ごきげんようチャンネル


"Obama got in, and he is the pawn of globalized interest." Naomi Wolf



英語ひとすじと英語ちょいすじ 二つの方法に共通するもの おわり
斎藤氏の見解に、私は基本的に賛成だ。

ただ、ひとつ問題なのは、中学高校あたりまでで、斎藤氏のいう「基礎的な英語だけは身につけてお」くための方法が、現実には存在しないことだ。

先日、中学校の授業を参観にいったので、一年生の時間割をみたら、英語の時間は週に四回だった。他の科目も大同小異で、3回から4回程度となっている。

一回の授業は45分だから、週に三時間程度の学習時間である。

これだけでなにかが身につくと考えるのは、多分に空想的である。

家庭学習や塾を加えても、中学生が英語のために十分な時間を確保するのは、かなりむずかしいだろう。

しかも、英語に努力した人なら感じていると思うが、いくら時間と労力をかけても、現在の学校英文法で「勉強」しているかぎり、冠詞や語順のような基本でさえ、なかなか自信がもてないのである。

「英語ひとすじ」にせよ、「英語ちょいすじ」にせよ、斎藤氏がいうように、中学高校で「基礎的な英語だけは身につけてお」く必要があるわけだが 181頁、現状ではそれが不可能といってよいと思う。










(おわり)











| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 英語ブックス・どれどれ塾 | 08:09 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
英語ひとすじと英語ちょいすじ 二つの方法に共通するもの その2
もうひとつは、「基礎的な英語だけは身につけておいて、あとは自分の得意分野に専心するという生き方」である。181頁

あなたが国内にいる場合、自分が世界に通用する技術をもっている。そこへ海外からそれを学びに来た人がいたら、あなたは



「英語など使う必要がない。だが、どうしても説明が相手に伝わらないとき、スッと簡単な英語を発する。これほどカッコいい英語の使い方はないではないか。」182頁



あなたが国外にいる場合も、「一流の技を持つことで、英語から自由」になれる。イチローや松井がいい例で、野球選手として一流だから、英語が器用に話せなくても仕事ができる。182頁

ほんらい、<英語ひとすじ>の道をたどる人はごく少数でよい。大多数は、こちらの<英語ちょいすじ>をとるのが正道だと、斎藤氏はいう。



「日本人全員が英語の使い手となる必要などはまったくない。

それぞれ自分が得意とする分野で活躍できる社会こそが健全な社会というもので、ある特定の外国語ができなければ昇進もおぼつかないような社会は、ただの言語文化植民地である。」156頁








こうしてみると、日本にいて「英語ひとすじ」の道をとった人は、イチローや松井が日本で野球の技術を身につけたように、英語について「一流の技」をもつことによって、海外でも通用したということになる。

つまり、ふたつの方向があるというが、よく見れば、要するに日本人は日本で自分の分野を確立することが王道だということである。


じっさい、海外で言葉のハンディから自由になるには、イチローや松井ほどでなくても、日本のなかで技術や地位を確立しておくのがよい。

日本の新聞社の特派員、日本の会社の海外支社への出向者、空手の達人、禅の僧侶、といったかたちであれば、多少言葉が不自由でも海外でやっていける。

逆に、日本に拠点がない人間がいきなり海外に出た場合、言葉のハンディが直接自分にのしかかってくる。

言葉ができないことが、直接、あなたへの評価となって襲いかかってくる。












(つづく)










| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 英語ブックス・どれどれ塾 | 08:09 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
英語ひとすじと英語ちょいすじ 二つの方法に共通するもの その1
斎藤兆史(さいとう・よしふみ)『日本人に一番合った英語学習法』(祥伝社黄金文庫、2000年)

中学時代に英語教師になろうと決心し、ひとすじに英語を勉強してきた斎藤氏が、一般向けに書き下ろした読みやすい本。

そのなかに、「英語とうまく付き合う」方向には二つある、と述べてある。





ひとつは、「英語をきわめてしまうこと」。



「発音だけはなかなかうまくはいかないが、少なくとも語学的知識として母語話者と同程度になってしまえば、英語など怖いところはなにもない。」181頁



じっさい、これが明治以来、日本人の英語達人が実現したことであった。

ただ、これは「険しい道」で、「英語一筋の生活を送らなければ到達できない。」181頁

斎藤氏自身がこの道をたどったわけだが、「もちろん、まだ『辿り来て、いまだ山麓』である」と述懐している。181頁










(つづく)











| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 英語ブックス・どれどれ塾 | 08:08 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
aはスポットライト、theはバックライト おわり

本書でおもしろかったのは冠詞の説明である。

冠詞はスポットライトに似ているといい、次のように違いを説明している。

「aのほうは群衆の中からひとつの物体や生き物を照らし出すような感覚ですが、同時にたったひとつのものだけが孤立し、ポツンと暗闇の中に置かれているイメージがあります。ある種の寂しさをともなう単語です。

対してtheは下からたくさんのスポットライトが一つの物体や生き物を華やかに照らし出し、周りにはそれを見て拍手をしている観客がたくさんいるような感覚を持っています。ファンファーレが鳴って『theの登場でーす!』という感じの華やかさを持っていて、孤立感の強いaと決定的に異なっていると言えるでしょう。」142頁。

ここではスポットライトが一つの場合をa、スポットライトの複数で照らし出すことをtheと言っているが、認識プロセスからいうと、

aは舞台に現れた名詞を前から照らすスポットライト
theは背景から舞台全体を照らすバックライト

というのがいいかもしれない。(バックライトの典型はパソコンのディスプレイ)

まとまりのあるものの登場に当てるスポットライト。舞台の背景全体が光って、すでに舞台上にあるものを浮かびあがらせるバックライト。

aは個・回・種という「まとまり」のスポットライトで個々の実体の認識(名詞)にくっきりした具体性を与える。

theは世界、場面、論理の三層のバックライトを当てて舞台上の実体に唯一性という強い具体性を与える。

前から後ろから立体的に舞台を照射して表現に強い実体性(具体性)を与える。

aとtheはそのための照明装置である。






(おわり)









| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 英語ブックス・どれどれ塾 | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
aはスポットライト、theはバックライト その2

■内容は文型の読み取り方の特訓といったところ。(とくに第三文型と第二文型)。

■文法用語を化粧品の表現に言いかえて親しみやすくしている。

■SVOCの第五文型があまり使われないという断定が二か所書いてあるが、これは首をかしげる。68、88頁。やさしい物語ではそうかもしれないが、第五文型とその応用形は現実の英語ではきわめて頻繁に使われているし、この文型がもつひきしまったスピード感は英語の醍醐味のひとつ。

■前置詞byの説明に疑問が残る。byは「依存の接着剤。ある一定の揺るぎないものに依存している、もしくはよりかかって、それを頼りにしている状態」だという。156頁。たしかにbyは説明のむずかしい前置詞だが、原義はbe at のような意味で(研究社『新英和大辞典』)、「依存」のニュアンスになることもあるが基本は「接触」「近接」であろう。あるものがあるものに接触ないし近接しているということから、手段、媒介、近接、通過、経路、期限、行為者など多様な意味に活用される。

■of が「所属」という説明が書いてあるが158頁、もう少しコメントがあったほうがいいかもしれない。of の原義は古い英語でoffつまり away from「出所」「源泉」のような意味で、のちにフランス語のdeの意味を吸収して「所属」といった意味へと広がった(研究社『新英和大辞典』)。これがふつうの説明であろう。

■forが「善意の心が働いている接着剤」だという説明があるが160頁、やや危うい。原義はforwardみられるように「前方へ」といった意味の語で、「善意」に限定すると「期間」や「目的地」といった多様な意味が説明できなくなる。私自身は、forとペアになるのがofだと思っている。

■He cried out. 100頁、He looked around. 114頁、He picked it up. 125頁など、従来文法でいう「副詞的小辞 adverbial particle」が本書の例文によく出てくるが、まったく説明がない。これがなんであるかを説明するのは意外に面倒だし、なんとなくわかるということでパスしたのだろうが、ちょっと気になった。

全体に、説明の内容は常識的だったり感覚的だったりするのだが、イラストや口調や改行や思い切った簡略化によって読みやすくなっている。

文法的に正確・詳細であることが魅力になるとは限らないことを本書は教えている。








(つづく)







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aはスポットライト、theはバックライト その1

向山淳子・向山貴彦・たかしまてつを『ビッグファットキャットの世界一簡単な英語の本』(幻冬社、2001年、1300円)

かつての大ベストセラー。

その秘密はどこに?と思いながら読んでみた。

■小さめのサイズであまり分厚くなく値段も手ごろ、当時新鮮だった「世界一〇〇な…」というユーモラスなタイトル、大きなネコと親しみやすい丸文字の表紙、中間色の優しいイラスト、多色刷り。女子高校生から通勤のサラリ−マンまで、安心して買えたのだろう。

■多くのベストセラーに共通することだが、「まえがき」がすぐれている。「今の夫と結婚したい一心での渡米」だったという正直さ4頁。「地道な方法以外に言語を憶える方法はない」、この本で「きっと人生が変わります」といった断定。9、20頁。正直できっぱりしているところが好感をよぶ。

■長年アメリカに住んでいたとか大学で英語を教えているという「著者紹介」も読者の安心をよぶ。

■初心者むけに懇切丁寧なつくりになっている。各章のはじめに読み方ガイドがあったり、むずかしそうなところに「難」マークをつけたり、文法用語の解説もあり、おわりには高度な読み物案内までついている。著者のサイトの紹介や切り取り用の特別ページも。ここまでのサービス精神はなかなかない。

■読者にやさしい工夫だけでなく、全体に「読む」ことこそが言語力をつけるという強いメッセージが書かれている。やさしいばかりでなく一本芯が通っているところが信頼感を与える。

こうしてみると、たんに外見や工夫で売れたのではなく、<読者のために…>という祈りのようなものがある。そこが感動を呼んだのではないだろうか。

語学本はこれくらい丁寧で心のこもったつくり方が望ましい。

そう思わせる本だ。





(つづく)







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"I can speak Dutch!" サムライ英語に学べ おわり

明石氏は次のようにいう。

「他国の異文化を十分に吸収するためには、自国の文化も知らなくてはならない。我が国の歴史や文化、古典や社会について理解していなかったら、異文化を理解するための座標軸がない。」104頁。

ここで誤解しやすいのは、歴史や古典のことを知っていることが「文化」をもつことではないということだ。

知識は素材だから大事だが、素材を生かす根幹部分は「こころ」である。上記の文で「座標軸」というのは心の問題であり、武士道は知識ではなく文化だから時代と地域を超えるパワーをもっている。

文化財は時間とともに劣化するが、心にともす火は時代をこえ社会をこえて受け継がれる。物は滅びるがこころは永遠でありうる。こころをもつ人間という存在は世代を超えて生きていくからだ。

明石氏は、長年の経験から文化は違って当然と思ったほうがよく、そのほうが似ている面が発見できたとき楽しいし、いらぬ失望もしないですむと述べている。98頁

これはいいかえると、自分の根幹部分(文化の神髄)を定めておいて、他の人は他の文化による自由があることも認めるということである。

この心がまえが「自由独立の真骨頂」105頁であり、「われ思う、ゆえにわれあり」である。

文化は自由独立を本質とするのだから、ほんらい他人におしつけるものではない。たとえそれが同国人であっても。

それにしても、英語で"I can speak Dutch!"と叫んだ幕末のサムライの話はおもしろい。

"I can speak English." といっても「私は誰か」を語ったことにはならない。

"I can speak Patrish!"
 
とでもいえれば、自分が誰であるか=自分の文化を名乗ったことになるだろう。






(おわり)











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"I can speak Dutch!" サムライ英語に学べ その4

日本文化とはなにか。

本書がサムライ英語の達人として特筆している新渡戸稲造は、日本文化を「武士道」というキーワードに凝縮してとらえ、それを英文で著述して世界的に知られた人物である。

ところが新渡戸が「武士道」こそ日本文化のエッセンスだと納得するまでに、なんと12年かかったという。197頁。

それは新渡戸が鈍感だったからではなく、無意識にまで洗練された道徳観や美意識の正体はなかなかつかみにくいからである。日本で生まれたいろいろな価値観を「武士道」に凝縮して説明できるまで、新渡戸には長い時間が必要だったのだ。201、198頁。

そして12年かかって新渡戸が到達した倫理の核は、時代と社会を越えて価値を放つ。

「封建制が生み出した武士道の光は、その母体である封建制度よりも長く生き延びて、この国の人の倫のありようを照らしつづけている。」(新渡戸『武士道』)200頁。

突飛ながら、私はここでデカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」を思い出す。これは西洋哲学の額縁に飾ってある言葉のようにみえるが、真相はそうではない。

状況や時代や社会がどうあろうと、自分の考え方はこうだと決めてあれば「ここにわれあり」と胸を張れる。それが「われ思う、ゆえにわれあり」の意味であり、般若心経の境地にも通じるもので、じつは哲学以前の「生き方」論なのだ。

武士道とはまさにその「生き方」である。

文化とは、明石氏のいう「啓蒙された国益」152頁を確定するための「生き方」であり、それは英語を受け入れるか否かではなく、英語をどう受け入れるかすなわち「われこう思う」の部分にあらわれる。

武士道によっても、英語を受け入れないという結論も、受け入れるという結論も可能である。

結論はそれぞれにちがってもよい。「われこう思う」の部分の根拠が文化であり、そこの質において思想の相違が生まれ優劣が生まれる。







(つづく)








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"I can speak Dutch!" サムライ英語に学べ その3

本書によると、外国文化への反発の問題、英語でいえばいわゆる英語帝国主義の問題は幕末からすでに生まれていた。106頁。

幕末、すでに外国の書物を読む者を外国かぶれの「売国奴」とよぶ風潮があったことを福沢諭吉が書いている。106頁。

おもしろいのは新撰組のなかでさえ外国排除型(近藤勇)と外国吸収型(土方歳三)に分かれていたらしいことだ。117‐118頁。

裏を返せば、外国文化の魅力はたいへんなもので、だからこそ守旧派の危機感をあおったということだろう。

今日にまでおよぶ英語への反発について、ひとつの答えは次のハリスの言葉にあるような気がする。

「ヨーロッパが日本に教えたのではなく、日本がヨーロッパに学ぶことを選んだのだ。We are told every day how Europe has influenced Japan, and forget that the change in those islands was entirely self-generated, that Europeans did not teach Japan, but that Japan of herself chose to learn from Europe.」

つまり、日本人が英語をやるということは文化的な衝突をつねに呼び起こす。英語帝国主義論はその衝突のプロセスでかならず起こる反応のひとつである。

無意識の反発や過剰な同化もふくめて、われわれが英語にどういう態度をとるかはわれわれ自身の問題であって、英語に罪があるわけではない。

そう考えると、問題は英語にあるというよりもわれわれ自身のアイデンティティのほうにある。

ここで参考になりそうなのは、国益を考えるときは自国の物益ではなく文化が「座標軸」になると明石氏が指摘していることだ。104頁。

英語受容論も英語帝国主義論も、国益レベルの議論をふくんでいるのだから、なにが国益かを判断する基準はひとつの問題になる。






(つづく)






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"I can speak Dutch!" サムライ英語に学べ その2

幕末から明治にかけて、サムライや知識層が英語を急速におぼえたのはなぜだろう。

もともと太平がつづいたのでサムライは人格や剣術や勉学以外に威厳を示す手段がなかった。

そこへ江戸後期にオランダ語、医学、測量、砲術などの洋学がはいってきたので、サムライは熱心にこれを勉強した。78、80頁。

そのときの彼らの強い意欲と行動力と勤勉さ。173頁。

その根源は目的意識の明確さにあったのだろう。

それと本書が強調しているのは、明治の日本の知識圏にイギリス、アメリカの商人・教師が非常に多く、英語に接する環境が豊かだったことだ。

ここまではいわば予想どおりの解答というところだろう。



つけくわえるとすれば、外国語を吸収するのに漢学の素養が役立ったのではないかと私は思う。

漢学によって語順のちがう言語を読みこなす訓練ができていた。また、サムライたちは漢学によって文字を読むことの重要性を身体で知っていたから、蘭書英書が入ってくるとそれを集めて熱心に読みこなそうとした。


もうひとつは、サムライの身体の頑健さである。剣術や正座などで鍛えた姿勢、呼吸は、硬い身体・硬い声ながらも外国語を制圧する迫力をもっていたのではないだろうか。


それにしても、じっさいのサムライ英語の発音やリズムはどうだったのだろう?

本書は、福沢諭吉も伊藤博文も新渡戸稲造も、発音が完璧とはいえなかったと指摘する。当時の状況からいえば当然であろう。

そしてそれが悪いというわけでもない。

長年国連で活動してきた明石氏は、国際舞台での演説は「訛が少しあったほうが迫力がでるかもしれない」138頁とまでいっている。また新渡戸は発音の外国人風は「隠さんとしても隠しきれぬ」とあきらめていた。

そして新渡戸はさらに開きなおり、英語がうまいかどうかよりも内容と誠実さが大事で、それは相手もわかってくれることだ、「相手の人を疑うことなかれ」とも書いている。177頁。



といっても、発音も語彙もまったく適当でいいという人は少ないだろう。

明石氏も、言葉の選び方に神経を使うデリケートさは大事だという。103、225頁。

私としては、発音は自分が満足するまで磨きつづけるのだという心がまえをもちつつ、じっさいに話すときは相手を信頼して明るく堂々としているのがよいと思う。

そして、明石氏がいうように、もっとも必要なのは言葉をデリケートに使おうとする態度だろう。

言葉を繊細にえらぶには豊かな語彙が必要だが、それを外国語でなんというのか知らないときでも、言葉をていねいに使おうとする態度があればそれは相手にもわかるし、そういう態度が誠実さのあらわれにもなる。








(つづく)





 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 英語ブックス・どれどれ塾 | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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