ごきげんようチャンネル


あきらけき かがみにあへば すぎにしも いまゆくすゑの こともみえけり

         大鏡


親鸞の「悪人」は、ブッダの人間理解でもあった

我執が苦の根源であるというブッダの発見に、親鸞は別の角度から光をあてた。今村仁司氏は、次のように書いている。

 


「日本浄土門は、インドの伝統をふまえて苦の原因を無知に求めることから出発しながら、さらに一歩を前進して、無知としての悪を人間論の基礎に据える。アクセントが悪の観念から悪を具現する人間自身(「機」としての人間)に移る。」(今村仁司『親鸞と学的精神』岩波書店、2009年、164-165頁)


つまり、「世俗を生きる人間は、例外なく、自分の存在が苦的であることに無知であり、その意味でまったく悪人である」という人間=悪人観が、親鸞にとって決定的であったと今村氏はいう(同上書、165頁)。

だが私は、ブッダも親鸞と同じことをすでに発見していたような気がする。苦の根源を教えても、理解することは著しく困難である。ブッダは、そのこともすでに知っていたのではないか。

 

だからブッダにいわせれば、真実を知るために出家は当然の前提であるが、だからといって出家しない者をさげすむこともなかった。どちらにしても、真実を知ることは困難だと知っていたからであろう。

 

法華経に登場するブッダは冒頭で、これまで私が説いたことは「方便」であって、人々を導くにはそうする必要があったのだと述べる。これは、真実を知ることはよくよくむずかしいという、法華経作者の人間観の表れでもあろう。

他方で、人はみな無知な「悪人」であるという断定は、あらゆる人間を平等な存在として見るという、宗教にとって本質的な視点も提供する。

こうして、人間の苦と無知の発見は、宗教的な飛躍を必然にする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ブッダは自分の悩みを解決したのか?

ブッダという人は、人類の歴史に残る野心家であったと、私は思う。

 

ブッダは、自分の悩みを人間の普遍的な苦悩と重ねあわせる共感能力があり、6年間の荒行に耐える肉体をもち、苦悩の根源を解消する優れた知性があった。

 

もしブッダが自分の悩みを解決しようとしただけなら、王子の地位を捨てたブッダは、鬱とか世捨て人であったことになるだろう。

 

だが、ブッダは鬱でも世捨て人でもなかった。

 

20代で出家したとき彼は、自分を含む人間の苦悩を解決するという壮大なプロジェクトに挑んだのだ。

 

ブッダは、人類代表の若者として苦行に入り、人類代表のインテリとして禅定して、この世の現実=苦を超越する論理をみいだした。

 

人類の苦悩を自分の悩みとし、その解決のため、この若者は森林に入っていったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
生老病死は観念である 

物質には、生も死もない。

 

生物の「生」と「死」を観察すると、物質的なあり方にちがいがあるだろう。しかし、生物を構成している物質じたいは、みずからの物性にしたがって運動し、変化しているだけで、生きたり死んだりしない。

 

 

 

「誰も、自分の死を体験することはできない」

 

 

 

という。死んだとき、人はもはや生きていない。生きていない以上、死は体験できない。

 

このロジックが成り立つのも、生も死も、観念上の存在だからである。

 

 

 

老いも病いも、人体という物質の集まりがもつ相互関係の変化である。物質じたいは物性にしたがって運動しているだけで、老いもしないし、病んだりもしない。

 

してみれば、人間にとって不可避な「四苦」(生老病死)とは、肉体を構成する物質の相互関係の変化であり、その変化を概念としてとらえた言葉だということになる。

 

 

 

 

人間から見たとき、この世の実在は、

 

 

 

物質ー物質の相互関係ー観念的現実

 

 

 

の三層になっている。

 

宇宙を構成する物質は、滅びない。観念も、個人の認識は個人の肉体とともに滅びるが、社会的な概念はいくつもの世代の肉体に宿るから、かなりの期間、存続しうる。

 

確実に変化し、必ず滅びるのは、個体を構成する物質の相互関係である。たとえば、ひとつの生命体を支える物質の相互関係は確実に変化し、滅びていく。

 

生老病死とは、人体を構成する物質の相互関係の、生成・変化・滅亡をとらえた概念である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 00:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
真実には過ぎ去ったものもある

なぜ、仏教の諸宗派には今も修行があるか。

 

苦行に耐えたという自信。他人の尊敬や信用を集めること。宗派の規律と位階の基準としての修行。

 

どれも悪いことではないが、難行苦行によって現実を超越できるとは限らない。超越を体験したことは長く記憶できても、超越感覚そのものは長続きしない。

 

人間は、自分の認識のなかで超越という概念への無限の接近を試みるが、ふと我に帰還したとき、超越は到達至難、安住不可能な世界であることに気づく。

 

もともと、高度な宗教的境地は、人間が幻視する蜃気楼のようなところがある。かつて多くの修行者、僧侶が、この蜃気楼を追った。だが、過去から伝承された蜃気楼を、いつまでも追いつづける必要は、どこにあるのだろうか。

 

法然の念仏への帰依は、過去の教説の学習や伝統的な修行についての苦い反省から来ているのではないか。法然自身は、仏典を読み、極楽を幻視する行を繰り返していたようだが、彼はそれを庶民に勧めたわけではないようだ。

 

「極楽」「悟り」... あらゆる概念は、個人的な認識の特殊性を照らしだす社会的準拠である。だが、それは心中の抽象的観念であるから、生身の人間がそこにとどまることは不可能である。しかし、そこに概念がある以上、人はいつの世にも到達を試みる。

 

ブッダもイエスも、断食の修行を通して真実を見た。しかし、ブッダもイエスも、自分と同じ修行を他の人に勧めるだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 00:00 | comments(3) | trackbacks(0) | - | - |
仏教は宇宙の創始や終焉をあまり考えない、古代の無限縁起の世界観

仏教では、世界が因縁(直接的な力が因、間接の条件が縁)によって運行されていると説く。これを縁起の理法という。

 

仏教では、宇宙の創始者が誰かとか、宇宙の始点や終点がどんなものかについては、それほど関心をもたない。弥勒信仰のような例もあるが、その場合も、宇宙の終末が誰によって起こされるかといったことは積極的に語らない。

 

キリスト教やイスラム教は、宇宙が人間の力の及ばないところで始まり、終わると解釈する点では、仏教と発想が共通しているが、神を宇宙の創始者とし、神による世界の終末を強く意識するところは、仏教と対照的である。

 

 

どうして仏教では、始原と終末の問題はさほど重要ではないか?

 

それは、問題追求のプロセスこそ、問題の解決そのものだからである。問題の解決とは、問題を追求するプロセスにほかならない。人間は、ものごとの連関のあり方を見極め、その改善を課題にすればよく、そのあとのことは、宇宙の摂理におまかせする。宇宙は、如来などの働きとして自動的に運行されており、人間がどうこうできるものではない。

 

 

キリスト教やイスラム教の世界では、宇宙の始原と終末を神の業とし、したがって宇宙の運行にも神の秩序が隠れていると考えた。この発想が、現世の科学的探求を推進した。

 

その際、隠れたポイントは、キリスト教やイスラム教は、もともと整備された科学的世界観を持っていなかったことである。たとえばカソリックの宇宙イメージは、古代以来の常識的なレベルであった。だからこそ、神の秩序を宇宙に探し出そうとする新しい情熱が、キリスト教世界では醸成されたとも言える。

 

仏教は、科学を推進する情熱に欠けていたかもしれない。その原因は、キリスト教と違って仏教は、科学的と言ってもいいような、抽象的で相関的な世界観(如来、四大など)を、古代に作ってしまったからである。仏教は、この世界をかなりよく説明する超越的論理であった。

 

だからその後、個々の認識をより科学的な概念へと凝結させ、新しい概念によって認識を照らし出し、その認識によってさらに新しい概念を探求するという、前進的な情熱を持ちにくかったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 00:00 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
生きてるほうが珍しい  人間と宇宙、空と無の連関について

四大の一時的結合(空)としての人間。

 

人間である時間は、一瞬である。

 

一瞬でないほう(無)から人間を見る。これが宗教と科学である。

 

近代になり、科学が宗教を掘り崩していった原因は、科学と宗教の目線が「無」という共通点をもつからである。

 

宗教の物語でしか説明できなかった「無」が、科学の概念によっても説明できることがわかったからである。

 

そういう意味で、科学は近代の宗教である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天の雲が地上を見下ろしている。だが、雲は地上の水の一瞬の形にすぎないから、むしろ地上がすべての基盤である。

空に人がいて絶えず動き、それに無関心な地上の無が横たわる。

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 10:41 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
仏像は、古代の宇宙概念の形象化である

仏教は、主知的な宇宙観である。

 

地水火風とか、如来 菩薩 明王 天部といった宇宙構成の概念を体系化したものが、仏教である。仏教は世界を統一的に解釈するための参照枠であり、現代の学問のような位置にあった。日本では、人は仏教の概念によって、本質と現象を区別する能力を身につけた。

 

 

個別の認識を、通常の概念によって、すなわち散文的な言語表現によって直に照らし出すのが、思想である。

 

想像で設定した虚構を概念的に利用=参照枠にすることで、言語の内部で比喩的に現実の実相を照らしだすのが、物語や詩や歌である。

 

仏典の多くは、物語や詩歌の形式をとった思想書になっている。

 

仏教では、仏典のほかに、日常の現実を離れたイメージをこの世に出現させ、それによって現実の意味を照らしだす仏像、図像、伽藍、衣装、音響、祭式も作られてきた。

 

なかでも仏像は、宇宙についての思想の、形象による表現であり、それじたい、優れた宇宙解釈である。すなわち如来は、宇宙の摂理そのもの。菩薩は、宇宙の連関そのもの。明王は、宇宙のエネルギーそのもの。天部は、宇宙の守護=自己運動の継続そのもの。こうした、ほんらい色も形もない概念を形で現したのが、仏像である。

 

「摂理」と文字で書くかわりに、如来の立体像を造り、直感的に感じとれるようにしたのだ。仏像にしておけば、東寺講堂のように、諸仏の配置によって立体的に世界観を表現することもできる。それを絵画化して、曼荼羅を描くこともできる。仏像は、古代人が洞察した宇宙の本質を立体的形象で現した、驚くべき達成である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
円空 すべてを領収書にした生涯

円空は、なぜあんなにたくさんの神仏を彫ったか。

 

木にはもともと神が宿るとされてきた。だから木を変形すれば新しい神=仏ができると考えたからだという見方がある。つまり神を仏に変えつづけ、そこに喜悦を感じたのが円空であった。


円空の作品が人を惹きつけるのは、なぜか。その理由は、円空がいっさい報酬をもらわず、感謝のしるしとして神仏をつくりつづけたからである。

仏師は、仏像をつくるのが仕事であるから、作品は「請求書」になる。ところが円空は報酬を期待せず、純粋な心で神仏を彫った。円空は「領収書」として神仏を刻んだのだ。要求ではなく感謝。だから円空仏は自由である
 

 


岐阜県の高賀(こうか)に、円空記念館がある。高賀は白山山系の修験の聖地のひとつで、円空が何度か滞在し、たくさんの円空仏が残っている。

 

 


http://www.horado.com/kouka/enku.html

 

 

 

円空が木に登っている等身大の人形ディスプレイもある。それを見ていると、円空が私たちを叱ってくれる。「そんなことより、領収書は書いたのか!」と。

 

ここには、円空が12万体造像をなしとげた最後の像、歓喜天像もある。円空はここで造像をやめ、三年後に入定すると予言した。そして「千日行」を行ったあと、関の弥勒寺で即身仏になった。元禄九(1695)年、64歳。

 

最後は、自分の身体を領収書にしてしまった。すさまじい一生だった。
 

 

ぜんぶ領収書にすれば、人生は自由になる。

 



 

 

 

 

    地蔵菩薩は庶民の円空仏かもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
黄金のブッダを見る方法 仏足石について

私がはじめて仏足石を見たのは、彦根の龍潭寺(りょうたんじ)の境内だった。足指の付け根が石の角にかかっており、やや前のめりに立つブッダの姿が想像できる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

奈良の薬師寺には、日本最古の仏足石があり(大きさ約50センチ。753年作)、石歌碑もあって、独特のリズムをもつ歌が二十余り刻まれている。これを仏足石歌ーぶっそくせきかーといい、38文字からなる。

その中から、すばらしい一首を紹介しよう(万葉仮名をひらかなにしてある)。

 



みあとつくる いしのひびきは
あめにいたり つちさへゆすれ

ちちははがために
もろひとのために


 

 


仏足石を刻む槌音が天地に響き渡り、父母諸人の供養になるようにと祈る歌である。

 


それにしても、いったいなんのためにブッダの足跡を石に刻んだのか。聖なるブッダを直接描くのは畏れ多かったからと説明されるが、それだけだろうか。また、なぜ歌碑があるのか。

 

森岡隆『図説 かなの成り立ち事典』(教育出版、2006年8月)をのぞきこんで、謎が解けた。

薬師寺の歌碑には、「釈迦のみ跡 石に写しおき 行きめぐり」とか、「このみ跡を 回りまつれば」という文字がある。古代人は、仏足石をただ拝んだのではない。石のまわりを回ったのだ(182頁)。

小さな石を何人かで囲んで、仏足石歌を歌いながら回ったのだろう。一人が歌いはじめると、二人、三人と加わる。やがて何十人にもなり、踊りの興奮が渦巻いて…

というような想像をしていたら、芝居の訓練のひとつに、「無対象行為」というのがあることを思い出した。

演者は、実在しない茶碗を手にもち、なでてみる。湯をうつしかえる、熱さを感じてみる。これをくりかえすうちに、手にずっしりと茶碗の重みを感じる。演者自身が、演技というものの力を実感する瞬間である(竹内敏晴『子どものからだとことば』晶文社、1983年、29頁)。

足跡だけが彫ってある仏足石。歌を歌い、石を回る無対象行為の中から、幻想のブッダが立ち上がる。私のイメージでは、そのブッダは透明な金色である。その神々しさ!


晩年の司馬遼太郎は、小説を書かなくなった。その理由について彼は、「小説は、空気をかきまぜて練り上げ、さらにかきまぜて固まりを作るような、大変なエネルギーが必要だ。それをするには、私はもう年をとりすぎた。」と言っていた。小説とは、見えないものを見て、感じて、再現しようとする行為であり、仏足石を回りながらブッダの姿を再現する行為に似ている。

 

 

そこに足跡しかないからこそ、透明な黄金色のブッダは現れる。そこに、仏像以前の人間の知恵があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ヘレン・ケラーの中指について

目、耳、口が不自由だったヘレン・ケラー(1880‐1968)が来日したとき、奈良の大仏を見物した。

説明をうけた彼女は、

 

 


「なぜ大仏は右の手をあげ、中指を前に出しているのか」

 

 


とたずねた。 案内した京都大学の教授が答えられずにいると、

 

 


「盲目の人が物にさわるのはまず中指。だから大仏が衆生の様子をさぐる姿はこの形が適していますね。」

 

 


と言ったという。(小原二郎監修『インテリアの人間工学』ガイアブックス、2008年、34頁)

 

 

 


ところで、人体には「二点識別能力」という指標がある。二本の針を間隔をおいて皮膚に押しつけたとき、二点に感じ分ける最下限の寸法のことで、触覚の敏感さを示す。

それによると、人体でもっとも敏感な部位は舌の先端で、1ミリの間隔を感じ分ける。次は指先で、5ミリあれば感じ分ける。ちなみに手の甲は31ミリ、顎や胸は54ミリとなっている。(前掲書、33頁)

 

 



仏像はふつう口を開いていないが、どれも手で感じ取ったものを口で味わっているように見えるのは、私だけだろうか。

手から口へ。仏像というのは、ちょうどお医者さんのように患者の症状を手で感じ取り慰撫したあと、口を開いて相手にあわせた仏法を説く。そういうものなのだと思う。

 


それはおそらく、食べ物を手でとって口に運ぶというもっとも原初的な行為と無関係ではないのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     秋の夕焼け 濃尾平野

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 07:54 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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