ごきげんようチャンネル

科学とは、正確に驚くことである。 Y.M.
           

<私を愛してくれてもいいのです>と言おう 名曲”デスペラード”のメッセージ
さっきピーターバラカンさんのFM番組「ウイークエンドサンシャイン」で、イーグルズのヒット曲”デスペラード”がかかった。

メロディーといい、歌詞といい、やはり名曲。

「デスペラード」というのはバクチ師のことで、その日暮らしのならず者を諭(さと)す内容の歌詞だが、人の生き方をしみじみと考えさせる曲になっている。

どの言葉も意味深いが、とくに最後のラインに、


You better let somebody love you, before it's too late.


とあるのは、日本語なら「今からでも遅くないから、誰かに愛してもらえよ」くらいになるが、この英語は、それだけでは表現できない部分をふくんでいるように思う。


<世界は、あなたを愛したがっている。それを拒否しているのは、あなた自身なのだ。>


というメッセージである。

世界のこの側面がわかった人は、幸福だ。

そのとき世界は、マタイのなかのイエスのように、こう言うだろう。




「幸いなるかな、心の貧しい者よ。世界はあなたのものだ。」















【デスペラード歌詞】




"Desperado"

 

Desperado, why don't you come to your senses?

You been out ridin' fences for so long now

Oh, you're a hard one

I know that you got your reasons

These things that are pleasin' you

Can hurt you somehow

 

Don't you draw the queen of diamonds, boy

She'll beat you if she's able

You know the queen of hearts is always your best bet

 

Now it seems to me, some fine things

Have been laid upon your table

But you only want the ones that you can't get

 

Desperado, oh, you ain't gettin' no younger

Your pain and your hunger, they're drivin' you home

And freedom, oh freedom well, that's just some people talkin'

Your prison is walking through this world all alone

 

Don't your feet get cold in the winter time?

The sky won't snow and the sun won't shine

It's hard to tell the night time from the day

You're losin' all your highs and lows

Ain't it funny how the feeling goes away?

 

Desperado, why don't you come to your senses?

Come down from your fences, open the gate

It may be rainin', but there's a rainbow above you

You better let somebody love you, before it's too late





| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 人間なんて | 08:46 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「”私はアホです”と書いて立っていなさい」という粋な?判決が実在した
あまりにアホらしいので無視しようと思ったが、どうにも捨てがたいニュースがあったのでメモしておく。


アメリカのオハイオ州の町で、酒に酔った58才の男が警察に911コールして、「殺すぞ I'll kill you.」などと口走った。脅迫罪か公務執行妨害か、とにかく判決が出た。


「"私はアホです。 I am an idiot. "と明記した看板を持って、警察署の前で毎日三時間立っていなさい。一週間つづけること。」


判決だから、男はその通りにした。

男は、「酔った上のこととはいえ、ホントに悪いことをした。これで罪の意識が減るから、ちゃんとやります」と話している。

その映像がなんともマヌケで、悲しいというか、おもしろいというか…(それをわざわざ取材しに行った報道機関も、ちょっと…)



http://www.bbc.co.uk/news/world-us-canada-23955695




アメリカでは、こういう粋な?判決がときどきあるらしい。

日本でもやってみたらどうかとも思うが、いろいろな事情で、実行不可能なのかもしれない。







(おわり)







おまけ:男がサンドイッチマンのように持たされた自筆の看板の、情けない文句は、次のとおり。



”I apologize to officer Simone and ALL police officers for being an idiot calling 911 threatening to kill you. I'm sorry and it will never happen again.”









| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 人間なんて | 16:58 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
フクシマでオリンピックを!
ラジオの番組を聞いていたら、

”オリンピックを開催するなら、フクシマの原発爆発現場で”

という投稿があった。

<原発つくるなら、国会議事堂の下に>という、冗談かつ本気みたいな意見もあると聞く。

もちろん、どちらも実現はしないだろう。

しかし、

「もしそうなったら?」

と考えてみるだけでも、われわれの意識になにかが起こるような気がする。















| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 人間なんて | 08:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
フロイトの肉声が三分間、聞ける
フロイト(1856-1939)の写真は見たことがあっても、彼の肉声を聞いた人は稀だろう。

彼がイギリスにいたころに録音された、おそらく放送用と思われるメッセージが残されていることがわかった。



http://www.npr.org/blogs/13.7/2013/03/08/173832371/listening-to-freud-sometimes-a-voice-is-more-than-a-voice



死の前年に録音されたものらしく、かん高い声で、ゆっくりとした抑揚をつけて原稿を読みあげており、真面目で厳格な人柄を感じさせる。







資料;以下に、フィル・モロン(中村裕子訳)『フロイトと作られた記憶』(岩波書店、2004年)から引用しておく。

フロイトがまずアメリカで受け入れられ、それがヨーロッパでのフロイト評価を高めた経緯が述べられている。

安易な受容、それらしい言葉の発明、そして海外で評判になることでようやく自国での評判が高まるというブーメラン的な経緯。

日本の禅も、フロイトの学説に似た経緯をたどって、戦後、世界的な権威を得たのではないかと思われる。




(以下、引用)




「精神分析を信じていたときですら、アメリカ人たちはフロイトの著書をまともに読みはしなかった。

精神分析医でもない限り、おおかたの知識人たちが読んでいたのは、フロイトの弟子たちの手になる分かりやすい解説書ばかりだったし、そもそもフロイトのアメリカお目見え公演ともいうべき1909年のクラーク大学における講義自体が、アーネスト・ジョーンズ(当時トロント大学に職業的亡命をしていたウェールズ人の分析医。後にフロイトの大部な伝記を著す)の強い勧めに従って、自らの意に反すると感じつつ、「現実的なアメリカ人」向けに理論を大幅に圧縮して単純明快にし、実用性をことさらに強調したものだった。

そしてまさしくそれが受けたのであって、その講義録である『アメリカ心理学雑誌』に掲載された「精神分析五講」が、そののちしばらくの間、フロイトの現物として広く読まれたほとんど唯一の「著作」であったのである。

フロイトは後に、この1回限りのアメリカ訪問を、「私はヨーロッパではばかにされていると感じていたが、むこう(アメリカ)では当代きっての人たちが仲間扱いしてくれた」と回想している。

そういう温かい雰囲気の中で、自分の発明した精神分析はまったく新しい「科学」だとフロイトは言明した。そしてアメリカの「当代きっての人たち」の多くもそれを受け容れたのである。

ウィリアム・ジェームズのように「この男の夢の理論はかなり眉唾」と感じた人でさえ、そのほかの部分については、「真正な心理学である機能的心理学に貢献するだろう」と断言している。…


アメリカの精神医たちがフロイトから手に入れたのは、なによりもコトバだった。

それまで精神医が使っていたのは、トラウマ(外傷)といういかにも軍医上がりのコトバ以外には、意志、感情、勇気、決意、自制心といった日常語にすぎなかった。だからフロイトが患者観察の中から練り上げて創案した一連の用語は、なによりの贈り物だったのだ。

もっとも、フロイトの用語の中には、彼がわざわざ日常語を使った「私」(イヒ)だの、ほかに言いようがないから「それ」(エス)と言ったコトバも交じっていた。

当然のことながら、当時のアメリカ人は、もっと「科学」らしい感じがするようラテン語に直して、エゴだのイドだのと、こむずかしい術語に仕立てあげた。

こうして数十年の年月を経るうちに、多くの精神分析用語や概念が診察室から漏れでて庶民に広がり、日常の普通のコトバとして使われるようになったのである。」



(以上、フィル・モロン(中村裕子訳)『フロイトと作られた記憶』岩波書店、2004年、99-100、104−105頁。ゴチックは三浦)












| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 人間なんて | 22:44 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「固視微動」についてのメモ おわり
固視微動は文字を読むさいにも欠かせない。

文字を読む場合、実験によると、固視は通常150msから500msのあいだ継続し、固視のあいだも視線は微動 saccade する。

文字を読む場合には、改行部分でさっと行頭にもどる動き return sweep や、文意が理解しにくい場合に逆戻り regression するといった特徴的な眼球運動がある。

英語の本であれば、標準的には目の焦点から左右に15文字程度が潜在注意の対象となるが、読みが得意な人は潜在注意の幅が広く、固視の時間が一定で、逆戻りも少ない。

ただし、文字を認知してその意味を理解するまでにはいくつかの段階があり、眼球運動のあり方はそのすべての段階の要因に左右される。

たとえば環境の明るさ、文字の大きさ、書字法、読む人の単語力、知識といった要因も眼球運動に影響を与える。

(以上、白畑知彦ほか『詳説 第二言語習得研究 理論から研究法まで』研究社、2010年、223-226頁)

眼球運動と固視とそのなかの微動によって、人間は文字という<動かない存在>も<動く存在>として知覚している。







(おわり)







| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 人間なんて | 11:12 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「固視微動」についてのメモ その2
固視微動は視線の方向の停止中(固視)における微細な変化(微動)である。

「固視」と「微動」に分けてみると、

固視 fixation … 固視は意図によって調整されており、人物の年令を当てる、物体の位置を覚えるなど、課題が変わると固視の順番も位置も大きく変わる。

また、人間は固視している対象の周辺にも潜在的注意 covert attention を向けている。

微動 saccade … 固視のあいだにも行っている微細な運動。

微動saccadeには何種類かあることが知られている。

ドリフト drift …滑らかな動き。湾曲を含む
トレマ tremor …高周波の振動
フリック flick (マイクロサッカード)…跳躍的な動き




固視微動の詳細


http://www.ds.u-tokai.ac.jp/mymd/fixationmove.htm



眼球運動はたんに固視から固視へと最短の線を結んでいるのではなく、上記のように個々の固視のあいだにも湾曲したり振動したり跳躍したりといった複雑な運動を行っている。

固視の方向は随意的に決めることが可能であるが、微動の速度や方向は非随意的である。また、眼球の運動は刺激のある方向に向かうとは限らず、刺激を避ける方向に向かうこともある(アンチサッカード)。

(以上、松本絵里子編著『脳とこころの視点から探る心理学入門』培風館、2011年11月、58-59頁)

微動が起こる生理的原因は、眼球の方向を一定に保つ、網膜像を鮮明に保つ、神経のインパルスを反映するなどが考えられている。

http://www.ds.u-tokai.ac.jp/mymd/fixationmove.htm







(つづく)









| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 人間なんて | 07:53 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
固視微動についてのメモ その1
人間の認知を可能にする基本的生理のひとつに「固視微動」がある。

人間は一点を見つめているときでも、無意識のうちに眼球を頻繁に微動させて対象をとらえている。

特殊な装置で網膜上の同じ位置に対象が写るようにして固視微動を封じてしまうと、対象は視野から消失してしまうという。

http://www.ntt.co.jp/journal/0410/files/jn200410060.pdf

これは存在というものが人間にとって<起こり>であることを示唆すると思う。

対象が<ある>だけなら、そこには何ら動きがないように思いがちだが、じつは人間は絶えず視線を変更することによって、ただそこに<ある>だけの対象でさえも<起こり>として把握している。

なぜ私がこの事実に注目するかというと、この無意識的な生理が、人間が言語によって対象をとらえる際の概念のあり方に影響を与えているのではないかと思うからである。

たとえば英語において、たんなる<存在>を表すbe は、動態を表す<動詞>の一種として扱われる。

<存在>が<動態>の一種になるのはなぜか。

それは、人間はもともと存在(実体)を固視微動によって<動くもの>としてとらえているからではないか。








(つづく)








| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 人間なんて | 23:58 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
乃木希典 近代日本の二面性を象徴する男
最近、乃木希典(のぎ・まれすけ 1849−1912)の未発見書簡が見つかったという報道があった。

内容は、自分は日露戦争で息子を失ったが、多くの子弟を自分の指揮によって死なせた責任をとり、養子をとらず家は断絶するつもりだというもの。

http://www.hokkaido-np.co.jp/news/topic/341210.html

乃木大将は日露戦争で第三軍司令官として旅順攻略に成功して英雄視されたが、本人は日本軍だけで6万人もの死傷者を出した責任を痛感し、死んで謝罪したいという願望を抱いていた。

敗れたロシア軍との面会では敵の武勇をたたえ、丁重に対応して感動させたという。

戦後、廃兵院を訪問しては義手を寄付したり、戦勝を誇るためではなく戦死者の父母兄弟への謝罪のために各地を講演して歩いた。

そして明治天皇大葬の日、静子夫人とともに殉死した。

http://blog.livedoor.jp/ezorider/archives/53154495.html

乃木は戊辰戦争、西南の役、台湾総督、そして日露戦争と多くの実戦に参加した生粋の軍人であり、勝利のためには多くの将兵をあえて犠牲にした人である。

そして同時に、自分の息子を戦死させたこともあって軍隊の悲劇性をよく知り、指揮者という立場の厳しさもよく知っていた人であった。

近代日本の暴力性と悲しみを体現した人物である。











| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 人間なんて | 17:58 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
中道とは道楽である ひろさちや氏の発見 おわり
仏教の「中道」とは?

「中道とは目標にこだわらないで、歩むことを楽しむことです。

山登りをするときに、頂上をきわめることだけを考えていると、自分はまだこれだけしか登っていないと思って、絶望感におそわれます。植物採取でもしながら登ると、知らずのうちに頂上にまで来ているようなものです。

わたしたちに、極楽浄土に往きたいといった願望のあるかぎり、蜘蛛の糸はのぼれません。目標が設定されていると、かえって目標が遠くに感じられます。

蜘蛛の糸をのぼるには、そののぼっているという意識すら捨ててしまうことです。自分にとって蜘蛛の糸だけが「世界」だとしっかり信じられたとき、そこに救いがあるのでしょう。

「中道」という考え方は、それまでの人類の思想史になかったものです。釈迦の独創です。

苦行であれば、釈迦以前にも多くの宗教者が実践していました。宗教といえば苦行と言ってよいほど、宗教と苦行の結びつきは密接です。

しかし、「中道」なんて考えは、誰も考えたことのなかったものです。」(ひろさちや『50歳からの仏教入門』講談社、1998年、59-60、34-35、185-186頁

「中道」とは、ヘラで飯粒をつぶした牛若丸のように、自分の方法に確信をもち道を行くことじたいを楽しむことである。

まあ、中道というより「道中」とか「道楽」とでもいうのがいいかも。

そして驚くことに、道中を道楽にすることこそ、自分の主体性を確立することになる。

「釈迦は誕生の直後、

《天上天下唯我独尊》

を言われ、臨終の直前に、

《自灯明・法灯明》

を言われました。

わたしたちが、釈迦の教えられた法(真理)にいくら忠実であっても、もしも自分という主体が確立されていないならば、それは法の奴隷でしかないことを意味します。

法の奴隷は真の仏教者ではありません。

仏教者になるためには、まず自分という強靭なる主体性の確立が必要です。釈迦はそのことを教えるために「法灯明」より先に「自灯明」を言われたのだと思います。そこのところに釈迦仏教の真髄があると、わたしは思っています。」(同書、56頁




| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 人間なんて | 00:22 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
方法の解明が問題の解決だ ひろさちや氏の発見 その1
問題の解決方法がわかること。それは問題の解決そのものに等しい。

ひろさちや氏の名文を紹介しよう。

「わたしは子どものころ、こんな話を祖母に教わりました。

大量の糊(のり)が必要になりました。そこで牛若丸は、ちいさな箆(へら)でもって少しずつ飯粒(めしつぶ)をこねて糊をつくり始めました。それを見て、弁慶は言いました。

「そんな悠長なやり方では間に合いませんよ…」

弁慶は大きな鉄の鉢(はち)に飯をどっさり入れて、金棒でもってかきまぜました。もちろん、失敗します。そんなやり方で糊ができるはずありません。

「あんな、急いだらあかんで。ゆっくりしいや……」

祖母はそんな教訓を語ってくれました。人一倍せっかち者だった祖母の言葉だから、聞いておかしかったですね。

これでおわかりのように、問題の解決は、その解決方法によってものすごく違ってくるだけでなく、どういうふうに解決するかが決まれば、おのずから問題が解決されてしまうものです。ある意味では、問題の解決方法そのものが問題の解決でもあるのです。

だから、釈迦が老・病・死の問題をどう解決したかは、彼がそれをどのように解決しようとしたか、その方法が大事です。その方法の中におのずから解決があったわけです。わたしはそう思います。」(ひろさちや『50歳からの仏教入門』講談社、1998年、31-33頁

ひろさちや氏によると、仏教の解決方法=解決とは、「中道」をたどることだった。では中道とは何か。


つづく






| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 人間なんて | 00:21 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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