ごきげんようチャンネル

"Life is too short to wake up with regrets." author unknown
           

チキンラーメンからカップヌードルへ 形式の改善で世界食品に飛躍

日清食品の創立者・安藤百福(ももふく)氏が1958年、自宅の小屋でインスタントラーメンを発明した時の話は、よく知られている。

奥さんが天ぷらを揚げるのを見て、味付けした麺を乾燥させる方法を思いつき、工夫の末に、インスタントラーメンが誕生した。

インスタントラーメンは、お湯をかけただけで食べられる「魔法のラーメン」として人気になった。しかし、安藤氏の工夫はまだ続く。

1966年、欧米視察に出た安藤氏は、紙コップにチキンラーメンを砕いて入れ、フォークで食べている人の姿を目にする。飛行機で配られたマカデミアナッツの容器に密閉用の「フタ」がついていることにも感心する。

そして1971年、世界初のカップ麺「カップヌードル」が発売された。

カップヌードルは、チキンラーメンがカップに入っただけのようにも見えるが、これが大きな飛躍となった。

 

 

 

 

安藤百福氏は、チキンラーメンを開発するとき、五つの目標をもっていたという。



 屬泙真べたい」と思ってもらえるおいしさ。

調理と食事に手間と時間がかからないこと。

常温で長期間保存できること。

ぢ燭の人に腹いっぱいになってもらえる価格。

ケ卆古で安全であること。

(日清食品『インスタントラーメンまるごとガイドブック』より)
 

 


この五つは、どれもすぐれた商品に必要な要素であろう。

しかし、キチンラーメンがこの五つを満たしているとしても、そこにはひとつ欠けているものがあった。それは、<人間すべてに通用する普遍的形式>をもつことである。

チキンラーメンは、ドンブリひとつで作り、そのまま箸で食べられる。それだけでもそうとうな普遍性があった。しかし、ドンブリと箸がないと食べられないということはまだ不便な点でもあったし、世界的に通用する食べ方でもなかった。

中身ではなく、形式(容器・道具)に問題があったのだ。

それをカップとフォークでクリアしたのがカップヌードルである。これによってインスタントラーメンは、人間すべてに通用する普遍的食品として完成したのだ。
 

いまでは、インスタントラーメンは世界で年間1,000億食近くも食べられているという。

 

 

 


安藤百福氏は、

 

 

「食足世平(しょくそくせへい)ー食足りて世は平らか」

 

 

という言葉が好きだったという。「食は足りて当然であり、それが平和のもとだ」という考えであろう。

考えてみれば、外国語だってそうありたいものだ。英語ごときに多くの人がやたらと時間と労力をとられるのは馬鹿げている。
 


「語足世平(ごそくせへい) — 語り足りて世は平らか」

 

 

すなわち「英語のような共通語は、普通に努力すれば誰もができるようにしよう。そうして、お互い納得するまで、世界の人と語り尽くそう。それが平和のもとだ」。そういう考えを、知恵と工夫で現実のものにすべきなのだ。
 



 

 

 





(おわり)




 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバ・スタイルの塾を作りたい | 05:23 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
学説がビジネス的に試される時代 机上の議論は終わった おわり

そもそも、現代の英文法はどうあるべきなのか。

 


もともと、言語表現の対象とその認識はつねに具体的である。しかし具体的な言語表現が成立するには抽象的なルール(言語規範)にのっとっている必要がある。

そしてこの抽象的なルールは、つねに具体的な表現によって表現される。抽象的なルールを直接記したルールブックが人間の前にあらかじめ置かれているわけではない。

そこで、このルールブックをあえて作ろうとするのが文法の研究である。

料理にたとえれば、わかりやすいかもしれない。

料理は具材の扱い方を知っている人間によって作られたのだが、結果として見えるのは調理された具材だけである。

出来上がった具材の様子を分類することは、料理を知る出発点になるだろう。しかし、それだけで料理を作るルールがわかるだろうか。

料理のルールは個々の料理のなかにではなく、料理人の意識のなかにあるはずだ。文法学者は、料理(表現結果)を観察分類するだけでなく、料理人の意識(表現を生んだルール)のなかに入り込み、その内容を表現しなければならない。

 

 


英文法を体系化しようとする努力。それを支えている動機の一つは、それによって学習者の苦労を少しでも軽減したいという実践的な意図であろう。いわば、レシピを明らかにすることによって、誰もが普通の努力で一定の料理が作れるようにしたいということである。

 

現代の社会の中で、一体どうすれば、そうした実践的な意図は実現するのだろうか。


オグデンのベーシックイングシッシュが想定したように、小中高の学校教育の枠で新たな「仮説の体系」を検証・普及することは、旧仮説が制度的に確立しているため、大きな決断と長い時間と膨大な費用が必要であろう。

ザメンホフのエスペラントが期待したように、善意にもとづくボランティアベースの非営利的な方法で新しい言語体系を普及させることも、大きな困難があると思われる。

半世紀前にチョムスキーが成功したように、一人の魅力的な学問的「仮説」を大学教員レベルの専門家が大挙して検証するような光景も、しばらくは起こらないであろう。

日本の「英会話学校」は、上記のような学校教育やボランティアや学問とはちがう枠の存在であり、ビジネスベースのものであるが、真に革新的な「仮説の体系」をもっていないためにおのずから限界が見え、最近では市場が頭打ち状態になっている。

 

 

 


以上のことから、英文法の新しい体系を開発するには、次のような戦略が考えられる。

まず、誰かが仮説の体系をつくり、たとえば本として出版する。しかし、これだけでは何も起こらない。

教育行政が真価不明の新理論をすぐに採用することはありえないし、全国の学校でそれを教える体制もない。そして英語教育の専門家をひきつける魅力をもつ第二のチョムスキーは、おいそれとは現れないだろう。結果、たとえ本が多少売れたとしても、それ以上のことは起こらない。

そこで、その「仮説の体系」をもとにした商品をつくり、ビジネスラインで普及をはかる。ビジネスである以上、商品と商法が稚拙ならばどこかで失敗するだろう。それはこの「仮説の体系」にはさしたる価値がないことの証明とみなしてよい。

逆に、もしも商品と商法がすぐれていれば普及するであろう。普及すればするほど、新しい「仮説の体系」の価値が多くの人に理解され、欠点が修正される。そうなれば商品と商法がますます洗練され、購入者はさらに増える。

ここにポジティブなサイクルが生まれ、革新が進行する。

 

 



英文法ひとつをとっても、もはや学者の机上の作業でなにかが起こる時代は終わったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバ・スタイルの塾を作りたい | 04:52 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
学説がビジネス的に試される時代 机上の議論は終わった その1

安藤貞雄『現代英文法講義』(開拓社、2005年)

英文法を総合的にあつかった学術書としては、比較的新しいものに入ると思う。

ときどき参照しているが、説明が詳しく、例文に格調高いものが多いうえに、いまの文法論で何が議論されているかもわかる。

英文法研究の現状を総括した大作と高く評価したうえで、いくつか気になることを記しておきたい。

 


 


「はしがき」に、本書は「豊富な用例を…体系化した学術書」だという説明がある。v頁。

「用例を体系化した」という表現は、本書の基本的な立場を示している。言語事実(実際の用例)から出発して、それらを分類整理すること。それが文法学の役割だということであろう。

著者は「GB理論やミニマリスト・プログラムの視点」もとりいれようと試みたと述べているが、それでは「節操がない感じがある」という。vi頁。

つまり著者は、ここ数十年、日本の英語界を席巻した生成文法の超演繹的な手法に満足できず、「言語事実から帰納的に原理原則を導き出す」ことを基本と考えており、これを著者は「科学的」な「手順」と呼んでいる。vi頁。

私としては、著者が生成文法に距離を置くところには同感できても、用例を収集・整理することで英文法が「体系化」できたり「科学的」になるという発想には違和感がある。

「体系」とは「個々別々の認識を一定の原理に従って論理的に組織した知識の全体」(デジタル大辞泉)といった意味なので、そこにはひとつのまとまりを感じさせる原理や一貫性があるはずである。

しかし、本書がどういう原理による「体系」を提示しているのか、39章からなる目次を見ても、私には読み取れない。

 


 

「体系」ならば、たとえば英文法の知識の全体を論理的に組織した一枚の図が描けるはずである。一枚の図でなくても、著者の考える英語の全体像が本書のどこかに書かれていてしかるべきである。

おそらく、全体像に近いのは第2章「文型」あたりであろうと思われるが、そこには著者独自の8文型論が書かれているものの、8つの文型を貫く原理については言及がない。

ここにこの本の特徴があらわれている。「8つ」というところまではよく整理されているのだが、整理しただけで終わっている。「8つ」を貫く英語文型の根本原理は何かといった考察には踏み込もうとしない。

けっきょく著者のいう「体系化」とは、おそらく「網羅的」という意味ではないかと思う。

ひとつの言語の文法の全体を描こうとする以上、網羅(しようと)することは必要である。しかし網羅(しようと)したから「科学的」であるとは限らない。

雑多なものを雑多なままで集めるだけでなく、よく観察していくつかの種類に分別するのは、昆虫採集的な意味で「科学的」であるかもしれない。

しかし今日、対象を分別して並べてみせるだけで「科学」とは普通言わない。

そのような言語事実が発生するメカニズム、その言語事実を分類する原理や、分類のプロセスを明らかにする作業が必要である。本書にはそれがない。

 

 

 

本書は、たんに文法現象を紹介し記述するだけでなく、常に「なぜに?」という疑問に答えようとしたこと、すなわち「説明文法」たらんとしたことが「最大の特徴」だという。v頁。

しかし、読者の一人として私にはそれが実感できない。どこがたんなる「記述」ではなく「説明」になっているのかが見えないのである。

もちろん、「説明」らしい部分がないわけではない。

たとえば受動態の分類で、

 I was interested by what you told me. (動詞的受動態)

◆I am very interested in chess. (形容詞的受動態)

の二種類があるといい、

「形容詞[的受動態]の特徴はveryに修飾される点、決定的にはby以外の前置詞をとる点である。」

という。344頁。

なるほど、何かが「説明」されたようにも思える。しかし、正確にはいったい何を「説明」しているのだろうか。

ふたつの受動態の分類の「原理」なのだろうか。だとすれば、その「原理」はなんなのだろう。

それとも、ここに書かれているのはふたつの受動態の区別のテクニックの「説明」にすぎないのだろうか。

だとしたら、それは文法現象のたんなる「記述」とどれほど違うのだろうか。
 

 

 

 

 

 

 


 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバ・スタイルの塾を作りたい | 04:51 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
英語の聴き取り力を瞬時に上げる カクテルパーティー効果を活用せよ

英語は、とくに聴き取りにくい言語に入る、という話を読んだことがある。

 

ロシア語、スペイン語、フランス語など、いくつもの言語をやってきた人が、しみじみと述懐した文だった。「英語は特別に聴き取りにくい。他の言語では、そういうことはない」と。

 

どんな言語にも、メロディーのような抑揚があり、リズムのような強弱があるのは、よく知られている。日本語は抑揚で、英語は強弱で、語のアクセントや文のイントネーションを表すともいわれる。

 

私は、それぞれの言語ごとに、音楽でいえばハーモニーのような、複数の音の合成の仕方もあるのではないかと思う。

 

そして英語の場合、ハーモニーのレンジが広く、音質も多彩なのではないか。英語では、破裂音のような高い音、鼻音、そして低い有声音と、幅広く多彩な音響が活用される。人の声は、ひとつのように聞こえても、じつは複数の音響が合成されたものである。英語では、たとえば破裂音を言っているときにも、背景に鼻音や有声音が響いているような感じがある。いわば、聴こえるメロディーの背後に、聞こえないハーモニーが響いている。

 

私の場合、英語を聴くときには、破裂音の高い音と、鼻音に耳を澄ますようにしている。意識してそうすると、たしかに効果がある。

 

人は、パーティーの雑踏のなかでも特定の人の声が聞きとれたり、オーケストラを聴きながら、特定の楽器の音だけを追うこともできる。これを「カクテルパーティー効果」と呼ぶことがある。

 

こういうことが可能なのは、音源の位置が特定できたときだという。音源の位置が特定できれば、そこに耳を澄ますことができからである。言語の場合、「音源」つまり相手の声は、位置だけでなく、音響のレンジや音質も含むであろう。

 

英語では、<聴き取りの焦点を上げる>と効果がある。

 

具体的には破裂音や鼻音のように、自分がふだん使わない種類の音に意識をむけるようにする。すると、「カクテルパーティー効果」が生まれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバ・スタイルの塾を作りたい | 09:26 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
茶室型アカデミーをつくれ

保富歩『経済学の船出』(2010年12月、NTT出版)

 

終章に、鋭い大学評がある。

 

いわく、知とは「実践的知」すなわち「生きるための感覚の作動を信頼」する知である。ところが、いまや大学アカデミズムはそうした「全体性への志向を完全に失っ」ている。254頁。

 

いわゆる専門家の「専門分野」とは、問題関心を共有しているのではなく、「盲点」を共有しているにすぎない。254頁。

 

大学は、知識の「創造」ではなく「伝承」しかしていない。そもそも「人類史に残る独創的着想」が大学から生まれた例はない。249頁。最近ではコンピュータがその例であり、大学はコンピュータの改良と普及の主要舞台ではない。253頁。

 

そういう大学が輩出した「高学歴ワーキングプア」が、10万人もいる。253頁。つまり、制度としての大学アカデミズムは、いまや失業を生む「業界」にすぎない。

 

 

 

他方で、もうひとつの「アカデミズム」も展望できる。現実を勝手に切り分けてしまう「専門」にこりかたまらず、柔軟な「人々のつながり」としてのアカデミズムである。254頁。

 

この意味での「アカデミズム」について、著者はこう述べる。

 

 

 

「アカデミズムを構成する人のかなりの部分は大学業界人ではなく、高学歴ワーキングプアであったり、農民であったり、NPO活動家であったり、政治家であってり、企業家であったり、サラリーマンであったり、主婦であったり、芸術家であったり、医者であったり、学生や子供であったりと、さまざまである。」254頁。

 

 

 

では、この本来の「アカデミズム」は、どうやって運営されるのか。

 

おそらく、どの社会にも、身分や職業などの違いを横断して人々が交流する仕組みが存在する。地域のスポーツチーム、合唱団、サークル、芸事など。

 

私がとくにおもしろいと思うのは、茶室である。

 

茶室に入ると、主客の別はあっても、身分や職業の違いは度外視される。

 

利休が最後にたどりついた空間は、わずか二畳の茶室であったという。二畳だと、点前をする人もされる人も、手を伸ばせば相手の空間に触れるほどになる。境界が薄くなる。

 

茶室は、主客の別はあるが、専門分野はない。ときに主客は交替する。誰もが平等になれる世界である。

 

現代の閉塞を打破する力は、広いようで狭い業界アカデミズムではなく、狭いようで広い茶室アカデミズムのほうから生まれるのだろう。

 

ならば、大学のなかに、たくさんの茶室が生まれればいいのだろうか。

 

いや、町のなかに茶室があれば、どうだろう。そこには主客はあるが、「業界」はない。

 

茶室型アカデミー。それは可能なのではないかと、このごろ思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバ・スタイルの塾を作りたい | 04:35 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ジョブズとマルクス 解決のための行動が、すなわち解決である

昔、スティーブ・ジョブズがナレーションしたアップルのコマーシャルは、こういう言葉で終わる。

 

 

 

"... And while some may see them as the crazy ones, we see genius, because the people who are crazy enough to think they can change the world are the ones who do."

 

 

 

最後の "do" は、”change the world” の言い換え。これはエジソンやキング牧師のような革新者たちを讃えたコマーシャルで、そのメッセージは、

 

 

 

「この世を変えられると思った変な人だけが、実際にこの世を変えられる。」

 

 

 

変えられないと思えば、この世は本当に変わらない。変えられると思った少数の人だけが、本当に変える可能性をもっている。

 

 

 

もうひとつ、考えさせる言葉がマルクスの文章にある。

 

 

 

「人間が立てる課題は、いつも彼が解決できる課題だけである。」(『経済学批判』序言)

 

 

 

ここでいう「人間」とは、文脈上、人類のことを指しているが、もっと小さい単位で考えることもできる。

 

現実の人は、なんらか特定の社会的地位にあって、そこから自分の意識を立ち上げる。その意識が正しく現実を把握しているかどうかは別にして、人の意識は、必ずある範囲を想定し、その範囲のなかでそれぞれの課題を「立てる」。

 

マルクスの文の力は、なぜ課題を「立てる」ことが「解決できる」ことと同義なのか、という疑問を起こさせるところにある。

 

「課題を立てるということは、課題を解決できるということと同義である」というマルクスの言葉は、「変えられると思った人は、本当に変えることができる」というジョブズのメッセージに似た響きをもっている。

 

 

 

...

 

 

 

解決とは、目標地点に到達することだと仮定しよう。到達までの距離を微分すると、速度になる。

 

速度を微分した加速度というものもある。速度は加速度によって調整できる。

 

目標地点に最短かつ確実に到達するということは、そのときどきの加速度を調整しつつ、正確な方向に、最適な平均速度で進むことと同義である。

 

到達までの距離は、方向と速度に還元される。

 

 

 

...

 

 

 

よく考えてみれば、ジョブズもマルクスも正しい。

 

人は課題を見つけ、それを克服しようとして行動をつづける。ひとつの課題を解決すると、次の課題が生まれる。常に途上にある人間にとって、解決しつつあることが、すなわち解決であるともいえる。解決とは、解決しつつあることにほかならない。

 

解決への意志をもった時点で、問題は半ば解決しているともいえる。そして、じっさいに目的に向かって進むなら、それが課題の解決そのものだともいえる。

 

なにかの原因で目的が変化したり、途中でやめることもある。しかし、その時点まで解決に近づいていたなら、それは解決だったのである。

 

 

 

ジョブズのコマーシャルに登場するガンジーやジョン・レノンは、すでに解決そのものの姿であった。

 

ひらたくいえば、「いっちゃった」人たちである。「到達しちゃった」人は、目標の位置と距離をみせてくれる。人々は、「いっちゃった人」は遠すぎて到達できないと思いやすい。

 

だが、問題は距離ではない。距離は、方向と速度に還元される。

 

自分なりの速度で、加速度を調整しながら、目標に向かって進んでいるかどうか。そこなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバ・スタイルの塾を作りたい | 08:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「他人の人生を生きるな」 スティーブ・ジョブズのスタンフォード大スピーチから 

アップル社の創立者のひとり、スティーブ・ジョブズ(Steve Jobs 1955-2011の有名なスピーチがある(スタンフォード大学の卒業式で。2005年6月)

 

原稿を読み上げる表情はそうとう緊張していて、新製品の名プレゼンのようにはいかなかったようだ。

 

しかし、スピーチの内容がいい。

 

自分が大卒ではないこと、望まれない男の子(母親はまだ学生で、しかも女の子がほしかった)として生まれ、すぐに養子に出されたこと、裕福でなかった育ての親のお金で授業料の高いカレッジに入ったが授業に興味がもてず半年で中退したこと。所持金もなく貧しい生活をしたこと。

 

自分のめぐまれなかったところ、ダメだったところをはじめに述べて聴衆の共感を獲得している。

 

そして、カレッジでカリグラフィー(アルファベットの書道)のクラスをとり、文字の美しさに魅了されたことが、コンピュータ画面の開発に役立ったと述べている。

 

ジョブズは根っからのデザイナーだったのかもしれない。

 

14分ほどのスピーチで、ジョブズが若者に送ったメッセージはただひとつ。

 

 

 

There is no reason not to follow your heart.  Don't waste your time living someone else's life. 

 

自分が好きで仕方がないことをすれば、それでいいのです。他人の人生を生きてはいけない。

 

 

 

 

ということである。

 

自分の膵臓ガンについても告白している。

 

このスピーチには、つきつめた雰囲気があり、どこか死の影がつきまとっている。

 

 

 

スピーチは、次のセリフで終わる。

 

 

 

"Stay hungry, stay foolish."   

 

そこに留まるな。危険を犯せ。

 

 

 

これは人を永遠に鼓舞する言葉かもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバ・スタイルの塾を作りたい | 08:40 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
スティーブジョブズの朗読がかっこいい アップルの革命宣言

英語の発音の授業で、私がときどき学生に見せる映像がある。

 

エジソンやガンジーやレノンやアリなど、型破りな偉人たちの実画像とともに、スティーブジョブズの声でナレーションが流れるというシンプルな構成。アップル社の名前は、まったくでてこない。

 

 

 

http://jp.youtube.com/watch?v=No1MxAnHuJM&NR=1

 

 

 

きっかり60秒。日本企業のコマーシャルではめったにお目にかかれないスタイルだ。

 

 

 

英語の表現に、

 

"Think out of the box."

 

というのがある。自分の狭い世界から抜け出して、全体をよく見てみよう、という呼びかけの言葉である。ジョブズのナレーションにタイトルをつけるなら、"Act out of the box." とでもなるだろう。

 

ああ、企業は、こういうメッセージを世に送ることもできるのだ。

 

 

 

 

...

 


このコマーシャルには日本語版もあるが、ナレーションは英語版のほうがシャープな感じなので、メモしておく。

 



"Here's to the crazy ones, the misfits, the rebels, the troublemakers, the round pegs in the square holes, the ones who see things differently.

They were not fond of rules and they had no respect for the status quo.

You can quote them, disagree with them, qualify or vilify them.

But the only thing you can't do is ignore them, because they changed things, they pushed the human race forward.

And while some may see them as the crazy ones, we see genius, because the people who are crazy enough to think they can change the world are the ones who do."

 

 

 






 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバ・スタイルの塾を作りたい | 08:10 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
スタバのような塾を作りたい おわり

<塾>といっても、私がイメージするのは、机が並んでいる教室とか、ブースに別れた「個別指導」のような場所ではない。

 

以下は、私の夢である。

 

その<塾>は、めいめいが自分の位置をもち、互いの顔が見え、各自の目標にあった課題をやりつつ、席を立ったり、自由に話しあえる、スタバのようなオープンな環境である。

 

そこでは、

 

 

・教師はいない。トレーナーとかインストラクターというべき人がいる。トレーナーは、塾生の様子と、コンピュータが記録する塾生の進行状況を参考に、適宜アドバイスする。

 

・進学先・将来の職業など、自分が納得する目標を親・トレーナーと話しあって明確に設定し、塾はその実現を保証する。目標は定期的に再確認し、必要があれば、本人・親の納得のうえで柔軟に変更する。

 

・塾生はiPadのような移動型端末を用いる。目標は、各自でちがっている。学年はないから、異年齢の子どもが同時に同じことをしている可能性もある。共通の課題がみつかれば、解決までのグループを適宜つくる。

 

・スポーツの発想をとりいれ、ダンス・体操を指導するなど、身体づくりを奨励する。清潔で簡単な食事もできるようにして、生活と身体を整えるように指導する。「試合」を頻繁に設定し、つねに勝ち負けを体験しながら自分の成長を確かめる。これらすべてに、コンピュータが個別に集積するデータを活用する。

 

・家庭、職場、地域も<塾>としてとらえなおし、親との話し合い、見学、調査を積極的におこなう。運営資金の調達方法も、寄付やオンラインでの投資を募るなど、多様なルートを開発する。

 

 

こうしたことを可能にするのは、全体を運営する本部と、現代の学問に支えられた、先進的な学習内容を開発する中央システムである。本部で企画・開発されたプログラムが、オンラインで全国の<塾のスタバ>に送られる。それを塾生とトレーナーが使ってみて、そのデータが集積され、どんどん改善されていく。

 

この<塾のスタバ>の中核は、トレーナーである。トレーナーをいかに選出し、トレーニングするか。その仕組みが、成功のカギとなる。それには、<トレーナーのトレーナー>を養成する仕組みが必要となる。

 

 

 

 

 

この<塾>は、「希望」と名づける。JAXAの施設に、「きぼう」というのがあるが、いい名前だ。

 

この私的なシステム「希望」が、やがて従来型の学校の運営とコラボするようになり、日本と世界の教育を変えることになればいいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバ・スタイルの塾を作りたい | 04:55 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
スタバのような塾を作りたい その3

解決のひとつの糸口は、<学校が次世代のすべてに責任をもつべきだ>といった過剰な発想をしないことである。学校は、次世代をつくるシステムのひとつとしてとらえ直す。

 

たとえば、先にあげた近代教育システムの常識を、すべて疑ってみる。

 

 

・専任の教師と、その育成機構・報酬機構・管理体制 ⇨もっと多様なやり方はないか?

 

・毎日通ってくる生徒と、一年を周期とする管理体制 ⇨もっと多様性をとりいれられないか? どうして生徒は毎日学校に集まらなければならないか? どうして「学年」ごとにいっせいに授業内容が決まっているのか?

 

・教室などの施設 ⇨家庭と地域も<教育施設>としてとらえなおす。

 

・教科書 ⇨なくしてしまう発想も検討する。

 

・学習内容とカリキュラム ⇨学者の出番だ!

 

・費用調達システム ⇨税金や学費だけでなく、もっと社会全体の資源から再調達するシステムを考えてみる。

 

 

 

行政レベルでこのような見直しをしようとしても、異論がたくさん出てけっきょくひとつも実行できないし、やっても精神が入らない可能性が高い。

 

変革の起点になる可能性があるのは、むしろ「塾」という学校外の私的なシステムだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバ・スタイルの塾を作りたい | 04:54 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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