ごきげんようチャンネル

科学とは、正確に驚くことである。 Y.M.
           

英語、数学、国語… 学校の教科は科学から見離されている

学校の科目としての英語、とくにその文法は、言語の科学から取り残された<耕作放棄地>のようになっている。

中高の英語教師は学校英文法以外を知らず、大学教員は学校英文法の改善に関心をもたない。



どうやら科目としての数学も同じらしい。

たとえば、次のような記述がある。




「二次元もしくは三次元のユークリッド幾何学は、太古より数学的な思想の根源を養ってきたものだが、今日では、数少ない専門家しか研究しないもので、ないがしろにされている。」



(ジェイ・カプラフ(萩原一郎ほか訳)『デザインサイエンス百科事典』朝倉書店、2011年、ii頁)



この文の筆者は、この本の監訳者で東京工業大学教授の萩原一郎氏。

幾何学だけでなく、おしなべて中学高校でやっている数学は、大学での主たる研究対象でなくなって久しい。

大学の数学教員は、入学してきた学生の学力を嘆くことはあっても、中学高校の数学の改善にみずからのりだすことは少ない。



同じことは、国語にも言えそうだ。

国文学や国語学関係の大学の教員は、国語の入試問題を作ることはあっても、中高生の現代日本語の読解力の改善を自分の仕事にするものではない。






もとより、中高の教員は、科目の内容を根本的に改革したり、教授方法を根本的に改善できる立場にない。

その立場にあるのは大学の教員だろうと思われるが、実際には、大多数の大学教員は中高の教科内容の改善が仕事ではない。

中高でやっている事項は、専門分野としては時代遅れという面もあるから、それを自分の研究対象にしている大学の教員は限られる。

教科としての英数国の教授法を専門にしている大学教員もいるが、その場合、「何を学習すべきか」というより、既存の教科書や学習指導要領の事項を「いかに学習させるか」に焦点をおいているように見える。

もちろん、<いかに>という教授法・学習法も科学の対象になりうる。ただ、<なにを>という、より根本的なところにまで目を向け、改革を提唱する大学教員は少ないのが現状であろう。



こうして、驚くべきことに、国民教養の基礎をなし、専門家を生む沃野となるべき中高の学習内容は、科学の<耕作放棄地>として放置されている。


















| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 教育をどうする? | 22:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
センター試験の国語と英語に悪意を感じた
センター試験が終わったが、国語の第一問をみて、少々疑問をもった。

小林秀雄の文章を題材にしているのだが、省略の多い独特の文体で書いてあり、そもそも文意がわかりにくい。

ある意味、これは独善的で古くさい文章である。

今どき、こういう文を読めなければならないかのように出題する理由がわからない。

そこへ、わずらわしい内容の、まぎらわしい選択肢を並べた設問がいくつもつづく。

いったい、これはなにを目的にして作った問題なのだろう。

私は、現代国語という科目じたいは存在理由があると思っている。高度な日本語を通して知識や感性を養ったり、複雑なロジックを追ってじっくり考える練習になるからだ。(じっさいの高校の授業がこのような存在理由にふさわしいものになっているかは別だが)。

特殊な、特定の大学の問題ではないのだから、センター試験ではもっと標準的な現代文を題材にして、高校生に「読む」ことの面白さを教える機会にするくらいの度量がほしいと思う。





英語は、問題の内容をまだよく見ていないが、うんざりするほどの量になっている点はあいかわらずである。

しかも、今年の国語の一番とは対称的に、内容があまりに平俗というか、それがどうしたのだ?と聞きたくなるようなことが並べてある印象である。これも例年どおりである。

だが、18歳が80分でこんなに大量の、しかも嫌気がさすような内容のものをやらねばならないというのは、これまた、なにが目的なのか、よくわからない。

大量にしておけば、うんざりするかしないかで忍耐力が測れるとでもいうのだろうか。しかし、これではうんざりするほうがむしろ正常なのではないだろうか。

それとも、適度な得点分布を実現するためにこんなに大量にしてあるのか。だとすれば、受験生はただのサンプルなのか。

おそらく、TOEFL など、昨今の有名テストの傾向とも関係があるのだろうし、去年がこうだったから今年も…という発想もはたらいているだろう。

いずれにせよ、国語と同様、これは特殊な特定の大学の入試問題ではないのだから、もう少し教養のある内容を、もう少し少数にしぼって出題して、外国語というものの面白さを少しでも若者に感じさせるように出来ないものだろうか。





他の科目はまだみていないが、国語と英語をみるかぎり、はっきり言って出題者の悪意さえ感じた。

なぜ、こんなにわずらわしい問題をつくってわざわざ質問するのか。なぜ、こんなにうんざりするほど大量に味気ないことを聞いてくるのか。

これは国語や英語に嫌気がさすように意図しているのではないか。

もちろん出題者は、「悪意はない」と答えるだろう。

しかしそれが、悪意があるようにみえることに気づいていない、という意味なら、無神経な愚か者である。

またそれが、悪意があるようにみえるというのはおかしい、という意味なら、「見解の相違」ということになる。

だが、ひとつ言えることがある。

こういう問題に答えることで、50万人の若者が国語や英語の面白さを感じることができるか。

もちろん、答えは「ノー」である。

ならば、いったい、この国語と英語の問題は、なんのためにあるのか?











| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 教育をどうする? | 21:47 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
アメリカ版「教育勅語」は矛盾だらけ おわり
ところで、いま使われている文句には under God という言葉があるが、これはベラミーが書いた原文にはなかった。

冷戦時代の1954年、保守派カトリック団体などが議会にはたらきかけて、社会主義・共産主義を排除する趣旨で付け加えたのだという。(『どうするオバマ、さらばブッシュ』前掲、187−191頁)


しかし、もともと「誓い」の作者は under God と叫んだ聖職者であり、国家社会主義者であった。

under god という語があろうがなかろうが、「誓い」が国家社会主義と親近性をもっていたという事実は消えない。

共和党を中心に、今回の大統領選挙では「真のアメリカ人」かどうかの試金石として「忠誠の誓い」への忠誠度がくりかえしもちだされている。

ところが、冷静に考えてみれば、「保守」を自称する人々のこの発想が大きな矛盾をかかえていることは明らかである。

この記事が述べているように、「個人の自立、家族の価値、神への信仰」といいながら、同時に個人と家族の国家への忠誠を叫び、実際上、神のうえに国家を置いているからである。



"It's ironic to see conservatives rally to such a questionable custom," Gene Healy, a Cato Institute scholar, wrote in 2003, when the California pledge case was originally in the news. "Why do so many conservatives who, by and large, exalt the individual and the family above the state, endorse this ceremony of subordination to the government? Why do Christian conservatives say it's important for schoolchildren to bow before a symbol of secular power? Indeed, why should conservatives support the Pledge at all, with or without 'under God'?"

http://www.npr.org/blogs/itsallpolitics/2012/09/11/160936717/politics-the-pledge-and-a-peculiar-history





もとより、人が抱く「信念」は、このように無意識のうちに矛盾していることが多い。日本の保守にしても、現実には対米追従を当然視しながら、口では「アメリカ製の憲法」に嫌悪を示し、民族独立を追求しているかのような自己像に満足している。




1943年、米国最高裁は、「忠誠の誓い」を学校の生徒全員に暗唱を強制することは違憲と判断したが、「忠誠の誓い」が廃止されることはなかった。

それから数年後の1947年、敗戦日本では国会の議決によって教育勅語が廃止された。

教育勅語と「忠誠の誓い」は、1890年代に生まれたところは同じであったが、「忠誠の誓い」は約半世紀後に強制が違憲化されながらも生き残り、教育直後は全面的に廃止されて運命が別れた。

そして「忠誠の誓い」は、ナチスの面影さえ引きずりながら、いまもアメリカで唱えられ、「保守的アメリカ人の良心」の試金石とさえなっている。

自分よりも偉大なものに献身する自分への陶酔。

それを他者に強制するとき、人間の社会は必然的に「苦」の種をかかえこむ。

これを私は「社会苦」と呼びたいと思っている。仏教が問題にした「苦」には、個人が経る生老病死の「個人苦」だけでなく、人間集団が必然的にかかえこむ「社会苦」も含まれていたと思う。

そして政治学や歴史学のテーマは、「社会苦」の構造の解明と処方箋の開発にある。








(おわり)









| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 教育をどうする? | 10:03 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
アメリカ版「教育勅語」は矛盾だらけ その4
この記事に掲載された写真(下)には、アメリカの子どもたちがナチスに似たしぐさをしながら「忠誠の誓い」を暗唱している様子が写っている。




Schoolchildren in Southington, Conn., recite the Pledge of Allegiance in 1942, around the time the custom of placing a hand over the heart replaced the original hand position.

「忠誠の誓い」を唱える子どもたち. 
1942年、米コネチカット州 

http://www.npr.org/blogs/itsallpolitics/2012/09/11/160936717/politics-the-pledge-and-a-peculiar-history




このしぐさは、ナチス台頭よりも以前からアメリカが行っていたものである。

ところがナチスがこのしぐさをはじめたので、同一視されるのを避けるため、第二次世界大戦中にアメリカは手を胸に当てる方法へと変更したのであった。

ただ、ここで驚くことがある。あのしぐさは、ナチスがアメリカを真似たものだったというのである。



Or that the original recommended posture was with a straightened arm raised upward and outward? Or that it was changed to the hand over the heart during World War II after the Nazis adopted the original as their salute?


ナチスのあの独特のしぐさは、アメリカを真似たものだった!

たかがしぐさの話ではあるが、この事実は、ファシズムの源流のひとつがアメリカにあるのではないかとさえ疑わせる、何かがある。








(つづく)












| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 教育をどうする? | 09:51 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
アメリカ版「教育勅語」は矛盾だらけ その3
「誓い」の作者が「ファシスト」であり、キリスト教の聖職者でもあったというのは、私にとっては二重の衝撃である。

国家への忠誠はファシズムへとつながっている。宗教の理想は全体主義にもつながっている。

むろん、ファシズムも全体主義も極端な政治形態であって、アメリカの理念とは対極的だ。

しかし、政治の「愛国」や宗教の「理想」は、つきつめればファシズムや全体主義とつながる部分をもっている。

ファシスト聖職者が作った文を、今もアメリカ国民がある種の感動をもって暗唱していることは、その生きた証明である。






(つづく)








| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 教育をどうする? | 09:18 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
アメリカ版「教育勅語」は矛盾だらけ その2
ところで最近、ある記事をみて私は目を疑った。

「忠誠の誓い」を書いたフランシス・ベラミーは、社会主義は社会主義でもイタリアやドイツ流の「国家社会主義者」つまりファシストで、しかも教会説教師 a fascist  preacher だったと書いてあるのである。

http://www.npr.org/blogs/itsallpolitics/2012/09/11/160936717/politics-the-pledge-and-a-peculiar-history


フランシス・ベラミーは、<イエスは社会主義者であった>という内容の説教をしたためにパプティスト派教会の地位を追われた聖職者で、合衆国の未来は個人の生活の事実上すべてを政府がコントロールする統治形態にあると考えていた。


Francis Bellamy was a minister who was thrown out of his Baptist post because of sermons describing Jesus as a socialist. He and novelist cousin Edward Bellamy both saw a future for the United States as a country in which the government controlled virtually every aspect of a person's life.


そういう人物の書いたものがなぜ全米で暗唱されることになったのか。

同記事によると、ベラミーと彼の友人たちはハリソン大統領を説得し、コロンバスの新大陸到着400周年祝賀会の一部にこの「誓い」を入れることに成功した。それがきっかけで全米の公立学校で暗唱されるようになったという。

ベラミーが寄稿していた雑誌は旗のセールスでも成り立っていた。当然のことながら、全米で旗にむかって毎日「誓い」を暗唱するようになると旗の売り上げが上がる。「誓い」には、こうした商売的な計算もあったようだ。


Francis Bellamy (who also wrote for a magazine underwritten by flag sales and therefore stood to gain by having schools require a flag salute each day) and his friends got President Benjamin Harrison to incorporate Bellamy's pledge into the 400th anniversary celebration of Columbus' arrival in the New World. It has been recited in public schools ever since.





(つづく)






| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 教育をどうする? | 09:16 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
アメリカ版「教育勅語」は矛盾だらけ その1
アメリカの小学校で、手を胸にあて、星条旗に向かって子どもが暗唱する有名な文句がある。

the Pledge of Allegiance(忠誠の誓い)というのだが、全文は次のようになっている。

"I pledge allegiance to the flag of the United States of America, and to the republic for which it stands, one nation under God, indivisible, with liberty and justice for all."

(文中のitは the flagを指す。宗教色をなくすため、under God を削除したバージョンで覚えさせる学校もあるらしい)

1892年、フランシス・ベラミーという社会主義者のアメリカ人が書いた文で、ハリソン大統領の推薦をうけ、子ども向け雑誌を通じて大流行したのがはじまりだという(マイケル・ムーア『どうするオバマ?失せろブッシュ!』青志社、2008年、187-191頁)。

アメリカ人に「忠誠の誓い」を知ってるかと聞いてみると、たいていスラスラと、あっと言う間に唱える。手を胸にあてないと調子が出ない人もいる。

ちなみに、日本の教育勅語は1890年発布だから、ほぼ同時期である。

児童に暗唱させるものであり、内容もアメリカという国家体制への忠誠であるから、これはいわばアメリカ版の「教育勅語」である。








(つづく)










| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 教育をどうする? | 22:46 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
カーンの若々しい魅力 
わかりやすい無料ネット講義(算数、数学、経済学など)で話題の<カーンアカデミー>主催者・Sal Khan氏のライス大とMITでの卒業生向けスピーチを見た。

http://www.khanacademy.org/new-and-noteworthy/v/salman-khan-at-rice-university-s-2012-commencement


卒業式でのスピーチといえば、アップル社の故スティーブ・ジョブズがスタンフォード大でおこなったスピーチが有名だが、カーンは学生にジョブズの宇宙観、人間観に類似したことを述べている。

五十代で死に近づいたジョブズは、宇宙の輪廻のようなものを語った。そして三十代のカーンは自分を宇宙の一部として見ることを学生たちに勧めている。

"When your ego starts feeling a little bit large, keep in mind the sun will supernova one day, the galaxies collide. We are just small mammals on this small planet."

つまり"Put them in perspective of the universe." ということだが、私もこの見方に賛成だ。

賛成というより、太陽が新星になり銀河が衝突するのは科学的な事実であって賛否の問題ではないから、「そういうことを思い出すのが好きだ」というべきか。

人間は宇宙のなかのちっぽけな存在である。だからこそ、私たちは自分の可能性を十分に活かしていくべきだし、そうしてかまわないし、そうすることができるはずなのだ。

もうひとつ、他人の人生を生きるのではなく、自分の道を追求すべきことを強調しているところもジョブズに似ている。

Some come from environments where most of their lives they have had to hide their passions, their gifts for fear of looking different.

But they come here suspecting that this might be a place where they can spread their wings, where they can explore the world.




このように、自分を宇宙の輪廻の一部とみたり、他人に左右されず自分の道を打ち立てることを重視する見方は禅的である。

ジョブズは禅を知っていたが、禅とは無縁のようにみえるカーンもまた、禅の思想に類似したことを述べているのが注目される。

二人とも宗教用語を使わずに、人間の生き方を根底から考えて表現している。

「世界が仏教のほうに近づいてきている」と、先日会った臨済僧が言っていたが、それはほんとうなのかもしれない。

そしてなんといっても、カーンの話で感動的なのは、十分な収入を約束されていた金融関係の仕事を辞めて、一銭にもならない無料教育サイトをはじめたことだ。

はじめてから9ヶ月、まったく収入がなくて困ったというが、それにつきあった奥さんも偉い。

けっきょく、事業の成功・不成功は、感動を呼べるかどうかにかかっている。感動すれば、人は損得を越えて援助しはじめる。

人間が信頼できるものであることを示す。その意味でも、やるならカーンのように感動を送り届ける事業をはじめたいものだ。







| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 教育をどうする? | 23:31 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
大学教育の弛緩について 米メリーランド大分校の挑戦
大学教育の弛緩が、アメリカでも日本でも問題になっている。

米CBSテレビがメリーランド大学ボルチモア校の取り組みを紹介した番組があった。

http://www.cbsnews.com/video/watch/?id=7411990n&tag=segementExtraScroller;housing

熱心な学長(黒人・数学専攻)が、理系教育の立て直しに奮闘している様子を紹介したドキュメンタリーだが、いくつか感想を。

◯ 入学前の情報・やる気を維持させる仕組み・きちんとした講義内容が重要だ

この学長は、「君たちはできるのだ。できるから入学させた。We accepted you because we know you can do this work. 入学させた以上、卒業まで責任をもつ」と言っていた。

もちろん、ある学生が<できる>かどうかは、実際にやってみないとわからない。だからインタビュアーは「かならずできる、というのは夢想ではないですか?」と聞いている。

しかし問題は、入学した学生に能力があるかないかではない。情報を伝え、やる気を維持させ、きちんと教える仕組みが大学にあるかどうかである。

入学前に大学の内容を正確に伝え、そのうえで入学した学生にはやる気を維持させ、しっかり教える仕組みがあれば、大学は責任を果たしているといえる。

そのうえで、やめるかどうかは学生本人の問題である。



◯ 規律の立て直しは重要である

番組でいちばん印象的なのは、学生が列を組んで教室を移動する場面である。

きちんと列を作らねばならず、勝手に歩くことは許されない。("Gaps in a line are not allowed.")

また、授業に携帯電話などの電子器機をもちこんでもいけない。("There's no-telephone-rule: no electronics, no headphones.")

そして、競争ではなく、互いに助け合う姿勢が強調される。("The key to success, they are told, is collaboration, not competition.")

どれもアメリカの大学の常識的なイメージに逆行しているが、私はこれは良い方法だと思う。

規律は教育にとって大事である。

規律は、まず外面の整備からはじまる。制服を着た瞬間、いやでもしゃきっとするという職業人は多い。




◯ 学問がほんとうに面白いと思っている人が教えるべきである

この学長のいいところは、たんに大学の仕組みの建て直しに熱心であるだけでなく、学問じたいも、学問している若者の姿も、「鳥肌が立つほど感動する get goose bumps」と言っているところだ。

学問に感動していない人が学問の魅力を伝えることはむずかしい。

外面を規律するだけでなく、内容の面白さはもちろん重要である。





この大学が今後どうなっていくか。

この学長が去ったあと、どうなるか。

それはわからないが、この学長が学生に次のように言っていた。おおむね正しいと思う。

"I want you to keep dreaming about the possibilities.  Nothing takes place without hard work, attitude, and getting support from each other.  That's what this is all about.  Focus!  Focus!  Focus! "














| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 教育をどうする? | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
"Raise the Bar! " 高いバーこそ能力を引き出すという原理について
アメリカのニュースサイトの動画広告に、

”アメリカの教育レベルが落ちている。ある国際テストによれば世界で17位だ。なんとかしなければ!”

と訴えているものがある(画面では、一位はフィンランド。日本は二位となっていた)。

たぶん中学か高校の数学・科学のテスト結果なのだろう。

そこに出てきた表現が印象的だった。

"Let's raise the bar,  and elevate our academic standards. "

raise the bar というのは高飛びのバーを上げることからきた表現で、set a higher standard (基準レベルを高くする)のこと。

全体のレベルを上げるためには、ふた通りの発想がある。

① 課題をより容易化することで成績不振の低層部分を引き上げる。

② 目標をより高度化することでやる気を鼓舞し、全体のレベルを上げる。

多くの人が習得に困難を感じて進歩しない場合、習得の内容や方法が学習者の興味に合致しないとか難解すぎることが多い。この側面に対処するには①の容易化を実行する必要がある。

逆に、全体のレベルが上がらないのは目標が低すぎたり不明確であることも原因になる。この場合は②の高度化をはかる必要がある。

近年は①の容易化がおもに進行し、②の高度化が忘れられる傾向がある。"Let's raise the bar." というキャンペーンは、こうした傾向を批判し、レベルを上げる必要を訴えているわけだ。

おそらく多くの場合、①と②を併用するのが正解であって、両者が互いに影響しあったとき、最良の結果が得られるのであろう。

以前に小学校の先生方と話したとき、

「小学生も5、6年生になると、『簡単だからやってみよう』ではなく、『これは難しいけれどチャレンジしよう!』と言わないと生徒は乗ってこない。」

と言っていたのが印象に残った。

「簡単だからやってみよう」というのは、人間の心理の一面にすぎない。「難しいからこそやってみたい」という心理も大切なのである。

何かをなしとげようとするときは、誰もが出来るように工夫しつつ(私のいう「下げて平等」)、他方で We'll raise the bar! と公然と宣言する必要がある。








(おわり)







| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 教育をどうする? | 17:08 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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