ごきげんようチャンネル


"Obama got in, and he is the pawn of globalized interest." Naomi Wolf



問題の追求が、問題の解決である

生き方の要点は、自分で決めた対象の本質を追求しつづけることである。無限に解決に向かっている人は、ある意味で、問題をすでに解決している。



ひろさちや氏の文を紹介しよう。
 

 


「わたしは子どものころ、こんな話を祖母に教わりました。

大量の糊(のり)が必要になりました。そこで牛若丸は、ちいさな箆(へら)でもって少しずつ飯粒(めしつぶ)をこねて糊をつくり始めました。それを見て、弁慶は言いました。

「そんな悠長なやり方では間に合いませんよ…」

弁慶は大きな鉄の鉢(はち)に飯をどっさり入れて、金棒でもってかきまぜました。もちろん、そんなやり方で糊ができるはずありません。

「あんな、急いだらあかんで。ゆっくりしいや……」

祖母はそんな教訓を語ってくれました。人一倍せっかち者だった祖母の言葉だから、聞いておかしかったですね。

これでおわかりのように、問題の解決は、その解決方法によってものすごく違ってくるだけでなく、どういうふうに解決するかが決まれば、おのずから問題が解決されてしまうものです。ある意味では、問題の解決方法そのものが問題の解決でもあるのです。」

 

 

(ひろさちや『50歳からの仏教入門』講談社、1998年、31-33頁)
 

 


ひろさちや氏の文はつづく。


 


「山登りをするときに、頂上をきわめることだけを考えていると、自分はまだこれだけしか登っていないと思って、絶望感におそわれます。植物採取でもしながら登ると、知らずのうちに頂上にまで来ているようなものです。

わたしたちに、極楽浄土に往きたいといった願望のあるかぎり、蜘蛛の糸はのぼれません。目標が設定されていると、かえって目標が遠くに感じられます。

蜘蛛の糸をのぼるには、そののぼっているという意識すら捨ててしまうことです。自分にとって蜘蛛の糸だけが「世界」だとしっかり信じられたとき、そこに救いがあるのでしょう。」

 

(ひろさちや同上書、59-60、34-35、185-186頁より抜粋)
 

 

 


解決と同等の解決方法とは、道中を道楽にするということである。これが、自分の主体性を確立することになる。

 



 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバスタイルの塾「希望」を作りたい | 00:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
それでも希望 hope は残る ハリケーン被害の島から 

ハリケーン Irma によるカリブ海の被害が報道されている。

 

 

 

 

http://time.com/4938103/hurricane-irma-caribbean-island-st-martin-anguilla/

 

 

 

 

あらためて地図を見ると、カリブ海には、セントマーチンやアンギラのように、フランス、イギリス、オランダの領土になっている島がかなりあることに気づく。住民は、これらの宗主国に支援を求めている。

 

現地では、ハリケーンによる直接の災害のほか、商店の略奪や水の汚染が深刻になっているようだ。

 

有力な宗主国を持たない島々は、支援を求める先もないのだろうか。

 

 

アンギラに住むカナダ出身の女性が、こう言ったという。

 

 

 

「いま頼りになるのは、希望だけです。」

 

"All we are really living on is hope."

 

 

 

 

 

...

 

 

 

 

以下、上記の報道から抜粋。

 

 

As reports of desperation mounts, governments of France, Britain and the Netherlands, who administer a number of territories in the region, have had to defend themselves against criticism over their response to the disaster.

 

The Netherlands announced that it was sending extra troops to the Dutch side of St Martin and French President Emmanuel Macron promised to rebuild his country’s overseas territories destroyed by the hurricane. He added that 11 people have died in St. Barts and St. Martin, raising Irma’s overall death toll to at least 38.

 

British Foreign Minister Boris Johnson defended the country’s response to the “unprecedented catastrophe” on the BBC on Monday. He will be flying into the region and Britain’s Department for International Development says 1,000 military troops have been deployed, providing shelter kits, food and water in Tortola and Anguilla.

 

For Gough, help couldn't come sooner. "My neighbors and their four children are drinking water from a contaminated cistern" she said. "All we are really living on is hope."

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバスタイルの塾「希望」を作りたい | 08:44 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「第三の場所」 スターバックスと外国語の共通点

外国語が成立する場所を「第三の場所 Third Place」と呼んだ学者がいる(Kramsch 1993。窪田光男『第二言語習得とアイデンティティ』ひつじ書房、2005年、31頁)。

大人が自分のアイデンティティを傷つけることなく外国語を身につけるには、母語の世界でもネイティブの世界でもない「第三の場所」を自分の心につくるのがよい、という意味だ。

そういえば、スターバックスを世界的企業にしたハワード・シュルツが、まさしく「第三の場所」をキーワードにして、次のように書いている。

 

 

 


「私はまったく趣きの異なる町でスターバックスが成功するのを見て、考え込まざるをえなかった。人々はいったい何に反応しているのか?

最初はコーヒーこそがその答えだと単純に考えていた。そのうちにわれわれの店には独特の雰囲気があり、それがコーヒーじたいに劣らぬ魅惑的な効果を発揮していることがわかってきた。

ロマンチックな味わい スターバックスの店で5分か10分過ごすと、人々は単調な日常生活から解放され、はるか遠い世界にいざなわれる。スマトラやケニア、コスタリカの香りが漂う場所はほかにあるだろうか。

手の届く贅沢 ブルーカラーも医者も、スターバックスで自分自身へのちょっとしたご褒美として、世界に認められた味を楽しんでいる。

オアシス スターバックスの店では、考えをめぐらし自分自身のことに集中できる静かなひとときが得られる。ささやかな逃避行が楽しめて気分がさわやかになる。

普段着の交流 どういうわけかスターバックスの店内にいると、見知った顔が見当たらないのに、安心できる世界にやってきたように感じるらしい。」

(ハワード・シュルツ(小幡照雄ほか訳)『スターバックス成功物語』日経BP出版センター、1998年、156‐158頁より要約)

 

 

 

 


こうしてシュルツは、スターバックスが「職場とも家庭とも違う安心して集える『第三の場所』を求める人々の欲求を満たした」から成功したのだと気づく。158頁。

外国語の「第三の場所」とスターバックスという「第三の場所」に共通するのは、<ちょっと贅沢な非日常性>であろう。

そしてスターバックスの場合、たんに空間的な「場所」ではなく、人が集まり、<ちょっと贅沢な非日常性>が実現する仕組み(システム)であって、これはまさしく文化装置である。

では外国語の「第三の場所」を作るにはどうしたらいいか。

もちろん、そのための文化装置を作ればいいのだ。

文化である以上、それはユニークな心の花が咲くこと、つまり常に新しい言葉が出現する場所でなければならない。

第三の場所とは新しい言葉によって常にフレッシュな自分が生まれる装置のことだ。

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバスタイルの塾「希望」を作りたい | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
やっぱり反転授業のほうが正しい

江戸時代の寺子屋には、いっせい授業はなかったようだ。子どもは、めいめいやってきては、年齢、性別、家の職業などに応じて各自の課題を与えられ、それが終わったら帰宅する。

 

松下村塾も、行ってみると小さな一軒家のようなところで、黒板のようなものはなさそうだった。

 

藩校や大寺院のようなところでは、いっせい授業に似た形式はあったのだろうが、そうでもないやり方も普通に存在した。

 

いっせい授業だけが技能の伝授の仕方ではなかった、ということだ。

 

 

 

けっきょく、人がなにかを身につけるのは、一人一人が自分で練習するプロセスのなかである。もちろん、横に誰かいたほうがいい時もある。それでも、人がなにかを身につけるのは、自分と向き合っているプロセスのなかでしかない。

 

 

 

いっせいに授業をしなくても「わかる」方法があるのなら、一人で「わかる」ほうが効率がいい。そしてみんなが集まった時は、「鍛える」「勝つ」に時間を割けばいい。

 

これを実現しようというのが、反転授業と呼ばれる方式だ。

 

これから何年かして、反転授業が普通になったら、きっと人々は今を振り返って、こう言うだろう。

 

 

 

<昔は、いっせいに授業やってたんだって。なんて非効率な、なんて徒労なことをしていたんだ!>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバスタイルの塾「希望」を作りたい | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「意志ある生き方を示す。それなら誰もができる」 これが究極の教えだ

<なにがしたいか。自分の意志を示す。自分の意志を示すことが、すなわち自分の生き方になるのだし、それなら、誰でもできるはずだ>

 

 

これが、人が人に伝えるべき究極のメッセージなのだ。

 

われわれは、意志を示すことをためらうことも多い。「自分の意志」といっても、低級なものもある。ただ、<意志をもとうとする意志>つまり希望を捨ててしまうと、生きていけなくなる。

 

 

自分で決めた意志のために、工夫しながら生活すること。生活が意志そのものになること。それなら誰でもできるはずだ...

 

 

いや、もっとあっさりと、こう考えたほうがいい。

 

 

 

 

人が生きているということは、意志の表現である。生活とは、意志そのものなのだ。問題は、意志の内容である

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバスタイルの塾「希望」を作りたい | 20:34 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
なんで数学やるの? それは、人類から子どもへのギフトだから

小島寛之『数学でつまずくのはなぜか』(講談社現代新書、2008年)に、数学教育の存在理由をいくつか紹介した部分がある。28-32頁。

 

 

読んですぐに思ったのは、「これはまるで英語と同じだな…」ということだった。数学教育と英語教育では、ずいぶん違う教科のようにみえるが、これが「必須科目」とされる理由をあげてみると、次のように、よく似ている。

 

 

 

数学実用論(「数学はこういうところで実際に役立っているのだから学ぶ価値がある」と生徒に説明する)=英語実用論(「英語はこういう風に役立つから勉強しろ」と生徒に説明する)。

 

実用論は、ある意味「いやらしい」 と小島氏は述べている。これだと「役に立つものしか必要ない」という「浅ましい根性」につながりかねず、あまり感心しないと。31、32頁。

 

 

 

数学教養論(「数学は人間精神の自由のあらわれであり、第一面白い」)=英語教養論(「英語を学ぶと識見が広がるからやっておく価値があるし、第一面白い」)。

 

現実には、数学は「大人の都合」すなわち「規範」として子どもたちに強要しているという面があり、「数学者たちが思うような『自由でファンタスティックな』数学という風には全く機能していない」29頁。

 

算数のレベルなら日常的に使うから誰もが必要と感じるが、数学となると「教養」というより「強要」と受け止められていると小島氏は批判している。

 

英語にも似た面がある。日本では英語を使う場面が少ないし、英語以外のものでも十分に識見は広められる。ならばなぜ苦労して英語を学ぶのか。けっきょく、英語も教養ではなく強要ではないかという疑問が残る。

 

 

 

数学忍耐訓練論(「学校は数学者の養成機関ではなく社会人の養成機関。数学を学ぶと社会人として論理性や忍耐力が養える」)=英語向上心育成論(「英語を素材にして向上心や忍耐力が育成できる」)

 

この根拠づけは、ただちに次のような疑問や批判を誘発する。

 

 

「数学の無味乾燥な練習を強制するのは、上から言われたことを忠実に行う無批判な人間をつくるのではないか」

 

「英語は知らず知らずのうちに日本語や日本文化を破壊し、欧米崇拝の意識を植え付けている」

 

 

こういう疑問や批判は感覚的・感情的な反発にすぎないとも言えるが、感覚や感情は長く人間につきまとう根深いものでもある。げんに英語が世界中の文化を浸食しているとみる「英語帝国主義論」は、今も少数ながら根強い支持がある。

 

 

 

 

 

以上の三つの論拠は、「三すくみ」の関係にある。三すくみとは、「ナメクジはヘビを食べ、ヘビはカエルを食べ、カエルはナメクジを食べる」という中国古典に由来する表現で、三者がにらみあったまま、身動きがとれない状況をいう。

 

 

実用か教養か修養かといったレベルで議論していると、

 

 

実用論は教養論と修養論から「浅い」と批判され、

教養論は実用論と修養論から「甘い」と批判され、

修養論は実用論と教養論から「怪しげ」と批判される

 

 

という堂々めぐりがつづくわけである。

 

 

 

では、どう考えたらいいだろう。

 

 

小島氏は、むしろ数学は「尊厳のある人間の一人として生まれてきた当然の権利として」学ぶのだと述べている。32頁。数学や英語の学習は「教育権」すなわち「人間としての権利」の一部である。数学や英語を学ぶのは子どもの「権利」だという見方。それはわれわれの視線を正してくれるところがある。

 

「権利」とは、実用的な利害を超越して、人間であるというだけで無条件に与えられた資格のことだから、ちょっと楽しく表現すると、

 

 

 

「数学や英語は子どもたちへのギフトである」

 

 

 

ということだ。

 

gift は give の姉妹語で、"The boy is gifted as a musician."などといえば、特別の才能に恵まれていることを言う。gift という語には「無償で授与された賜り物」というニュアンスがある。

 

だから、

 

 

 

数学や英語は、前の世代から後の世代へのギフトである

 

 

 

というのもおもしろい。

 

ギフトとしての数学、英語。この見方には、<実用・教養・修養>の「三すくみ」を超えるパワーがある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバスタイルの塾「希望」を作りたい | 12:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
education を「国策」として語ることへの違和感

先日、ある教育関係のシンポジウムを聴いた。

 

 

パネリストの一人が教育学者で、その話のなかに、education の本体は子どもによる learning で、そのための行為は coaching, assisting と呼ぶのがふさわしいという説明があった。

 

この説明には、teaching という語が出てこない。上から teach すると、子どもは being taught にはなるが、それが主体的な learning になるとは限らないからだという。teaching は、education の本道ではないのだ。

 

educate の語源は、e- (外へ)+ duc(導く)である。それは外から与えるというよりも、本来、自分から自分の殻を破っていく作業である。自分で自分の能力を引き出す力が、どの人間にもある。だから、それを外からの助言で導き出すことができる。他者の能力を導き出す能力を自分から引き出すことが、教師、いやコーチ自身の education である。

 

そう考えると、education というのは、個人が自分の人生を全うすることであり、コーチングとは、それを助ける役回りをすることによって、自分の人生を全うすることである。education とは、それぞれの人が「自分自身を良く生きる」ことそのものである。

 

 

そういうことを考えながらシンポジウムを聴いていると、違和感を感じる瞬間が何度かあった。

 

 

ひとつは、これからの教育は子どもの「思考力・判断力・表現力」を養成することが重要だ、といった説明が出てくるのだが、それがともすれば、「今の子どもはダメである」「今のままでは危うい」という風にも聞こえることである。その背景として、変化の速い国際競争に負けない「日本人」を作らないと... という焦りがあるようだ。

 

しかし、昔から、子どもは子どもであって、今の子どもが「ダメ」とか、子どもじたいが「危うい」ということはありえない。むしろ、社会の力量が上がっているぶん、昔よりも子どもの潜在力は上がっているとみる方が生産的だと思う。

 

本来、子どもたちに問題はない。問題が起こるのは、もっぱら大人の側に、子どもと自分を educate する力が不足しているからである。「子どもにこういう能力を」というのは、教育関係者が陥りがちな、偽善的・欺瞞的な思考回路であって、それは大人の力量不足を覆い隠す「おまじない」という面がある。

 

社会の本体を担っているのは、大人である。大人が面白そうにみずから変化 educate していれば、子どもはそれを真似てみずから成長 educate する。

 

 

 

もうひとつの違和感は、<いっせい授業、いっせい進級>という現行の学校システムに、教育の専門家があまり疑問を抱いていないように見えたことである。私の経験では、学生が30人以上になると、目が届かなくなる。一人の教員が、30人もの子どもにいっせいに話をして、どの子からも同じ education を導き出すなど、事実上不可能であろう。

 

近代以降の学校は、<いっせい授業、いっせい進級>という工場型システムがもつ、虚構の効率性のとりこになっている。子どもたちの潜在力が上がり、それだけ子どもの多様性が増しているとすれば、このシステムじたいの見直しが、正面から議論されるべきではないだろうか。

 

 

 

三つめの違和感は、既存の教科内容の革新を、誰も論じなかったことである。もちろん、小学校では英語やプログラミングが導入されているし、高校や大学ではコースや学科学部を新設している。私が気になるのは、むしろ、数学、英語、国語といった既存の基幹科目の根本的、学問的な改善がないという事実である。

 

こうした科目の高校までの教科内容は、基本的には数十年間変わっておらず、学問としてはすでに古い。だから大学の研究者がこうした科目内容を研究することは少なく、改善を提唱することも少ない。数学、英語、国語、いずれも学習成果に疑問符がついて久しいにもかかわらず、である。

 

私の経験では、こうした既存主要科目の教育方法研究会とかコンテストをみると、教員の「教え方」の方法の改善に努力が集中していいる。科目の内容じたいが古くさくなっていないか、子どもたちの潜在力に見合っているかという点は、まず問題にされない。小中高の教員が大学レベルの新しい研究から制度的に切り離されているために、古い内容を工夫しながら教え続ける以外に、方法がないのだと思う。

 

 

 

 

以上のような私の違和感は、要するに educationを国策として語ることへの違和感から来ている。education とは、「国策」である前に、それぞれの人が「自分自身を良く生きる」こと、そのために助けあうことだと捉える方が良い。その意味でのeducation を充実させることを通して、「国策」のひとつとしても教育制度を改善していくことに、私は賛成である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバスタイルの塾「希望」を作りたい | 08:28 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
革新とは、魅力ある違和感を誘う現実を創造することである

むかし、三橋達也という歌手がいた。民謡歌手出身で、歌謡曲のヒット曲がある。

 

久しぶりに彼の歌をラジオで聴いて、ハタと気づいたことがある。

 

曲は洋風なのに、彼が和服を着て歌っているイメージしか浮かばないのだ。民謡的歌謡曲の際どさというか、危うさというか。既存の境界線を超えたハイブリッドの魅力。だから、つい聴いてしまう。

 

 

 

考えてみれば、ヒット曲は、まず例外なく、こうした危うさをもっている。ある有名な作詞家が、作詞のコツは詞の中に「一服の毒を盛る」ことだと言っていた。耳に引っかかる違和感、意外感。そういう要素がないヒット曲は、まずない。

 

江差追分のコンテストのように、規格の決まった技能を競いあうこともあるが、そこからヒット曲は生まれない。

 

 

 

 

観念上の違和感。魅力的な意外感。それを支える現実を作ってしまう。そこに革新がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバスタイルの塾「希望」を作りたい | 08:11 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
希望を与える死を目指す 

思うに、人の一生は<終わりからみる>のが正解ではないだろうか。

 

 

もう生きていなくても、他の人の意識の中に生きている人がいる。

 

ブッダが、「私はもう生まれてこない」と誇らしく断言したという話があるが、これは、自分の肉体が滅することで、永遠の「法」となれる喜びを語ったのだろうと思う。その通り、ブッダは今も仏教徒の中に生きている。

 

 

 

 

ブッダほど偉大でなくても、一般の人が死を超えていく方法は、いくつか発明されてきた。

 

のちに武士道と言われたものは、与えられた大義を受け入れて死ぬ。そうすることで名を残す手法である。どうせ死ぬなら、その死を利用すべきだという貪欲な発想だろう。死んで名を取る。武士道は、個人の死を超越する「名の論理」であったと思う。

 

武家が滅んだ今でも、家の姓が継がれることに誇りをもつ人がいるが、これも個人がたんなる個人として死ぬのではなくするための発想である。天国や浄土も、死を超えるための観念装置である。死に方は、生き方の集約である。

 

ガンジーやキング牧師やマザーテレサのように、生き方じたいが今も人々に影響を与えつづける人もいる。

 

日常でも、親から子へ、師から師弟へ、先輩から後輩へ、知り合いから知り合いへと、人は互いに影響しあっている(互いに労働力を対象化している)から、人が生きていることじたいが、死を超える行為だとも言える。

 

 

 

 

ところで、私がこの頃思うに、死を超える方法がもうひとつある。

 

それは、ユニークな組織を残すことである。資本主義を越える社会編成が模索されているが、資本主義を越えるためには、政治を通した法の修正や税金の還流のほかに、個々の組織のあり方を工夫する道がある。

 

たとえばスターバックスは、従業員を大事にしながら、社会に新しい価値を加えることに成功した事例だと言われている。各地の中小企業の中にも、きっと立派な例があることだろう。

 

組織をつくる。これは容易なことではない。たとえ作れても、油断していると、組織はすぐに腐敗し幻滅し混乱し崩壊する。

 

資本主義を越える組織は、できないかもしれないし、できるかもしれない。

 

 

 

 

願わくば、これから生きる人々に希望を与える死に方をしたいものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

  

    ある瞬間、世界はある形をなす

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバスタイルの塾「希望」を作りたい | 07:32 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
この世に大事なことは三つしかない。

UKで10年間(1997-2007)首相をつとめたトニー・ブレア氏は、こういう演説をした。

 

 

 

「政治の三つの優先課題を問われれば、私の答えは、教育、教育、教育である。 Ask me three main priorities for government, and I tell you, education, education, and education.」

 

 

 

 

実際、ブレア時代には、全国の公立学校を持続可能な社会のモデルとする構想が推進されたが、ブレア首相の退陣とともに、この雄大な構想は頓挫した。そのため、

 

 

「サスティナブルな教育を支える政府のほうが、持続可能でなかった」

 

 

と、惜しむ声があったという。(永田桂之他『新たな時代のESD サスティナブルな学校を創ろう』明石書房、2017年3月、5-7頁)

 

ともかく、ブレア政権では、教育が地球と社会の未来を決めるとされたわけである。

 

 

 

さて、今あらためて、現在の世界に必要なものを一つだけ選ぶとしたら、どうなるだろう。

 

ちょっと抽象的な言葉になるが、それは「希望」ではないかと思う。人は、正義のない社会に住むことはできるかもしれない。しかし、希望のない社会で生きていくことは出来ない。今、大人も子どもも欲しいのは、希望ではないだろうか。

 

このことを、ブレアの言葉を借りて言えば、こうなるだろう。

 

 

 

 

「教育の三つの目標を問われれば、私の答えは、希望、希望、希望である。 Ask me three main aims of education, and I tell you, hope, hope, and hope.」

 

 

 

 

希望は、どの時代にも、どの人にも、必要なものだ。教育の要諦は、自己教育も含めて、いかに希望を育てるかではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

  地球は、なぜこんなに美しいのだろう 濃尾平野

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバスタイルの塾「希望」を作りたい | 20:07 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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