を試みる。

 

ブッダもイエスも、断食の修行を通して真実を見た。しかし、ブッダもイエスも、自分と同じ修行を他の人に勧めるだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 00:00 | comments(3) | trackbacks(0) | - | - |
仏教は宇宙の創始や終焉をあまり考えない、古代の無限縁起の世界観

仏教では、世界が因縁(直接的な力が因、間接の条件が縁)によって運行されていると説く。これを縁起の理法という。

 

仏教では、宇宙の創始者が誰かとか、宇宙の始点や終点がどんなものかについては、それほど関心をもたない。弥勒信仰のような例もあるが、その場合も、宇宙の終末が誰によって起こされるかといったことは積極的に語らない。

 

キリスト教やイスラム教は、宇宙が人間の力の及ばないところで始まり、終わると解釈する点では、仏教と発想が共通しているが、神を宇宙の創始者とし、神による世界の終末を強く意識するところは、仏教と対照的である。

 

 

どうして仏教では、始原と終末の問題はさほど重要ではないか?

 

それは、問題追求のプロセスこそ、問題の解決そのものだからである。問題の解決とは、問題を追求するプロセスにほかならない。人間は、ものごとの連関のあり方を見極め、その改善を課題にすればよく、そのあとのことは、宇宙の摂理におまかせする。宇宙は、如来などの働きとして自動的に運行されており、人間がどうこうできるものではない。

 

 

キリスト教やイスラム教の世界では、宇宙の始原と終末を神の業とし、したがって宇宙の運行にも神の秩序が隠れていると考えた。この発想が、現世の科学的探求を推進した。

 

その際、隠れたポイントは、キリスト教やイスラム教は、もともと整備された科学的世界観を持っていなかったことである。たとえばカソリックの宇宙イメージは、古代以来の常識的なレベルであった。だからこそ、神の秩序を宇宙に探し出そうとする新しい情熱が、キリスト教世界では醸成されたとも言える。

 

仏教は、科学を推進する情熱に欠けていたかもしれない。その原因は、キリスト教と違って仏教は、科学的と言ってもいいような、抽象的で相関的な世界観(如来、四大など)を、古代に作ってしまったからである。仏教は、この世界をかなりよく説明する超越的論理であった。

 

だからその後、個々の認識をより科学的な概念へと凝結させ、新しい概念によって認識を照らし出し、その認識によってさらに新しい概念を探求するという、前進的な情熱を持ちにくかったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 00:00 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
生きてるほうが珍しい  人間と宇宙、空と無の連関について

四大の一時的結合(空)としての人間。

 

人間である時間は、一瞬である。

 

一瞬でないほう(無)から人間を見る。これが宗教と科学である。

 

近代になり、科学が宗教を掘り崩していった原因は、科学と宗教の目線が「無」という共通点をもつからである。

 

宗教の物語でしか説明できなかった「無」が、科学の概念によっても説明できることがわかったからである。

 

そういう意味で、科学は近代の宗教である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天の雲が地上を見下ろしている。だが、雲は地上の水の一瞬の形にすぎないから、むしろ地上がすべての基盤である。

空に人がいて絶えず動き、それに無関心な地上の無が横たわる。

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 10:41 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
仏像は、古代の宇宙概念の形象化である

仏教は、主知的な宇宙観である。

 

地水火風とか、如来 菩薩 明王 天部といった宇宙構成の概念を体系化したものが、仏教である。仏教は世界を統一的に解釈するための参照枠であり、現代の学問のような位置にあった。日本では、人は仏教の概念によって、本質と現象を区別する能力を身につけた。

 

 

個別の認識を、通常の概念によって、すなわち散文的な言語表現によって直に照らし出すのが、思想である。

 

想像で設定した虚構を概念的に利用=参照枠にすることで、言語の内部で比喩的に現実の実相を照らしだすのが、物語や詩や歌である。

 

仏典の多くは、物語や詩歌の形式をとった思想書になっている。

 

仏教では、仏典のほかに、日常の現実を離れたイメージをこの世に出現させ、それによって現実の意味を照らしだす仏像、図像、伽藍、衣装、音響、祭式も作られてきた。

 

なかでも仏像は、宇宙についての思想の、形象による表現であり、それじたい、優れた宇宙解釈である。すなわち如来は、宇宙の摂理そのもの。菩薩は、宇宙の連関そのもの。明王は、宇宙のエネルギーそのもの。天部は、宇宙の守護=自己運動の継続そのもの。こうした、ほんらい色も形もない概念を形で現したのが、仏像である。

 

「摂理」と文字で書くかわりに、如来の立体像を造り、直感的に感じとれるようにしたのだ。仏像にしておけば、東寺講堂のように、諸仏の配置によって立体的に世界観を表現することもできる。それを絵画化して、曼荼羅を描くこともできる。仏像は、古代人が洞察した宇宙の本質を立体的形象で現した、驚くべき達成である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
円空 すべてを領収書にした生涯

円空は、なぜあんなにたくさんの神仏を彫ったか。

 

木にはもともと神が宿るとされてきた。だから木を変形すれば新しい神=仏ができると考えたからだという見方がある。つまり神を仏に変えつづけ、そこに喜悦を感じたのが円空であった。


円空の作品が人を惹きつけるのは、なぜか。その理由は、円空がいっさい報酬をもらわず、感謝のしるしとして神仏をつくりつづけたからである。

仏師は、仏像をつくるのが仕事であるから、作品は「請求書」になる。ところが円空は報酬を期待せず、純粋な心で神仏を彫った。円空は「領収書」として神仏を刻んだのだ。要求ではなく感謝。だから円空仏は自由である
 

 


岐阜県の高賀(こうか)に、円空記念館がある。高賀は白山山系の修験の聖地のひとつで、円空が何度か滞在し、たくさんの円空仏が残っている。

 

 


http://www.horado.com/kouka/enku.html

 

 

 

円空が木に登っている等身大の人形ディスプレイもある。それを見ていると、円空が私たちを叱ってくれる。「そんなことより、領収書は書いたのか!」と。

 

ここには、円空が12万体造像をなしとげた最後の像、歓喜天像もある。円空はここで造像をやめ、三年後に入定すると予言した。そして「千日行」を行ったあと、関の弥勒寺で即身仏になった。元禄九(1695)年、64歳。

 

最後は、自分の身体を領収書にしてしまった。すさまじい一生だった。
 

 

ぜんぶ領収書にすれば、人生は自由になる。

 



 

 

 

 

    地蔵菩薩は庶民の円空仏かもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
私の「行雲百景」 北斎は雲である

葛飾北斎の富嶽シリーズは、死の象徴たる富士山が、生きた人間の営みをのぞきこんでいる構図が基本になっている。

 

人間が画面に登場しない例として、有名な「凱風快晴」があるが、これも富嶽を左下に降りて行くと、人家が存在するように感じられる。人間が描かれていないからこそ、自然と人間の対比が迫ってくる。(なお、この作品は画家の視点が上空にある点でも画期的と思う)

 

 

 

 

『冨嶽三十六景』より《凱風快晴》
文政(1818〜30)末〜天保(1830〜44)前期

 

 

 

 

私はこのごろ、空を見ては写真を撮っている。

 

雲は、面白い存在だ。地(如来)にある水(菩薩)から沸き起こり、風(天部)のエネルギー(明王)を受けて、あるとき、ある形をとり、流れて行く。雲はやがて消え、別のものに形を変える。

 

このプロセス全体を満たすものは、光(大日、阿弥陀)である。

 

地は生の世界、空は死の世界。だから空には人間がいない。しかし、空を見る人間は、空に人間を見ている。

 

雲は、生と死の統一であり、北斎も、雲として生き、消えた。

 

 

 

こういう仏像的な比喩は、古代人が残した素朴な洞察にすぎない。しかしこの洞察は、喜怒哀楽に陥りがちな人間を、宇宙の運行の中に客観的に位置づける手助けをしてくれる。

 

 

 

 

 

 

          地の生と空の死。人は行く雲の如し。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 10:06 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
宇宙は人間に優しくない だから人間に歴史が生まれた

日本では浄土教系の宗派が多数派だが、じつは密教のほうが、宗教の本来の姿を汲んでいると思う。

 

千手観音や不動明王のように、密教の仏像には異形のものが多い。仏たちが人間ではないことは、一見しただけで明らかである。密教では、人間の世界と仏の世界がはっきりと分かれている。これは、仏の本来の姿を表していると思う。

 

じっさい、キリスト教だって、ユダヤ教だって、イスラム教だって、神は人間から超絶していて、人間の影響を受けない。

 

神仏とは、宇宙の道理の擬人化であるが、宇宙は人間を救おうとして存在するわけではない。人間のほうが宇宙に救われるように工夫しながら生活しているのであって、宇宙の側には人間をとりわけて救う必要もなければ、そうする理由もない。

 

だからこそ、人間は懸命に祈るのだ。だからこそ人間は、少しでも神仏が振り向いてくれたとき、天を仰ぎ、地を踏んで感謝するのだ。お百度参りしかり、寺社作りしかり、豊作の祈りしかり、収穫の祝いしかり。

 

 

とりわけて人間を救うと誓った阿弥陀如来や観音菩薩は、神仏のなかの異端者である。異端者だからニセモノだというのではない。彼らが異端者であることを知っているほうが、阿弥陀や観音への感謝は増すということだ。

 

 

人間の力が及ぶ範囲から完全に外れた存在。それを神仏と呼ぶ。人間は懸命に神仏を欲するが、神仏のほうでは、人間に特別関心をもついわれはない。人間と神仏の関係をそうとらえるとき、人間の歴史が姿を現してくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 00:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
仏像は、古代の宇宙観である

亡くなった西村公朝師の大著『仏像の再発見 鑑定への道』(吉川弘文館、1976年)に、仏像に現れた仏教の世界観をうまくまとめた文章がある。

 

 

仏像には如来、菩薩、明王、天部の四種があるが、その相互関係は、次のようになっている。

 

 


如来  この宇宙の森羅万象は、どこからか来て、仮の姿をとったものである。人間も花も鳥も山も川も、いま「そうであるかの如き」姿をしている。この世にあるすべてのものは、本質のわからない「如」(にょ)の世界から「やって来た」のだ。ゆえに、この世のすべてのものを「如来」という。
 

 

菩薩  「われわれの周囲にいる各如来は、おたがいに助け合っているのです。その助けられたAと、助けてくれたBの関係は、BがAに対して菩薩になっているのです。」「菩は香草(こうそう)、薩は救うという意味です。」 たとえば「人と米の関係は、米は人に対しては菩薩になります。」26頁 こうして、ある如来は他の如来の菩薩となり、世界が助け合っている。

 

 

明王   如来かつ菩薩たる米は、「太陽と水、すなわち地・水・火・風・空の働きが加わって成長します。この偉大なエネルギーを明王といいます。」26頁  明王は、如来・菩薩を生む宇宙エネルギーの擬人化である。

 

 

天部   「こうした宇宙のバランスを護っているのが天部と解釈できるでしょう。」26頁

 

 

 


こうしてみると、確かに、この四種以外にこの宇宙にはなにも必要ない。

 

如来の本質は自己運動する宇宙の摂理そのものであるから、如来の目は内省的な半眼に造り、静かに座っている作例が多い。菩薩は、立っていたり、片足を少し出したり、動物に乗ったりと、今にも助けようとする姿勢をとる作例が多い。明王や天部は、エネルギーや守護の活動そのものであるから、力強い姿のものが多い。

 

仏教で四大(しだい)とされる地水火風は、如来(地)、菩薩(水)、明王(火)、天部(風)と相性が良い。偶然だが、現代物理学が宇宙の基本相互作用とする力も、四種類である。

 

 

そして、

 

 


この宇宙のすべてのものが如来であり、たがいに菩薩になりあうのですから、この宇宙には無数の仏がいることになります。」26頁

 

 


宇宙とは、「無数の仏」が出現したものなのだ。この豪華絢爛なイメージから、曼荼羅が描かれ、無数の明王、天部が創作された。

 

 

 

 

なにものも絶対ではなく、すべてが連関して調和する世界。仏像が表すものは、このviewpoint(観点)そのものだ。


 

 





 

 空と近淡海(ちかつあわうみ)。向こうは比叡山系。

「空海」と「最澄」が一枚になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
黄金のブッダを見る方法 仏足石について

私がはじめて仏足石を見たのは、彦根の龍潭寺(りょうたんじ)の境内だった。足指の付け根が石の角にかかっており、やや前のめりに立つブッダの姿が想像できる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

奈良の薬師寺には、日本最古の仏足石があり(大きさ約50センチ。753年作)、石歌碑もあって、独特のリズムをもつ歌が二十余り刻まれている。これを仏足石歌ーぶっそくせきかーといい、38文字からなる。

その中から、すばらしい一首を紹介しよう(万葉仮名をひらかなにしてある)。

 



みあとつくる いしのひびきは
あめにいたり つちさへゆすれ

ちちははがために
もろひとのために


 

 


仏足石を刻む槌音が天地に響き渡り、父母諸人の供養になるようにと祈る歌である。

 


それにしても、いったいなんのためにブッダの足跡を石に刻んだのか。聖なるブッダを直接描くのは畏れ多かったからと説明されるが、それだけだろうか。また、なぜ歌碑があるのか。

 

森岡隆『図説 かなの成り立ち事典』(教育出版、2006年8月)をのぞきこんで、謎が解けた。

薬師寺の歌碑には、「釈迦のみ跡 石に写しおき 行きめぐり」とか、「このみ跡を 回りまつれば」という文字がある。古代人は、仏足石をただ拝んだのではない。石のまわりを回ったのだ(182頁)。

小さな石を何人かで囲んで、仏足石歌を歌いながら回ったのだろう。一人が歌いはじめると、二人、三人と加わる。やがて何十人にもなり、踊りの興奮が渦巻いて…

というような想像をしていたら、芝居の訓練のひとつに、「無対象行為」というのがあることを思い出した。

演者は、実在しない茶碗を手にもち、なでてみる。湯をうつしかえる、熱さを感じてみる。これをくりかえすうちに、手にずっしりと茶碗の重みを感じる。演者自身が、演技というものの力を実感する瞬間である(竹内敏晴『子どものからだとことば』晶文社、1983年、29頁)。

足跡だけが彫ってある仏足石。歌を歌い、石を回る無対象行為の中から、幻想のブッダが立ち上がる。私のイメージでは、そのブッダは透明な金色である。その神々しさ!


晩年の司馬遼太郎は、小説を書かなくなった。その理由について彼は、「小説は、空気をかきまぜて練り上げ、さらにかきまぜて固まりを作るような、大変なエネルギーが必要だ。それをするには、私はもう年をとりすぎた。」と言っていた。小説とは、見えないものを見て、感じて、再現しようとする行為であり、仏足石を回りながらブッダの姿を再現する行為に似ている。

 

 

そこに足跡しかないからこそ、透明な黄金色のブッダは現れる。そこに、仏像以前の人間の知恵があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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