ごきげんようチャンネル

"Life is too short to wake up with regrets." author unknown
           

英語、数学、国語… 学校の教科は科学から見離されている

 

学校の科目としての英語、とくにその文法は、言語の科学から取り残された<耕作放棄地>のようになっている。中高の英語教師は学校英文法以外を知らず、大学教員の多くは、学校英文法の改善に関心をもたない。

 

 

どうやら、数学も同じらしい。たとえば、次のような記述がある。

 

 

「二次元もしくは三次元のユークリッド幾何学は、太古より数学的な思想の根源を養ってきたものだが、今日では、数少ない専門家しか研究しないもので、ないがしろにされている。」(ジェイ・カプラフ(萩原一郎ほか訳)『デザインサイエンス百科事典』朝倉書店、2011年、ii頁)

 

 

この文の筆者は、東京工業大学教授の萩原一郎氏。幾何学だけでなく、おしなべて中学高校でやっている数学は、大学での主たる研究対象ではなくなって久しいのだろう。大学の数学教員は、もはや中学高校の数学の事項を研究対象にしていない。だから、その改善に強い関心をもったり、そのために時間を費やすことは少ない。

 

 

同じことは、国語にも言えそうだ。

 

国文学や国語学関係の大学の教員は、国語の入試問題を作ることはあっても、中高生の現代日本語の読解力の改善を自分の仕事にするものではない。

 

 

もとより、中高の英数国の教員は、科目の内容を根本的に改革したり、教授方法を根本的に改善できる立場にない。その立場にあるのは大学の教員だろうと思われるが、多くの大学の教員は、中高の教科内容の改善を仕事としていない。そして、中高でやっている事項は、専門分野としては時代遅れであることが多いから、それを自分の研究対象にしている大学の教員は限られる。

 

教科としての英数国の教授法を専門にしている大学教員もいるが、その場合、「何を学習すべきか」というより、既存の教科書や学習指導要領の事項を「いかに学習させるか」に焦点をおいているように見える。もちろん、<いかに>という教授法・学習法も科学の対象になりうる。ただ、<なにを>という、より根本的なところにまで目を向け、改革を提唱する大学教員は少ないのが現状であろう。

 

 

こうして、中高の学習内容は、科学の<耕作放棄地>として、打ち捨てられるほかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバ・スタイルの塾を作りたい | 05:14 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
教育の変革は、カーンアカデミーに学べ 

サルマン・カーンSalman Khan というインド系アメリカ人が三十代ではじめた、「カーン・アカデミー the Khan Academy」というオンラインチュータリングのサイトがある。

 

 

http://www.khanacademy.org/

 

 

 

10分程度の短いレッスンを多数集めたもので、その多くはカーン氏がペンタブレットに板書しながら早口で解説している。

 

初歩の算数から高度な数学、物理学、生物学、経済学、美術史まで、内容は多彩。生徒は自分の視聴録やテスト結果を記録したり、メダルを獲得できるようにもなっている。すべてが無料と宣言している。

 

カーン・アカデミーは、本人が驚くほどの反響を世界中で呼んでいる。いわゆる「ソーシャル・イノベーション」の好例といえる。

 

 

 

 

 

 

彼がTEDの壇上で、自分の発想を10分で説明したプレゼンがある。こちらは日本語訳もある。

 

 

https://www.ted.com/talks/salman_khan_let_s_use_video_to_reinvent_education/discussion

 

 

<いっせい授業・いっせい進級>という近代教育の画一的システムが、いかに子ども一人一人の才能をつぶしてしまうか。

 

インターネットのビデオを活用しよう。幾何であれ微分であれ、人間が開発してきた知恵を誰もが身につけること。それは、工夫次第で可能なのだ。画一的な教育システムから脱皮すれば、人類全体のレベルがぐんと上がるだろう。

 

 

そう主張するこのプレゼンには、数百のコメントが寄せられており、なかには英語圏の教員がカーンの主張に共感して書き込んだものもある。それを読むと、学校のクラスの様子や問題点が、日本にそっくりであることがわかる。きっとアジアの他の国も、似た問題を抱えているのだろう。ヨーロッパも例外ではないはずだ。

 

ということは、どこであれ一つの国が教育改革に成功すれば、その影響はほとんど全世界に及ぶ可能性があるということである。

 

 

 

 

 

 

カーンがライス大学の卒業式で行った講演は、他人の人生を生きるのではなく、自分の道を追求しようと呼びかけている。

 

 

http://www.khanacademy.org/new-and-noteworthy/v/salman-khan-at-rice-university-s-2012-commencement

 

 

 

ハイライトは、こうだ。

 

 

 

“Some come from environments where most of their lives they have had to hide their passions, their gifts for fear of looking different.

 

But they come here suspecting that this might be a place where they can spread their wings, where they can explore the world.”

 

 

 

ここにある言葉を使えば、カーンのメッセージは、次のようなことになるだろう。

 

 

 

Don’t hide your gifts.  Show your passions by looking different.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバ・スタイルの塾を作りたい | 22:23 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
チキンラーメンからカップヌードルへ 形式の改善で世界食品に飛躍

日清食品の創立者・安藤百福(ももふく)氏が1958年、自宅の小屋でインスタントラーメンを発明した時の話は、よく知られている。

奥さんが天ぷらを揚げるのを見て、味付けした麺を乾燥させる方法を思いつき、工夫の末に、インスタントラーメンが誕生した。

インスタントラーメンは、お湯をかけただけで食べられる「魔法のラーメン」として人気になった。しかし、安藤氏の工夫はまだ続く。

1966年、欧米視察に出た安藤氏は、紙コップにチキンラーメンを砕いて入れ、フォークで食べている人の姿を目にする。飛行機で配られたマカデミアナッツの容器に密閉用の「フタ」がついていることにも感心する。

そして1971年、世界初のカップ麺「カップヌードル」が発売された。

カップヌードルは、チキンラーメンがカップに入っただけのようにも見えるが、これが大きな飛躍となった。

 

 

 

 

安藤百福氏は、チキンラーメンを開発するとき、五つの目標をもっていたという。



 屬泙真べたい」と思ってもらえるおいしさ。

調理と食事に手間と時間がかからないこと。

常温で長期間保存できること。

ぢ燭の人に腹いっぱいになってもらえる価格。

ケ卆古で安全であること。

(日清食品『インスタントラーメンまるごとガイドブック』より)
 

 


この五つは、どれもすぐれた商品に必要な要素であろう。

しかし、キチンラーメンがこの五つを満たしているとしても、そこにはひとつ欠けているものがあった。それは、<人間すべてに通用する普遍的形式>をもつことである。

チキンラーメンは、ドンブリひとつで作り、そのまま箸で食べられる。それだけでもそうとうな普遍性があった。しかし、ドンブリと箸がないと食べられないということはまだ不便な点でもあったし、世界的に通用する食べ方でもなかった。

中身ではなく、形式(容器・道具)に問題があったのだ。

それをカップとフォークでクリアしたのがカップヌードルである。これによってインスタントラーメンは、人間すべてに通用する普遍的食品として完成したのだ。
 

いまでは、インスタントラーメンは世界で年間1,000億食近くも食べられているという。

 

 

 


安藤百福氏は、

 

 

「食足世平(しょくそくせへい)ー食足りて世は平らか」

 

 

という言葉が好きだったという。「食は足りて当然であり、それが平和のもとだ」という考えであろう。

考えてみれば、外国語だってそうありたいものだ。英語ごときに多くの人がやたらと時間と労力をとられるのは馬鹿げている。
 


「語足世平(ごそくせへい) — 語り足りて世は平らか」

 

 

すなわち「英語のような共通語は、普通に努力すれば誰もができるようにしよう。そうして、お互い納得するまで、世界の人と語り尽くそう。それが平和のもとだ」。そういう考えを、知恵と工夫で現実のものにすべきなのだ。
 



 

 

 





(おわり)




 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバ・スタイルの塾を作りたい | 05:23 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
学説がビジネス的に試される時代 机上の議論は終わった おわり

そもそも、現代の英文法はどうあるべきなのか。

 


もともと、言語表現の対象とその認識はつねに具体的である。しかし具体的な言語表現が成立するには抽象的なルール(言語規範)にのっとっている必要がある。

そしてこの抽象的なルールは、つねに具体的な表現によって表現される。抽象的なルールを直接記したルールブックが人間の前にあらかじめ置かれているわけではない。

そこで、このルールブックをあえて作ろうとするのが文法の研究である。

料理にたとえれば、わかりやすいかもしれない。

料理は具材の扱い方を知っている人間によって作られたのだが、結果として見えるのは調理された具材だけである。

出来上がった具材の様子を分類することは、料理を知る出発点になるだろう。しかし、それだけで料理を作るルールがわかるだろうか。

料理のルールは個々の料理のなかにではなく、料理人の意識のなかにあるはずだ。文法学者は、料理(表現結果)を観察分類するだけでなく、料理人の意識(表現を生んだルール)のなかに入り込み、その内容を表現しなければならない。

 

 


英文法を体系化しようとする努力。それを支えている動機の一つは、それによって学習者の苦労を少しでも軽減したいという実践的な意図であろう。いわば、レシピを明らかにすることによって、誰もが普通の努力で一定の料理が作れるようにしたいということである。

 

現代の社会の中で、一体どうすれば、そうした実践的な意図は実現するのだろうか。


オグデンのベーシックイングシッシュが想定したように、小中高の学校教育の枠で新たな「仮説の体系」を検証・普及することは、旧仮説が制度的に確立しているため、大きな決断と長い時間と膨大な費用が必要であろう。

ザメンホフのエスペラントが期待したように、善意にもとづくボランティアベースの非営利的な方法で新しい言語体系を普及させることも、大きな困難があると思われる。

半世紀前にチョムスキーが成功したように、一人の魅力的な学問的「仮説」を大学教員レベルの専門家が大挙して検証するような光景も、しばらくは起こらないであろう。

日本の「英会話学校」は、上記のような学校教育やボランティアや学問とはちがう枠の存在であり、ビジネスベースのものであるが、真に革新的な「仮説の体系」をもっていないためにおのずから限界が見え、最近では市場が頭打ち状態になっている。

 

 

 


以上のことから、英文法の新しい体系を開発するには、次のような戦略が考えられる。

まず、誰かが仮説の体系をつくり、たとえば本として出版する。しかし、これだけでは何も起こらない。

教育行政が真価不明の新理論をすぐに採用することはありえないし、全国の学校でそれを教える体制もない。そして英語教育の専門家をひきつける魅力をもつ第二のチョムスキーは、おいそれとは現れないだろう。結果、たとえ本が多少売れたとしても、それ以上のことは起こらない。

そこで、その「仮説の体系」をもとにした商品をつくり、ビジネスラインで普及をはかる。ビジネスである以上、商品と商法が稚拙ならばどこかで失敗するだろう。それはこの「仮説の体系」にはさしたる価値がないことの証明とみなしてよい。

逆に、もしも商品と商法がすぐれていれば普及するであろう。普及すればするほど、新しい「仮説の体系」の価値が多くの人に理解され、欠点が修正される。そうなれば商品と商法がますます洗練され、購入者はさらに増える。

ここにポジティブなサイクルが生まれ、革新が進行する。

 

 



英文法ひとつをとっても、もはや学者の机上の作業でなにかが起こる時代は終わったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバ・スタイルの塾を作りたい | 04:52 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
学説がビジネス的に試される時代 机上の議論は終わった その1

安藤貞雄『現代英文法講義』(開拓社、2005年)

英文法を総合的にあつかった学術書としては、比較的新しいものに入ると思う。

ときどき参照しているが、説明が詳しく、例文に格調高いものが多いうえに、いまの文法論で何が議論されているかもわかる。

英文法研究の現状を総括した大作と高く評価したうえで、いくつか気になることを記しておきたい。

 


 


「はしがき」に、本書は「豊富な用例を…体系化した学術書」だという説明がある。v頁。

「用例を体系化した」という表現は、本書の基本的な立場を示している。言語事実(実際の用例)から出発して、それらを分類整理すること。それが文法学の役割だということであろう。

著者は「GB理論やミニマリスト・プログラムの視点」もとりいれようと試みたと述べているが、それでは「節操がない感じがある」という。vi頁。

つまり著者は、ここ数十年、日本の英語界を席巻した生成文法の超演繹的な手法に満足できず、「言語事実から帰納的に原理原則を導き出す」ことを基本と考えており、これを著者は「科学的」な「手順」と呼んでいる。vi頁。

私としては、著者が生成文法に距離を置くところには同感できても、用例を収集・整理することで英文法が「体系化」できたり「科学的」になるという発想には違和感がある。

「体系」とは「個々別々の認識を一定の原理に従って論理的に組織した知識の全体」(デジタル大辞泉)といった意味なので、そこにはひとつのまとまりを感じさせる原理や一貫性があるはずである。

しかし、本書がどういう原理による「体系」を提示しているのか、39章からなる目次を見ても、私には読み取れない。

 


 

「体系」ならば、たとえば英文法の知識の全体を論理的に組織した一枚の図が描けるはずである。一枚の図でなくても、著者の考える英語の全体像が本書のどこかに書かれていてしかるべきである。

おそらく、全体像に近いのは第2章「文型」あたりであろうと思われるが、そこには著者独自の8文型論が書かれているものの、8つの文型を貫く原理については言及がない。

ここにこの本の特徴があらわれている。「8つ」というところまではよく整理されているのだが、整理しただけで終わっている。「8つ」を貫く英語文型の根本原理は何かといった考察には踏み込もうとしない。

けっきょく著者のいう「体系化」とは、おそらく「網羅的」という意味ではないかと思う。

ひとつの言語の文法の全体を描こうとする以上、網羅(しようと)することは必要である。しかし網羅(しようと)したから「科学的」であるとは限らない。

雑多なものを雑多なままで集めるだけでなく、よく観察していくつかの種類に分別するのは、昆虫採集的な意味で「科学的」であるかもしれない。

しかし今日、対象を分別して並べてみせるだけで「科学」とは普通言わない。

そのような言語事実が発生するメカニズム、その言語事実を分類する原理や、分類のプロセスを明らかにする作業が必要である。本書にはそれがない。

 

 

 

本書は、たんに文法現象を紹介し記述するだけでなく、常に「なぜに?」という疑問に答えようとしたこと、すなわち「説明文法」たらんとしたことが「最大の特徴」だという。v頁。

しかし、読者の一人として私にはそれが実感できない。どこがたんなる「記述」ではなく「説明」になっているのかが見えないのである。

もちろん、「説明」らしい部分がないわけではない。

たとえば受動態の分類で、

 I was interested by what you told me. (動詞的受動態)

◆I am very interested in chess. (形容詞的受動態)

の二種類があるといい、

「形容詞[的受動態]の特徴はveryに修飾される点、決定的にはby以外の前置詞をとる点である。」

という。344頁。

なるほど、何かが「説明」されたようにも思える。しかし、正確にはいったい何を「説明」しているのだろうか。

ふたつの受動態の分類の「原理」なのだろうか。だとすれば、その「原理」はなんなのだろう。

それとも、ここに書かれているのはふたつの受動態の区別のテクニックの「説明」にすぎないのだろうか。

だとしたら、それは文法現象のたんなる「記述」とどれほど違うのだろうか。
 

 

 

 

 

 

 


 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバ・スタイルの塾を作りたい | 04:51 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
英語の聴き取り力を瞬時に上げる カクテルパーティー効果を活用せよ

英語は、とくに聴き取りにくい言語に入る、という話を読んだことがある。

 

ロシア語、スペイン語、フランス語など、いくつもの言語をやってきた人が、しみじみと述懐した文だった。「英語は特別に聴き取りにくい。他の言語では、そういうことはない」と。

 

どんな言語にも、メロディーのような抑揚があり、リズムのような強弱があるのは、よく知られている。日本語は抑揚で、英語は強弱で、語のアクセントや文のイントネーションを表すともいわれる。

 

私は、それぞれの言語ごとに、音楽でいえばハーモニーのような、複数の音の合成の仕方もあるのではないかと思う。

 

そして英語の場合、ハーモニーのレンジが広く、音質も多彩なのではないか。英語では、破裂音のような高い音、鼻音、そして低い有声音と、幅広く多彩な音響が活用される。人の声は、ひとつのように聞こえても、じつは複数の音響が合成されたものである。英語では、たとえば破裂音を言っているときにも、背景に鼻音や有声音が響いているような感じがある。いわば、聴こえるメロディーの背後に、聞こえないハーモニーが響いている。

 

私の場合、英語を聴くときには、破裂音の高い音と、鼻音に耳を澄ますようにしている。意識してそうすると、たしかに効果がある。

 

人は、パーティーの雑踏のなかでも特定の人の声が聞きとれたり、オーケストラを聴きながら、特定の楽器の音だけを追うこともできる。これを「カクテルパーティー効果」と呼ぶことがある。

 

こういうことが可能なのは、音源の位置が特定できたときだという。音源の位置が特定できれば、そこに耳を澄ますことができからである。言語の場合、「音源」つまり相手の声は、位置だけでなく、音響のレンジや音質も含むであろう。

 

英語では、<聴き取りの焦点を上げる>と効果がある。

 

具体的には破裂音や鼻音のように、自分がふだん使わない種類の音に意識をむけるようにする。すると、「カクテルパーティー効果」が生まれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバ・スタイルの塾を作りたい | 09:26 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
茶室型アカデミーをつくれ

保富歩『経済学の船出』(2010年12月、NTT出版)

 

終章に、鋭い大学評がある。

 

いわく、知とは「実践的知」すなわち「生きるための感覚の作動を信頼」する知である。ところが、いまや大学アカデミズムはそうした「全体性への志向を完全に失っ」ている。254頁。

 

いわゆる専門家の「専門分野」とは、問題関心を共有しているのではなく、「盲点」を共有しているにすぎない。254頁。

 

大学は、知識の「創造」ではなく「伝承」しかしていない。そもそも「人類史に残る独創的着想」が大学から生まれた例はない。249頁。最近ではコンピュータがその例であり、大学はコンピュータの改良と普及の主要舞台ではない。253頁。

 

そういう大学が輩出した「高学歴ワーキングプア」が、10万人もいる。253頁。つまり、制度としての大学アカデミズムは、いまや失業を生む「業界」にすぎない。

 

 

 

他方で、もうひとつの「アカデミズム」も展望できる。現実を勝手に切り分けてしまう「専門」にこりかたまらず、柔軟な「人々のつながり」としてのアカデミズムである。254頁。

 

この意味での「アカデミズム」について、著者はこう述べる。

 

 

 

「アカデミズムを構成する人のかなりの部分は大学業界人ではなく、高学歴ワーキングプアであったり、農民であったり、NPO活動家であったり、政治家であってり、企業家であったり、サラリーマンであったり、主婦であったり、芸術家であったり、医者であったり、学生や子供であったりと、さまざまである。」254頁。

 

 

 

では、この本来の「アカデミズム」は、どうやって運営されるのか。

 

おそらく、どの社会にも、身分や職業などの違いを横断して人々が交流する仕組みが存在する。地域のスポーツチーム、合唱団、サークル、芸事など。

 

私がとくにおもしろいと思うのは、茶室である。

 

茶室に入ると、主客の別はあっても、身分や職業の違いは度外視される。

 

利休が最後にたどりついた空間は、わずか二畳の茶室であったという。二畳だと、点前をする人もされる人も、手を伸ばせば相手の空間に触れるほどになる。境界が薄くなる。

 

茶室は、主客の別はあるが、専門分野はない。ときに主客は交替する。誰もが平等になれる世界である。

 

現代の閉塞を打破する力は、広いようで狭い業界アカデミズムではなく、狭いようで広い茶室アカデミズムのほうから生まれるのだろう。

 

ならば、大学のなかに、たくさんの茶室が生まれればいいのだろうか。

 

いや、町のなかに茶室があれば、どうだろう。そこには主客はあるが、「業界」はない。

 

茶室型アカデミー。それは可能なのではないかと、このごろ思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバ・スタイルの塾を作りたい | 04:35 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ジョブズとマルクス 解決のための行動が、すなわち解決である

昔、スティーブ・ジョブズがナレーションしたアップルのコマーシャルは、こういう言葉で終わる。

 

 

 

"... And while some may see them as the crazy ones, we see genius, because the people who are crazy enough to think they can change the world are the ones who do."

 

 

 

最後の "do" は、”change the world” の言い換え。これはエジソンやキング牧師のような革新者たちを讃えたコマーシャルで、そのメッセージは、

 

 

 

「この世を変えられると思った変な人だけが、実際にこの世を変えられる。」

 

 

 

変えられないと思えば、この世は本当に変わらない。変えられると思った少数の人だけが、本当に変える可能性をもっている。

 

 

 

もうひとつ、考えさせる言葉がマルクスの文章にある。

 

 

 

「人間が立てる課題は、いつも彼が解決できる課題だけである。」(『経済学批判』序言)

 

 

 

ここでいう「人間」とは、文脈上、人類のことを指しているが、もっと小さい単位で考えることもできる。

 

現実の人は、なんらか特定の社会的地位にあって、そこから自分の意識を立ち上げる。その意識が正しく現実を把握しているかどうかは別にして、人の意識は、必ずある範囲を想定し、その範囲のなかでそれぞれの課題を「立てる」。

 

マルクスの文の力は、なぜ課題を「立てる」ことが「解決できる」ことと同義なのか、という疑問を起こさせるところにある。

 

「課題を立てるということは、課題を解決できるということと同義である」というマルクスの言葉は、「変えられると思った人は、本当に変えることができる」というジョブズのメッセージに似た響きをもっている。

 

 

 

...

 

 

 

解決とは、目標地点に到達することだと仮定しよう。到達までの距離を微分すると、速度になる。

 

速度を微分した加速度というものもある。速度は加速度によって調整できる。

 

目標地点に最短かつ確実に到達するということは、そのときどきの加速度を調整しつつ、正確な方向に、最適な平均速度で進むことと同義である。

 

到達までの距離は、方向と速度に還元される。

 

 

 

...

 

 

 

よく考えてみれば、ジョブズもマルクスも正しい。

 

人は課題を見つけ、それを克服しようとして行動をつづける。ひとつの課題を解決すると、次の課題が生まれる。常に途上にある人間にとって、解決しつつあることが、すなわち解決であるともいえる。解決とは、解決しつつあることにほかならない。

 

解決への意志をもった時点で、問題は半ば解決しているともいえる。そして、じっさいに目的に向かって進むなら、それが課題の解決そのものだともいえる。

 

なにかの原因で目的が変化したり、途中でやめることもある。しかし、その時点まで解決に近づいていたなら、それは解決だったのである。

 

 

 

ジョブズのコマーシャルに登場するガンジーやジョン・レノンは、すでに解決そのものの姿であった。

 

ひらたくいえば、「いっちゃった」人たちである。「到達しちゃった」人は、目標の位置と距離をみせてくれる。人々は、「いっちゃった人」は遠すぎて到達できないと思いやすい。

 

だが、問題は距離ではない。距離は、方向と速度に還元される。

 

自分なりの速度で、加速度を調整しながら、目標に向かって進んでいるかどうか。そこなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバ・スタイルの塾を作りたい | 08:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「他人の人生を生きるな」 スティーブ・ジョブズのスタンフォード大スピーチから 

アップル社の創立者のひとり、スティーブ・ジョブズ(Steve Jobs 1955-2011の有名なスピーチがある(スタンフォード大学の卒業式で。2005年6月)

 

原稿を読み上げる表情はそうとう緊張していて、新製品の名プレゼンのようにはいかなかったようだ。

 

しかし、スピーチの内容がいい。

 

自分が大卒ではないこと、望まれない男の子(母親はまだ学生で、しかも女の子がほしかった)として生まれ、すぐに養子に出されたこと、裕福でなかった育ての親のお金で授業料の高いカレッジに入ったが授業に興味がもてず半年で中退したこと。所持金もなく貧しい生活をしたこと。

 

自分のめぐまれなかったところ、ダメだったところをはじめに述べて聴衆の共感を獲得している。

 

そして、カレッジでカリグラフィー(アルファベットの書道)のクラスをとり、文字の美しさに魅了されたことが、コンピュータ画面の開発に役立ったと述べている。

 

ジョブズは根っからのデザイナーだったのかもしれない。

 

14分ほどのスピーチで、ジョブズが若者に送ったメッセージはただひとつ。

 

 

 

There is no reason not to follow your heart.  Don't waste your time living someone else's life. 

 

自分が好きで仕方がないことをすれば、それでいいのです。他人の人生を生きてはいけない。

 

 

 

 

ということである。

 

自分の膵臓ガンについても告白している。

 

このスピーチには、つきつめた雰囲気があり、どこか死の影がつきまとっている。

 

 

 

スピーチは、次のセリフで終わる。

 

 

 

"Stay hungry, stay foolish."   

 

そこに留まるな。危険を犯せ。

 

 

 

これは人を永遠に鼓舞する言葉かもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバ・スタイルの塾を作りたい | 08:40 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
スティーブジョブズの朗読がかっこいい アップルの革命宣言

英語の発音の授業で、私がときどき学生に見せる映像がある。

 

エジソンやガンジーやレノンやアリなど、型破りな偉人たちの実画像とともに、スティーブジョブズの声でナレーションが流れるというシンプルな構成。アップル社の名前は、まったくでてこない。

 

 

 

http://jp.youtube.com/watch?v=No1MxAnHuJM&NR=1

 

 

 

きっかり60秒。日本企業のコマーシャルではめったにお目にかかれないスタイルだ。

 

 

 

英語の表現に、

 

"Think out of the box."

 

というのがある。自分の狭い世界から抜け出して、全体をよく見てみよう、という呼びかけの言葉である。ジョブズのナレーションにタイトルをつけるなら、"Act out of the box." とでもなるだろう。

 

ああ、企業は、こういうメッセージを世に送ることもできるのだ。

 

 

 

 

...

 


このコマーシャルには日本語版もあるが、ナレーションは英語版のほうがシャープな感じなので、メモしておく。

 



"Here's to the crazy ones, the misfits, the rebels, the troublemakers, the round pegs in the square holes, the ones who see things differently.

They were not fond of rules and they had no respect for the status quo.

You can quote them, disagree with them, qualify or vilify them.

But the only thing you can't do is ignore them, because they changed things, they pushed the human race forward.

And while some may see them as the crazy ones, we see genius, because the people who are crazy enough to think they can change the world are the ones who do."

 

 

 






 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバ・スタイルの塾を作りたい | 08:10 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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