ごきげんようチャンネル

"Life is too short to wake up with regrets." author unknown
           

蜷川幸雄は如来になった

演出家の蜷川幸雄氏は、2016年に80歳で亡くなった。

 

蜷川作品の出演者だった大竹しのぶさんのコメントに、印象に残った言葉があった。

 

晩年、体調を崩してからのことらしいが、

 

 

「俺、もう日常捨てたから。稽古場だけで生きるから。」

 

 

と蜷川氏が語ったというのだ。

 

華やかな本番ではなく、むしろ「稽古場」のほうが「生きる」場所だと言っているところも目を引いた。

 

 

http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/700/244810.html#c194962

 

 

 

 

仏教には、如来、菩薩、天といった仏の種類がある。如来とは、法そのものだというが、人は死して法となる。残された者は資質に応じて、菩薩や天になればいい。

 

先日、70歳代の人から、「あと何回桜が見られるか」という気持ちが60歳代よりもリアルになる、という話を聞いた。

 

人は、生きているうちは菩薩や天になるのだが、菩薩や天になる覚悟は、早いほうがいい。70歳代より60歳代のほうがいい。早いほうが、如来になる準備が充分にできるからだ。

 

人の生活は「稽古場」であり、死してからが「本番」だ。そう思えたらいい。

 

蜷川氏は、死して如来になった。そして如来の本質は、希望である。

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 07:42 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ブッダ・最澄・賢治  志(こころざし)は光となって世界を照らす おわり

トシは亡くなったけれど、その言葉は賢治が残してくれた。火は消えても光は人の心に残るのである。

 

ブッダは光となって生きている。ちょうど最澄の書が今も生きているように。われわれも、後の世の光になるような生き方を残せばいいのだ。

 

あいかわらず、歴史は気づかせるためにくり返している。世界はあいかわらず苦である。ブッダの法も菩薩の道も不要になることはない。

 

そういえば、現在も延暦寺のスローガンは、最澄が述べた「光」の一句である。

 

 

「一隅を照らす、これ国宝なり」

 

 

 

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 04:56 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ブッダ・最澄・賢治  志(こころざし)は光となって世界を照らす その3

最澄は、願文(仏に自分の決意を述べた文)のなかで、六段階の悟りのうちの第四段階である「相似の位(そうじのくらい)」を目ざすとくり返し述べている。

 

大乗仏教とは、如来ではなく菩薩となることこそ人間の目標であることを明確にした教えであった。

 

そして、<菩薩になるのが人間の最高の境地>という大乗の教えは、歴史のなかで日本人の心に深く滲み込んでいった。

 

宮沢賢治は、24歳で亡くなった妹トシの言葉を記している(「永訣の朝」)

 

 

 

      (うまれてくるだて

       こんどは こだに わりゃのことばかりで

       くるしまなあよに うまれてくる)

 

 

 

今度この世に生まれてくるなら、こんなに自分のことばかりで苦しむのではなく、人の役に立ちたい。

 

人間として生まれたからには、菩薩になりたかったというトシの深い願いである。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 04:55 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ブッダ・最澄・賢治  志(こころざし)は光となって世界を照らす その2

最澄の遺誡(ゆいかい)つまり遺言は、仏教を広め世人を救うという初志を、彼が最後まで忘れなかったことを示している。

 

 

最澄、心形(しんぎょう)久しく労して、一生此(ここ)に窮(きわ)まる。

 

 

<一介の僧たる私・最澄は、心と体を尽くして長年打ち込み、いまここに一生を終わろうとしている> このように自分の一生を総括したあと、弟子たちに言う。

 

 

我が為(ため)に仏(ほとけ)を作る勿(なか)れ、我が為に経(きょう)を写す勿れ、我が志(こころざし)を述べよ。

 

 

<私が死んでも供養のために仏像を作ったり写経などするのではない。やってほしいことはただひとつ、私の志を世に伝えることだ>

 

最澄の辞世の歌がある。

 

 

あきらけく 後(のち)の仏の み世(よ)までも

  光つたへよ 法(のり)のともし火

 

 

ここに「ともし火」とあるが、ブッダ自身、しばしば生命を火に喩えた説法をおこなった。そしてブッダは、みずからの身体を静かに燃やし尽くすことによって、如来すなわち真理そのものとなった(涅槃)。

 

ブッダが真理となった以上、もはや誰もブッダと同等にはなれない。

 

後の世のわれわれは、如来の法を知得し実践する役割、すなわち菩薩となるのである。

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 04:54 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ブッダ・最澄・賢治  志(こころざし)は光となって世界を照らす その1

最澄書「山家学生式」冒頭(国宝・延暦寺蔵)

 

http://ichigu.net/person/index.html

 

私は実物を見たことがあるが、2センチ角くらいの几帳面な字には、現代人には書けないような清潔感があった。

 

その文字を思い出しながら最澄の文章を読んでいると、彼の人柄が表れているように思われる。たとえば、仏道に賭ける激しい情熱が、型にはまった表現から少し外れた次のような部分にあふれでている。

 

 

斯(こ)の心(しん)、斯(こ)の願(がん)、海を汲(く)むことを忘れず。(山家学生式)

 

 

最澄は、胸に抱きしめるようにして「この心、この願」と心の声を書き記した。天台の教えは、最澄が「この心、この願」と書いたとき、その基礎が確立されたのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 04:53 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「捨てる」と「自由」にフォーカスできる 

仏教では、「捨てる」ことが重視される。

 

ここで「捨てる」というのは、全部なくすという意味ではなくて、

「自分に必要なものを選ぶ」という意味にとりたい。

 

生活していると、いろんなものが外からやってくるし、

そこから必要なものだけ選ぶには、それなりの注意力と手間がかかる。

 

だから「捨てる」ことは意図的でないと続かない。

 

いっそのこと、「捨てる」とは、「生きる」と同義なのだと

思えばいいのだろう。意図的に捨てることで、自由に生きられる

スペースが見えてくる。

 

本来、生きているということは、捨てているということだ。

 

…それでは私の机の上、さっそく片付けないと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 08:11 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ブッダ 二重の発見者 おわり
それで、ここで私が発見したというのは、ブッダがなにをしたかということについてである。


これまで私は、苦の根源が我執にあるといったことをブッダは発見した、と思っていた。


しかし、この本を読むうちに、ブッダはもうひとつのことを発見しており、これが苦の根源の論理的発見におとらぬ重要性をもっていることに気がついた。



それは、苦の根源が我執にあることを誰も知らないし、たとえそれを真実として教えても、人が理解することは著しく困難である、という発見である。



これは、苦の根源の論理的な追求とはレベルのちがう発見であって、苦の根源が何であろうと、真実を発見した人につきまとう困難である。


親鸞が<すべての人間は悪である>というのは、苦の根源がなんであれ、それを知らない、理解できないことは人間にとって不可避であるというブッダの第二の発見を、<人間の必然的な悪>として把握したものなのだ。




真実はなにかという問題と、その真実を知ることはできるかという問題は、別である。

このふたつの問題は、それぞれ別の絶望の源泉となる。

他方で、人はみな無知な「悪人」であるという断定は、社会的な地位などをすべて無効にして、あらゆる人間を平等な存在として見るという、宗教にとって本質的な視点を提供する。

こうして、人間の悪の解決は、宗教的な飛躍を必然にする。










(おわり)









 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 19:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ブッダ 二重の発見者 その1
今村仁司氏の遺作『親鸞と学的精神』(岩波書店、2009年)を読んでいて、ひとつ気がついたことがある。


この本は、教行信証に記された親鸞の哲学的アプローチがブッダの主知的な態度と性質を同じくしており、親鸞の「他力」は、いわばインド仏教の原点を再興したものだという視点から書かれている。11、71、130、170頁。


我執が苦の根源であるというブッダの発見に親鸞が別の角度から光をあてたことを、今村氏は次のように説明する。




「日本浄土門は、インドの伝統をふまえて苦の原因を無知に求めることから出発しながら、さらに一歩を前進して、無知としての悪を人間論の基礎に据える。

アクセントが悪の観念から悪を具現する人間自身(「機」としての人間)に移る。」(今村同上書、164-165頁)




つまり今村氏は、



「世俗を生きる人間は、例外なく、自分の存在が苦的であることに無知であり、その意味でまったく悪人である」(同上書、165頁)



という人間=悪人観が、親鸞にとって決定的であったという。









(つづく)








 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 18:59 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
"機"を見よ マルクスと法然の共通視線について おわり
さきに、法然など、仏教でいう「機」とは、個々人の個性(特殊性)と、人間というものに共通する能力(普遍性)を統合した語であって、それはたとえば織機のように、ひとつの構造(普遍)から多種の織物(特殊)が生まれるイメージに通じると指摘した。

これは<普遍→特殊>という思考ルートであって、宗教的な思考に通じる。


逆に、マルクスのような社会科学では、交換価値という普遍は、使用価値という特殊からしか生まれないことを強調する。

これは<特殊→普遍>という思考ルートであって、普遍的と感じる観念も、社会関係が変わればその意味は変化することを看破している。



法然とマルクスは、思考のルートは互いに逆である。しかし、特殊と普遍の両方を視野に入れる視線は、両者に共通している。



偉大な思考とは、<特殊と普遍>、<私的と社会的>、<役割とはたらき>、<具体と抽象>といった、互いに矛盾する側面を巧みに統合するロジックのことである。











(おわり)









 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 09:11 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
"機"を見よ マルクスと法然の共通視線について その6
個人は、具体的な<役割>をもち、その役割を通して、抽象的な<はたらき>をおこなう。


<役割>には、親、子、兄弟といった永続的な血縁関係や、配偶者、職業、住民、役員のような一定期間の社会関係、そして乗客、観客、歩行者のような、一時的な<役割>もある。

個々の人間は、どの瞬間にも(胎内でも、そして死後でさえも)、なにかの具体的な<役割>を果たしている特殊な存在である。



そして、個人が<役割>を果たすと、そこから<はたらき>が現象する。役割は、具体的な個人が演じているが、<はたらき>は、個人性を超えた抽象的なカテゴリーであって、社会的関係=役割から人間が抽出する普遍的な観念である。




法然が「南無阿弥陀仏」一本に集中せよと唱えたのは、個人の特殊性(役割)を越えて、阿弥陀の普遍的な<はたらき>に精神を集中することを主張したのだ。

ここで<はたらき>とは、<阿弥陀に救われる存在としての人間>という普遍的観念である。それは人間どうしの関係ではなく、宇宙の生命である阿弥陀と人類の関係認識から生まれる、社会性を超越した超絶的な<はたらき>である。



それに対してマルクスは、そうした<はたらき>の観念(たとえば、阿弥陀に絶対的に救われる人間という観念)が生まれる由来を問うた。

現実社会にいる人間を実際に解放するためには、あらゆる観念(普遍)が人間の具体的な社会的役割(特殊)から必然的に発生することを論証する必要があると考えたのである。

じっさいにマルクスが分析したのは、労働が生む商品という実物形態から、いかにして交換価値という社会的観念が生まれるかということであった。

マルクスは、交換価値のような観念(はたらき)が存在しないと考えたのではない。観念を、孤立した存在とみるのではなく、社会的な関係(役割)から必然的に生成するものとしてとらえたのである。










(つづく)










 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 08:57 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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