ごきげんようチャンネル


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文法・音法・書法という規範を習得するプロセスを商品にすること おわり

さて見えてきたことというのは、言語の音声表現や文字表記にもいくつかレベルの違う規範が存在するということである。

音声の基礎的規範を音素と呼ぶが、音声が具体的な語になるときの規範についてはとくに定番的な名称がないように思う。さらに語が文に入り文が集まって文章になるときの音声の規範については研究の蓄積が薄い。

文字表記の規範についてはさらに研究が少ないだろう。

むかし東後勝明氏の本に「英音法」という言葉があったが、見えない言語ルールたる文法・英文法に対して、聞こえない音ルールたる「音法」「英音法」があり、読めない文字ルールたる「書法」「英書法」があるということである。

してみれば音素のほかに「語音法」「文音法」「文章音法」があるとでも言えばいいだろうか。

音法の研究がすすんでいない原因のひとつは音法の基礎になる音素の理解が長いあいだ確定しなかったことにある。

サウンド・ステップスは英語の音素レベルの規範を確定したが、さらに「語音法」にまで高める必要があるし、これは可能である。

しかしサウンド・ステップスでは「文音法」「文章音法」までは無理がありそうだ。これはむしろセリフ練習的なレベルになるだろう。

言語の習得とは規範の習得であり、規範には文法・音法・書法の三つの側面があり、それぞれの側面にいくつかの段階がある。

それぞれの規範をそれぞれの段階にそって明らかにし、明らかにした規範を習得するプロセスを商品にすればよい。






(おわり)






| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | サウンドステップス | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
文法・音法・書法という規範を習得するプロセスを商品にすること その1

ひとつ見えてきたこと。

言語は語と文と文章からなる。この三つのレベルのそれぞれに独自の規範がある。

三浦つとむはそれぞれを「語法・文法・文章法」と呼び全体を「言語法」とでも呼ぶのがいいと述べている(三浦つとむ『認識と言語の理論 第三部』勁草書房、1972年、15頁)。

英語の場合なら、

仝譴砲弔い討竜範を語彙
∧犬砲弔い討竜範を文型
J絃呂砲弔い討竜範を文章法

と呼んだらどうかと私は考えている。規範の内容からみると,廊△法↓△廊に止揚される。

英語で「文型」といえば五文型の話になるのが普通である。これは狭義の「文型」と呼ぶことにして、疑問文の語順など英語を文として成立させる規範のすべてを広義の「文型」と呼んではどうかと私は思っている。

語彙と文型を区別しない人が多いが、これがひとつの語に多くの「用法」が成立するという煩瑣な辞書的説明や文法の混乱の原因になっている。

たとえばyesterdayは単独の語(語彙)としては話し手のいる時点の一日前を指す代名詞として成立した語であるが、文に入るとき(文型という規範にしたがうとき)は副詞としても使えるという文法が成立している。

言語は語彙のレベルでもっとも一般的な意味をにない、それが文→文章となるにつれてより特殊で具体的な意味へと止揚されていく。語としての外形は同じでも担う意味のレベルが異なるので運用のさいの規範も高度化するのである。

しかし語としてのyesterdayと文のなかのyesterdayは外形が同じであるため、語彙と文型をごっちゃにする悪弊が定着している。そのためにyesterdayひとつとっても自信をもって運用できない人がけっこういる。







(つづく)








| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | サウンドステップス | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
私の本を紹介します 『なぜ英語の発音はむずかしい? サウンド・ステップス美発音塾』

(以下は中部大学の学内交流誌『ANTENNA』#101 (2012年12月号)に載せた「自著を語る」を再掲したものです)


三浦陽一『なぜ英語の発音はむずかしい? サウンド・ステップス美発音塾』 


外交史の研究や翻訳で何十年と英語に接してきたけれど自信がもてない。留学もしたし英語の資料もたくさん読んだ。しかしどこに問題があるのかわからなかった。

数年前に気づいたのは、すべてが中途半端だったということだ。発音などは中途半端の第一のものだが、かといってシャワーのように英語を聞けだの音声学をやれだのではダメであることは経験からわかっていた。

 根本からやりなおす。それにはなぜそれが難問なのかを考えてみることだ。まるでカントだが、それをやってみたのがこの本である。

 人間が高度な言語能力を身につけるには文字を利用する。近代のイタリア語もフランス語もロシア語も中国語も日本語も、「国語」として成熟するには文字(正書法)の確立が不可欠だった。

ところが英語は西欧語のなかでもつづりと発音のズレが大きいままで今日に至っている。だから英語はとくに読みにくい。そもそもそこに英語のむずかしさが潜んでいるのだが、そこに気づく人は少ない。

 on, you, family, second, girl, young…こういう単語を辞書で引くと発音記号が載っている。意外な発音が書いてあって驚くはずだ。「アンテナ」はantennaだが、どこにアクセントがあるかわかるだろうか。

 どう読むのかわからない言葉をどうやって人は自信をもって習得できるだろう。発音記号は人類が生み出す言語音をすべて記号化しようという壮大な試みだが、そのはじまりは読みにくい英語を読めるようにしたいと切望したフランス人英語教師の小さな研究会だった。そういう「そもそも…」の話を書いてみた。

私が開発し本書で紹介した「サウンド・ステップス」は、英語という異質な声の体系を全身で感じとって私たちの「身」に入れる方法である。基本を詳解したが、これだけだとたんなるメソッドになる。将来はこのメソッドを内包しつつ日本人の身体能力を生かしたアートを創作したいと思っている。

 

 (中部大学ブックシリーズ ACTA16、定価700円+税)





 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | サウンドステップス | 00:00 | comments(4) | trackbacks(0) | - | - |
サウンド・ステップス美発音塾が出版されました

サウンド・ステップスの本、出版しました。

三浦陽一『なぜ英語の発音はむずかしい? サウンド・ステップス美発音塾』(中部大学ブックシリーズアクタ、2010年、700円+税)

目次を紹介すると、

第一章 言語と人は文字で育つ − 世界史が示していること

第二章 英語のつづりは読みにくい − ズレてしまったつづりと発音

第三章 発音記号の誕生 − フランス人も英語は読みにくかった

第四章 その「手」があったか! − サウンド・ステップスの発見

付録 はじめてわかる発音記号 サウンド・ステップス「タッチパネル」



今後はこれがサウンド・ステップスのテキストとしてつかえることになりました。

周りの人は読みやすいと言ってくれています。

右欄からアマゾンで買えます。ぜひひとつどうぞ。

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | サウンドステップス | 11:38 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ヘレン・ケラーの中指について

目、耳、口が不自由だったヘレン・ケラー(1880‐1968)が来日したとき、奈良の大仏を見物した。

説明をうけた彼女は

「なぜ大仏は右の手をあげ、中指を前に出しているのか」

とたずねた。

案内した京都大学の教授が答えられずにいると、

「盲目の人が物にさわるのはまず中指。だから大仏が衆生の様子をさぐる姿はこの形が適していますね。」

と言ったという。(小原二郎監修『インテリアの人間工学』ガイアブックス、2008年、34頁)

ところで人体には「二点識別能力」という指標がある。二本の針を間隔をおいて皮膚に押し付けたとき、二点に感じ分ける最下限の寸法のことで、触覚の敏感さを示す。

それによると、人体でもっとも敏感な部位は舌の先端で、1ミリの間隔を感じ分ける。次は指先で、5ミリあれば感じ分ける。ちなみに手の甲は31ミリ、顎や胸は54ミリとなっている。(前掲書、33頁)

仏像はふつう口を開いていないが、どれも手で感じ取ったものを口で味わっているように見えるのは私だけだろうか。

仏像というのは、ちょうどお医者さんのように患者の症状を手で感じ取り慰撫したあと、口を開いて相手にあわせた仏法を説く。そういうものなのだと思う。

それはおそらく、食べ物を手でとって口に運ぶというもっとも原初的な行為と無関係ではないのだろう。

手から口へ。

これがサウンド・ステップスの原理でもあることは言うまでもない。



| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | サウンドステップス | 00:16 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
しゃがめない西洋人たち 身体儀礼の発見 おわり

モース(1872‐1950)という人は、デュルケーム(1858‐1917)の弟子にあたる。

その生涯は、ちょっと興味をひく。

若い研究者だったころに第一次世界大戦に従軍し、師デュルケームの一人息子や親友・同僚が前線で命を落とした。

そして第二次世界大戦。ドイツの占領下に職も住居も追われ、疲れ果てて1950年、知人の顔の見分けもつかないまま死去したという。10頁。

ふたつの世界戦争がこの社会学者に与えた痛手はどういうものだったか。

どの時代に生きるか。それを人は選ぶことができない。




(おわり)











| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | サウンドステップス | 19:52 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
しゃがめない西洋人たち 身体儀礼の発見 その4

民族学では技法と儀礼を区別する。

伝承的行為のうち、実用性のあるものを「技法」、象徴的行為を「儀礼」と呼ぶ。

たとえばオーストラリアの原住民は、狩猟の実際的な「技法」をもっているが、他方で狩猟の前に水晶のかけらを口にふくみ、呪文を唱える。典型的な「儀礼」である。

ところが、もしもこの「儀礼」によって心理的に勢いづき、狩猟がうまくいくのであれば、それは立派に実用性があることになる。7頁。

つまり「儀礼」は、角度を変えればなんらかの実用性がある。だからこそ伝承されていく。

ならば、すべての儀礼は技法でもあるとさえいえるかもしれない。

ここで、突然だが<日本人にとっての英語>という問題に話をうつしてみる。

多くの日本人にとって、英語はめったに使うことのない、その意味で実用性のない「儀礼」である。だから「英語やるのはいいけど、いったいいつ使うの?」という疑問も頭をよぎる。

しかし、「儀礼」であるからこそ、たんなる実用性を超えた意味を獲得できる。

たとえば英語ができることで自分に自信が生まれたり、美人に見えたり、知性的にみえるかもしれない。

つまり

<日本のような環境では、英語は儀礼として高い価値をもつ>

というのも真実なのだ。

英語は身体儀礼だ。

これは私にとってひとつの発見だ。




(つづく)











| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | サウンドステップス | 19:24 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
しゃがめない西洋人たち 身体儀礼の発見 その3

さて、言語も身体をつかった技法すなわち「身体技法」のひとつである。

言語の身体性は発音において明確になる。

黒川伊保子『日本語はなぜ美しいのか』(集英社新書、2007年1月)に、次のような話がある。



両手を挙げて背伸びする動作と、手を胸の前でクロスして身を縮める動作をリズミカルにくりかえしてみる。

このとき、up,down と声を出すと、やりやすいし、かっこいい動きになる。

ところが、「ウエ、シタ」といいながらやると、リズムがくずれてへっぴり腰になってくる。

そこで、「ウエ」のときには天を仰ぎ、「シタ」のときは床を踏みしめようと意識してみると、がぜん身体の動きが伸びやかになり、舞のようにエレガントになる。

「up,down の発音体感が、本人が上に発射されたり、下に沈んだりする感じを与えるのに対し、ウエ、シタの発音体感は、本人が身を低くするウエと、本人が何かの上に乗る感じがするシタであり、話者の立ち位置が逆になるのである。」81頁。

つまり、up・downとウエ・シタの違いは、「自分が世界の中心にいる感覚と、世界に対して自分を位置づける感覚」の違いである。82頁。



なるほど、言語という身体技法の文化性(言語ごとの違い)がわかる気がする話だが、これは英語のup,downが一音節であるのにたいして、日本語のウエ、シタが二音節であることと関係があるだろう。

いずれにせよ、ここで大事なのは、上記のup・downとウエ・シタの違いが誰にでも「わかる」という事実である。

洋の東西を問わず、人間でありさえすれば「共鳴」できる「発音体感」の基礎をもっている。だから違いが誰にもわかる。

その基礎とは、人間として共通にもつ「身体」である。

どの言語の発音体感でも、人間の身体をもっていれば共鳴できる。つまり言語についても、人間の文化性の基礎に文明性があり、文明性の基礎は身体にある。

言語は身体技法であり、身体技法は文化的であると同時に文明的である。





(つづく)









| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | サウンドステップス | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
しゃがめない西洋人たち 身体儀礼の発見 その2

「身体技法」というのは、文明と文化について考えさせるところがある。

あまり知られていないが、人間の赤ちゃんは放っておいて歩くものではないそうだ。

以前NHKの科学番組で、人が立って歩いているのを見たことのない赤ちゃんは、二足歩行をはじめないというのをやっていた。じっさい、人を見ずに育ったアヴェロンの野生児は四足歩行だったというから、これは事実なのだろう。

つまり二足歩行は人類特有のもので、かつ人類共通のものだが、先天的なものというより文明的な能力ということになる。(文明論でいう人類史の五大革命の第一は「人類革命」であり、これは二足歩行にはじまる人間の成立のことをいう。つまり二足歩行は「文明」そのものなのだ)

しかし同時に、二足歩行には文化的な側面もある。江戸時代の日本人はナンバという左右の手足を同時に出す方法で歩行していたという。同じ二足歩行でも、文化によって違いがあり、その違いこそ文化である。

このことは文明と文化の関係を考えさせる。

文明と文化はしばしば対立するというイメージがあるが、二足歩行の場合、二足歩行という事実そのものは普遍的(文明的)で、その上に社会ごとの独自性(文化性)が実現している。(モースもこのことに気づいていたらしい。4頁)

逆に、ある地域に特有の文化であったものが、他の文化にも受け入れられて文明化するものもある。

ある文化が文明の波に飲み込まれても、その文明の実行の仕方には文化的な個性が出る。ファッションにしてもクルマの製造にしても政治制度にしても、そういうものだろう。ほんらい、人間の社会は文明性の基礎のうえに文化性が育つという二重構造になっており、文化と文明は相互に交替可能なものなのだ。

英語でもそうで、英語を文明性(普遍性)のひとつとして受け入れても、それでただちに日本の文化が破壊されるのではない。英語という文明の実行の仕方において、文化はさらに経験を積み、洗練される。

逆に、その文明の受け入れ方(文化)が優れたものであれば、他の文化にもその方法が受け入れられる可能性もある。たとえば、日本生まれの英語の受け入れ方(文化)が他の社会でも受け入れられるかもしれない。

そのうえ、英語で成功すれば他の言語でも同じように文化→文明の流れが発生する可能性だって考えられる。

文明は文化となり、文化が文明となる。「巻き込まれながら巻き返す」という小田実流の逆転がありうるのだ。






(つづく)







| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | サウンドステップス | 20:50 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
しゃがめない西洋人たち 身体儀礼の発見 その1

マルセル・モース(Marcel Mauss, 1872‐1950)というフランスの社会学者がいる。

「身体技法 les techniques du corps」という概念を提唱したことで知られるが、その学説の解説をのぞきこんだら、ちょっとおもしろかった。(井上俊・伊藤公雄編『社会学ベーシックス8 身体・セクシュアリティ・スポーツ』世界思想社、2010年3月)

モースの文章が引用されていて、これが目に浮かぶような話になっている。

「幼児がしゃがむのは普通である。ところが、われわれは今となってはしゃがむことができない。

私は[第一次世界大戦の]前線でオーストラリア兵(白人)と一緒に生活した。泥や水のなかで休息するとき、彼らはしゃがみこみ、かかとを濡らさずにすんだ。ところが私はというと、足を水につけ、長靴をはいて立ちつづけるしかなかった。

われわれ以外の全人類がしゃがむことができるのに、われわれだけがしゃがむことを禁じてきた。これはきわめて愚かな誤りである。」(12頁より要約)

そういえば、デューク更家氏がテレビで、このごろは西洋式の便器が普及したせいで日本人の下半身が弱ってきたという話をしていた。西洋ではしゃがまないことを悔やむ人がおり、逆にこのごろの日本ではしゃがまないほうを選ぶ風潮があるということか。

むかし日本人論が流行したとき、会田雄次氏が、母が子を危険からかばう姿勢のちがいを指摘したことがある。子どもを暴漢から守るとき、日本人の母親は暴漢に背を向けて子どもにおおいかぶさる。西洋人(?)は暴漢のほうに顔を向け、あいだに割って入ろうとする。

無意識のうちに人間をしばる「身体技法」は、たしかに存在するようだ。





(つづく)









| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | サウンドステップス | 08:36 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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