ごきげんようチャンネル

あなたがたは、終わりの時にいるのに、なお宝をたくわえている。
        ヤコブの手紙 5:3    

アートは祝祭である
むかし読んだ本に、自治体の<まちづくり予算>のなかでいちばん議会に承認されやすいのは、彫刻などの街角アートだという話があった。

アートには文句がいいにくい、誰もがなんとなく肯定しやすい、ということもあるだろうが、真の理由はもっと深いところにある。



アート作品は、現実界にぽっかり空いた穴であり、異界へと人間を誘う入り口である。

いってみれば、アートは非日常、すなわち祝祭そのものなのだ。


祝祭を街に。


アートは、それを実現する力をもっている。



われわれ人間も、ひとりひとりが祝祭であれば、この世はずいぶん面白くなるだろう。










 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | アートする人びと | 21:43 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ジャズを聴くなら、いいサイトがある
このごろ、ジャズが好きになった。

楽器もプレーヤーも曲も多彩だが、ジャズに共通するスピリットは、"リラックスした、清潔感のある自由"。


このスピリットがわかる、24時間無休のジャズ専門サイト(無料)がある。



http://www.jazz24.org/



世界中のリスナーからの寄付と、かけた曲を購入した場合の小額マージンで成り立っているラジオ局だが、アメリカではこういう経営形態が結構成立している。

ネットを通じて文化が世界に発信されている好例である。


ジャズの他にも、文化や情報が世界的にシェアされることで、サイトの経営が成り立つ可能性はあるかもしれない。

もっとも、音楽や画像とちがって、言語による情報は「言葉の壁」がつきまとうが、この壁を突き崩す方法が、いつか見つかるかもしれない。







 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | アートする人びと | 07:17 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「詩は言葉以前の、宇宙内存在としての自己を表現する」(谷川俊太郎)

詩人の谷川俊太郎さんが、大事なことを言っている。



「『詩は自己表現である』という思い込みは、短歌の伝統が色濃い日本人の抒情詩好きともあいまって一般には非常に根強いし、教育界でも未だになくならない。」(朝日新聞、2009年11月25日)



谷川さんが「詩は必ずしも自己表現ではない」というのは、直接には次のようなことを指している。



「古池や蛙飛び込む水の音

という芭蕉の句にはメッセージは何もないし、意味すらないに等しいけれど、何かを伝えている。詩ではことばの音、声、手触り、調べ、そういうものが重要です」(同上)



さらに、詩というものは、次のような特徴がある。



「散文は人間の社会内存在の範囲内で機能するのに対し、詩は宇宙内存在としての人間のあり方に触れようとする。言語に被われる以前の存在そのものをとらえようとするんです。

秩序を守ろうと働く散文と違い、詩はことばを使っているのに、ことばを超えた混沌にかかわる」(同上)






詩が詩であるためには、宇宙を感じている自己を客観的に見る目をもつことが必要である。

自己を客観視し、客観的に自己表現できること。

それが社会内存在としての自己表現なら散文になる。

それが宇宙内存在としての自己表現なら詩になる。











| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | アートする人びと | 00:25 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
宇宙の野人:突目仮面(とつもくかめん) 中国王朝の至宝展から
名古屋市博物館で「中国王朝の至宝」展を見た。



http://china-ocho.jp/



なんといっても印象に残ったのが、突目仮面(とつもくかめん)。

青銅製で、牛の頭をさらに大きくしたくらいのサイズがある。








http://crea.bunshun.jp/articles/-/2233?page=2





蜀の時代、3000年前のもの。



東寺の不動明王のような、無慈悲な宇宙的野性のかたまり。

1945年、長崎と広島を取材したニューヨークタイムスの記者・ローレンスは、原爆を「宇宙そのものの力」と呼んだ。

この異形は、宇宙からヌッとやってきたのだ。




実物の迫力がかなりわかる蘭鋳郎氏のイラストを掲載させてもらう。




画像




http://77422158.at.webry.info/201303/article_2.html











| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | アートする人びと | 09:40 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
聞こえない部分を聞かせる バッハのすごさについて
いまFMで、バッハの無伴奏バイオリン・ソナタとパルティータを流している。

単旋律の部分も多く、退屈そうにも聞こえるが、この曲にファンが多いのは、もちろん、内容がものすごいから。

感情のひだをめまぐるしく展開させながら、気品にあふれているのは、底辺にがっちりした様式があるがゆえ。

素人ながら、楽譜をみたり、部分的に演奏してみたりすることがあるが、そのたびにバッハのすごさがひしひしと感じられる。

これは楽音による思想の展開というべきもので、演奏のたびに立ち上がる祈りのようなものだ。

とくに参考になるのは、この曲には聞こえないところで一貫したリズムと主題が鳴り響いていることである。

音楽は、耳に聞こえない、奥のところに本質がある。

文章もきっとそうなのだろう。










| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | アートする人びと | 07:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ベーコン展 <現実と地続きの仮想空間>
東京でフランシス・ベーコン展をやっていて、『芸術新潮』4月号がベーコンの記事を載せている。


http://bacon.exhn.jp/


そこに、鈴木理策氏と保坂健二朗氏の対談があって、ちょっと考えさせられた。

写真や鏡に映った像=跳躍的に抽象化された現実を絵画の対象にすることで、現実化した抽象を絵画的に表現できる。

ベーコンはこの仕組みを使ったのだろうという。

ところで、この対談には、「現実と地続きの仮想空間」という言葉が出てくる。56頁

言語も、要は「仮想空間」づくりだともいえる。

たとえば、英語を通路にすると、われわれ人間のムード(想)には、


実想
仮想
空想


の三つがあり、そのどれもが、ある前提(原因・理由をふくむ)を足場にして成り立つ想い=帰結である。

どのような空想であろうと、どこかで「現実と地続き」=前提がある。

そこが見えにくいとき、表現はおもしろくなる。

ベーコンの作品がおもしろいのは、<想>の成立条件がわかりにくいからかもしれない。












| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | アートする人びと | 09:32 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
画像の時代の新旧 イラク戦争10年・法王を待つ人々
TIME のオンライン版で、ドキュメント系の印象的な画像が公開されている。


ひとつは、イラク戦争から10年、現地を取材した写真家たちが選んだベストショット集。

真摯に撮影しているのだが、どれも欧米系の目線が感じられる。

イラク人の写真家はいなかったのだろうか。


http://lightbox.time.com/2013/03/18/a-decade-of-war-in-iraq-the-images-that-moved-them-most/?xid=newsletter-daily#1






もうひとつは、サン・ピエトロ大聖堂の広場で新法王の登場を待つ人々を淡々と写した、三分ほどの動画。

夜、雨の下で待ち続ける人々。

白黒の深い映像が、法王の存在を自分の希望にしている人々の姿を見せてくれる。

希望は、深い失望から生まれる。

これは動画の新しい可能性を感じさせる、かなりの秀作のような気がする。



http://lightbox.time.com/2013/03/14/conclave-a-short-film-by-christopher-morris/?iid=lb-gal-moreon










| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | アートする人びと | 23:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
コンサートホールの時代は終わった <小さな社会主義>の音楽へ
さっきNHKのラジオで、鍵盤楽器の歴史を武久源造さんが解説する番組をやっていた(「源造さんが弾き、語る鍵盤楽器の歴史」最終回)。

最後に武久さんが、「コンサートホールの時代は終わった」と語ったことに、私はハッとした。

たとえば、カザルスホールが閉鎖された(2010年。ただし、存続運動が継続中)ことは、その象徴だと。

かつて王侯貴族のものであった音楽が、チケットさえ買えば聞けるようになった。それがコンサートホールという仕組みであり、たしかに民主主義の時代に合致した工夫だった。

しかし、それは同時に、教会など本来の場所から音楽だけを切り離して演奏するということであり、ある意味で不自然なやり方であった。

今や、大きなホールではなく、もっと小さな場所で、それにふさわしい楽器で、あるいはその楽器にふさわしい場所で、何をどのように演奏をするかが模索されている、と。

そしてもうひとつ、武久さんは、日本では西洋音楽を驚くべき努力で摂取し、巧みに演奏できるようになったが、しょせんは模倣と洗練の域を出るものではなかった、とも語った。

これからは、日本の伝統楽器と西洋の楽器とのコラボとか、多様な場所での演奏を試みるとか、根源的な創造性の模索が必要だと。


そうなのだ。

がらんとしたコンサートホールに、作品の歴史性や場所的特性を無視して多数の大衆を集め、そこにあらゆる催し物をおしこめて、資本主義的に採算をとる<音楽の大規模大量消費>の時代は終わった。

西洋音楽一辺倒の時代も終わろうとしている。

それはある意味で、より<正常>な世界への回帰なのかもしれない。

私は、ある意味で資本主義はすでに終わりつつあり、国家規模ではなく、より小さな集団で実質的に<社会主義>を実践していく時代に入っていると思っている。

音楽も同様に、<資本主義音楽>の時代は終わろうとしているのだ。













| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | アートする人びと | 21:25 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
漱石と徴兵逃れ 『こころ』のこころを読む
夏目漱石(1867-1916)は、江戸の口調と漢文の素養と英文の分析力をミックスして、近代的な人間の意識を表現できる日本語表現を開発した人である。

『こころ』はその代表例のひとつだが、これについて、先日亡くなった丸谷才一氏が詳しい批評を書いている。

丸谷才一「徴兵忌避者としての夏目漱石」『コロンブスの卵』(ちくま文庫、1988年所収)

『こころ』は、乃木大将の殉死の報道をみて主人公も自殺するという結末になるが、この部分のすわりの悪さを丸谷氏は問題にしている。

この結末の書き方は、漱石が26歳のとき、日清戦争にともなう徴兵を逃れるため、当時人口希薄により徴兵を免除されていた北海道に自分の戸籍を移したことへの自責の念が関連しているのではないかという。

このあと、漱石は東京を避けて四国に、九州に、そしてイギリスにと移り住むが、この事実をとりあげた次の部分は、丸谷説の白眉であろう。


「ぼくには漱石が、自分の徴兵忌避の現場(それは犯行現場として意識されていたかもしれない)である東京と北海道を逃れて、その反対の方角へ去ったのだと思はれてならない。

北海道といふ島は彼の無意識をどこかで暗く縛っていたから、それゆえ漱石は四国といふもう一つの島に惹かれたのではないか。…

事実これからしばらくのあいだ漱石は、九州という島(熊本の五高)へゆき、イギリスという島へゆきして、東京と地つづきの土地を避けつづけるのだ。」(31頁)


<自分が徴兵を逃れることで、同世代の者を身代わりとして戦地に送り、犠牲にしてしまった>という自責の念が漱石の繊細な神経をかき乱しつづけ、それが『こころ』の結末にも影を落としている。

丸谷氏のこの推測が当っているかどうか。それは今後も確定することはないだろう。

ただ、戦争の発生は運命共同体としての国家意識を高めるので、そのなかにある個人は<忠義な者>になるか<裏切り者>になるか、という二者択一の観念に近づくことが多い。

世に漱石ファンは多いようだが、丸谷氏のように歴史的・心理的角度から漱石の作品を考えてみるのも、なかなか味のある方法だと思う。














| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | アートする人びと | 06:31 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「修道者の服はシンプルで哲学がある」 トルコのパクソイさんにまいりました おわり
この記事を読んで、私は恥ずかしくなった。

自分の生活を考えてみると、ほんらい<その人そのもの>であるはずのファッションや食物までもが工業製品化している。

デザイナーの個人名を冠した高級ブランドにしても、パクソイさんがいう「誰が作ったのかわからないようなデザイン」87頁 すなわち工業製品的な匂いがないわけではない。

資本主義とはすべてが商品化する社会だというが、商品化・工業製品化のなかにどっぷりとつかっている私たちの生活は、これで本当に豊かなのだろうか。

いまの社会では、生活の商品化・工業製品化を完全にまぬがれることはできないにしても、無反省にこのまま暴走していいのだろうか。

このような暮らしが本当の価値を生むことは、じつはないのかもしれない。

自分が恥ずかしくなるということは、パクソイさんのほうが価値が上だからだ。


「修道者の服装はシンプルで簡素で哲学がある」


「哲学」とは、ジャンル横断的=普遍的な価値についての主張である。

私としては、<哲学をユーモアで引き上げる>ことを修道者的に追求することで、商品化・工業製品化の趨勢に物申すような行動を考えている。









(おわり)














| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | アートする人びと | 07:48 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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