ごきげんようチャンネル


あきらけき かがみにあへば すぎにしも いまゆくすゑの こともみえけり

         大鏡


チョムスキーは宇宙人である

ノーム・チョムスキー(Noam Chomsky, 1928-  )が、アルジャジーラのインタビュー番組に出演している。

 

 

http://www.aljazeera.com/programmes/upfront/2016/11/upfront-special-noam-chomsky-trump-era-161125114959227.html

 

 

 

去年の11月、トランプが当選した直後のもの。静かで明晰な語り口。もちろんチョムスキーは、トランプに対して非常に批判的かつ警戒的。

 

来年で90歳になるチョムスキー。MITを引退した今も、社会問題についての発言は先鋭的だが、彼の専門の言語学のほうは、これからどうなるのだろう。

 

私はときどき、チョムスキーは宇宙人ではないかと思うことがある。

 

宇宙からやってきて、半世紀以上にわたって地球上の才能を不毛な研究にひきずりこみ、貴重なエネルギーを消耗させた地球外エージェント。

 

そして、アメリカ人の著名学者という立場を活用して、社会問題について大胆な発言をつづけ、権力を批判し、人々を啓蒙し、勇気づけた。この功績は大きい。

 

 

人々に夢をもたせ、人々を翻弄してきた、現代のかぐや姫。

 

だとすれば、いずれ月に帰るのだろう。そして、彼は地球の人々に、かなり長く記憶されるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 生成文法は消滅する | 10:32 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
交通ルールと車の機能 カテゴリーの錯誤としての生成文法 おわり
「交通ルールは車の機能である」


というと、どことなくおかしいことに気づくが、少し変えて、



「車はたいてい交通ルールを守る」



というと、そうおかしくない感じがする。

じつは、この言い方には、はじめにあげた



「バナナはたいてい無神論者である」



という命題に似た錯誤がふくまれているのだが、人はなかなかそこに気づかない。

そのため、



「車が交通ルールを守る仕組みを明らかにしよう!

交通ルールを調べれば、車の根本的機能が明らかになる。

こんなアプローチはこれまでなかった。

これこそ真の科学だ!」



と言われると、その気になる人もでてきた。

こうして生成文法の<科学の国>では、ドライバーなし、目的地なしの車が走っている。

この不思議な光景にひかれて、世の才能が集まった。

車(脳)の根本的機能を明らかにすることを夢見ながら、交通ルール(言語規範)を徹底的に議論する人たちである。

以来、半世紀がたった。

それで、ドライバー不在の交通ルールに関する彼らの徹底的な議論が、車の機能の解明にどう役立ったのか。それはよくわからない。

しかし、それでいいのだ。

車の機能が解明されようとされまいと、<科学の国>ではドライバーがいない不思議な車が、目的地も知らずにまだ走っている。

だから彼らは、この車の素晴らしいメカニズムにわくわくしながら、交通ルールを議論していれば幸福なのだ。










(おわり)










| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 生成文法は消滅する | 07:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
交通ルールと車の機能 カテゴリーの錯誤としての生成文法 その1
生成文法は、深いところから間違っているのではないかと思うことがある。

「カテゴリーの錯誤 category mistake」という言葉がある。

ウィキペディアは、カテゴリーの錯誤の例として、



「バナナはたいてい無神論者である。  Most bananas are atheists. 



という命題をあげている。

http://en.wikipedia.org/wiki/Category_mistake


そもそもバナナは神について思考しない。ゆえにこれは、バナナを誤ったカテゴリー(神について思考する存在)に入れたことからくる間違いである。

生成文法は、人間が言語を話すさいに働く規範を脳の特定部位の生理と結びつけようとする。

これは言語の規範という高度な観念を脳の一般的生理に直結させようとする発想であって、それはあたかも



「交通ルールは車の機能である」



と言っているような奇妙さがつきまとう。

交通ルールはその社会のルールであり、車を運転する人間が学ぶ規範である。

だから交通ルールは地域によって異なるし、人はしばしばこれを破ったり変更したりする。

ある地域の交通ルールは人工の規範であって、車の機能と関係はあるが、車の機能が具体的な交通ルールを決めているのではない。

ある言語の規範を脳の一般的生理と結びつけるのは、ある地域の交通ルールを車一般の機能に帰着させるのに似た、「カテゴリーの錯誤」ではないか。









(つづく)









| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 生成文法は消滅する | 22:54 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
二重らせんの発見はなぜ魅力的だったか おわり
分子生物学(→化学)の魅力のひとつは、<亀の甲>という万国共通の模式図を通して世界の学者たちが明確な認識を共有しながら前進できることであろう。

哲学は学派や学者ごとに概念が少しずつ違ったりするし、精密な思考には母語が適するから表現も言語ごとに違ってくる。歴史学はその時代その社会に特有の制度名や用語をそのまま使うことが多い。万国共通の<亀の甲>はこうした学問では成立しにくい。

しかし考えてみれば、言語を超えて理解できる図や式にできないような「真理」はまだ洗練が足りないとみて大過ない。

弁証法にしても、図や式に描く努力が不足したことが誤解や理解の不統一を招く一因になったのではないか。今からでも弁証法は図式による表現を開発したらよいと思う。

◯クリック・ワトソンの発見が魅力的だった理由は、それがある意味で「小さい発見」だったからである。

もちろん、歴史上の発見はそれが何か大きな解明をなしとげたから大発見とされる。

それはそうなのだが、発見は何かを解明をしたことと同時に、それが大きな希望を与えたことによって大発見となる。

湯川秀樹のどこが偉かったのか?と物理学者に聞いたら、「新しい研究分野の存在を指摘したから」という答えだった。

チョムスキーが評判になったのも、「言語の生物学的解明」のような言葉が半世紀前には新鮮な魅力をもったからである。

万有引力もツタンカーメンの墓も剰余価値論も相対性理論も二重らせんも、人々に希望を与え若者を引きつけて後継者を生んだから大発見と呼ばれるようになったのだ。

湯川秀樹もチョムスキーも共産主義も、今日からみれば素朴な論理やたんなる予感のようなものだったかもしれない。しかし素朴だったからこそ人々に希望を与えたのだ。

真理は成長する。発見者によってではなく後継者によって。

若者が夢を抱いて集まってくるような「小さい真理」こそが新しい分野・新しい産業を生み出す。








(おわり)











| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 生成文法は消滅する | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
二重らせんの発見はなぜ魅力的だったか その3
互変異性体のあり方は、シャレではないがうまくいっている夫婦に似ている。それぞれ独自の存在でありながら互いを維持し成長させる関係である。

このあり方を弁証法では「相互浸透」と呼ぶが、自然(分子のあり方)には互変異性体という相互浸透の実例があるわけだ。

そして上記の解説のなかにある量子力学的な「共鳴」はひとつのものが同時にふたつのあり方をもつわけだから、弁証法でいう「直接的同一」にあたる。自然(量子のあり方)には「共鳴」という直接的同一の実例もあることになる。

とはいえ分子生物学はいまや立派な学問分野となり、他方で弁証法は埃をかぶって博物館行き同然になっている。

この違いの原因はいろいろある。

ひとつは分子生物学が具体的な対象に日々取り組みながら発展しているのに対して、弁証法はそうした努力を怠ったことである。そのため弁証法は無力さを露呈して衰退していった。

もともと弁証法は現実の観察から観念的に抽出された論理にすぎないから、分子を扱う科学がことさら弁証法をありがたがる義理も必要もない。分子の研究は分子に適合した論理をみずから開発して発展するものである。

ただ、弁証法は近代科学の発展期(19世紀)にいちおうの完成をみた深い洞察であるから、こんにちでも科学的発見とは物質における弁証法性の発見とほとんど同義だとしてもそれほど不思議なことではない。

弁証法は浅薄で傲慢な「マルクス主義」の教条によって汚され、いまや忘れ去られようとしているけれど、その真価はむしろこれから発揮されるのではないかとさえ私は思う。








(つづく)











| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 生成文法は消滅する | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
二重らせんの発見はなぜ魅力的だったか その2
◯クリックとワトソンは分子生物学に確かな「土台」13頁を築いたわけだが、この学問の魅力のひとつは生命という神秘的なものを物質的に解明できるところにある。

ちょっと調べてみたら、この学問では分子の結合の図(いわゆる亀の甲)がさかんに使われる(「分子」生物学だから当たり前ですが…)。

なかでも本書にも出てくる互変異性体(ごへん・いせいたい)というものに興味をそそられた。

互変異性体とは、「一種の化学反応によって二つ以上の異性体がすばやく簡単に相互変化し、それらの異性体が平衡をたもって共存できる状態になったもの」だという83頁。

ここで「異性体」とは「分子式は同じだが原子の結合自体や立体配置が違うため、異なった性質を示す化合物」(大辞泉)である。

DNAの塩基の場合、水素原子一個の位置が違うためにサイズが違うケト型とエノール型という互変異性体があって、二つのうちケト型が優位だと気づいたことがDNAのモデルの完成に役立ったという。84頁。

この話で私が「おっ?」と思ったのは、次のウィキペディアの説明である。

「互変異性と共鳴はよく似ているもののまったく別の概念である。

互変異性は化学反応であり、

A⇆B

の表現で、二つの異なる化学種AとBが存在して相互に変換されるのを表している。

これに対して共鳴は量子力学的な電子の配置の重ね合わせを表しており、

A⇔B

の表現で、ある物質の真の構造がAとBの中間的な構造(共鳴混成体)であることを表している。」

(http://ja.wikipedia.org/wiki/互変異性体)


DNAの構造は私にはわからないが、互変異性や共鳴という分子や量子のふるまいはちょっとショッキングな感じさえした。

これは哲学の概念に似ているからである。







(つづく)












| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 生成文法は消滅する | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
二重らせんの発見はなぜ魅力的だったか その1
E.イーデルソン(西田美緒子訳)『クリックとワトソン 生命宇宙への船出』(大月書店、2011年)

DNAの構造の発見がどうして大事件だったのか。

その詳しい答えは私にはわからないが、なぜそれが魅力的な発見だったのかは私にもわかるような気がする。

◯クリックとワトソンという二人の若い科学者の個性。クリックは無名、ワトソンは多弁な変わり者。「クリックとワトソンがDNAを作ったのではない。DNAがクリックとワトソンをつくったのだ」とのちにクリックは書いた。

つまり無名で変わり者だったからこそ発見は反響を呼び、二人の名前は一気に世間に知られることになった。87頁。

ただ、それだけでは足りないだろう。

しっかりした学会があって、発見の内容を正当に評価できる体制が必要である。重要と判断すれば素早く論文を掲載する媒体も不可欠だ。(クリックとワトソンの発見を記した論文は発見から数ヶ月で Nature誌 に掲載された)

社会科学系や人文系の分野では、日本から世界的な学説が生まれる可能性はほとんどないと私は思っている。

学会といっても学芸会のような発表の場にすぎず、他人の考えをきちんと評価できる体制になっていないケースも多い。学会誌といっても悠長な「査読」などで掲載までに1年近くかかることが珍しくない。日本語が読める人はほぼ日本人に限られている。

いずれにせよクリックとワトソンの例は、科学的発見の評価がたんに発見の内容だけでなく、どういう人が発見したかにもかなり影響されるという実例である。










(つづく)














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ソシュールの「恣意性」について

ソシュールの有名な命題に「能記と所記の結びつきは恣意的 arbitaire である」というのがある。

これについてヤーコブソンはフランスの言語学者バンヴェニストに賛同して、

「ソシュールの主張とは逆に、能記と所記の結びつき、言いかえれば音素系列と意味との結びつきは必然的である。」

と反論している。(ロマーン・ヤーコブソン(花輪光訳)『音と意味についての六章』みすず書房、1977年、153頁)

能記と所記の結びつきはたしかに恣意的なところがある。それは

①ひとつの言語内で、ある対象がある音声に結びついた原因

②異なる言語間で同じ対象の呼び方を比較した結果

のふたつの場合にそうである。

しかし上記の①では、いったんある対象がある音声と結びついたあとは恣意的ではなく逆に必然的となる。バンヴェニストの例をひけば、「概念<牛>は音響イメージboefの魂のようなもの」となる。(同上書、152頁)

だが、上記の②すなわち異なる言語間で比較するとき、たしかに能記と所記の結びつきはほとんど恣意的である。そこから、

「ソシュールの言語学は単一システムの言語学ではない。それは根本的に他の言語との交換(翻訳)を前提している。」(柄谷行人『トランスクリティーク』岩波書店、2004年、499頁)

という洞察も生まれる。

ソシュールの「恣意性」は、限定された場面でしか適用できない。

こういう勘違いしやすいことが、言語の話には多い。









| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 生成文法は消滅する | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ヤーコブソン構造言語学の遺産 おわり

なにが嘆かわしいというかもどかしいかというと、構造言語学には方法じたいに限界がみえるのに、それを打破する気概がないからである。

ヤーコブソンの理論が現れてから数十年がたっているが、それが完成したとか、めざましく発展したとかいったことは聞かない。

ひとつの生物のDNAがすべて解読できたときニュースになったように、ひとつの言語の音韻音素が完全に解読できたら新聞記事のひとつにもなったかもしれないが、そういうものは見たことがない。

「ヤーコブソンの理論も、素性の立て方、音素の位置づけ、二分法、心的過程との関係など、具体的な各項目について問題がないわけではなく、音韻論の最終結論ではない。そのことは自分で分析をしてみた人は誰でも気づくことである。」(大橋保夫前掲論文、474頁)

「弁別特徴の研究は、まだまだ完成したわけでなく、右に述べたものはほんの一例である。人間の調音活動には、まだよくわからないところがあり、声門下圧のはたらき、舌根の前後運動の影響のように、あらたな解明をまつものもたくさんある。」(橋本萬太郎前掲論文、15頁)

ここに引用したのは1970年代のコメントであるから、構造言語学の音韻論にはその後の発展があるだろうし、生成文法の音韻論も生まれた。

その結果、音韻音素にかんする知見はますます複雑になったであろう。しかしその一方で、方法はどれも大同小異であろう。

その方法とは、人間の音声を「記述」するという発想そのものである。

<まずは物理的で要素が少数の音声の構造(体系)を記述する>

というのが、こうした言語学に共通する発想である。

しかし、数十年たってもいまだにその「記述」が完成しない(らしい)のはなぜか。

そもそも、どんなに精密かつ多面的に音声を計測しようとも、音声を物理的に完全に把握することはできない。自然科学の手法では、音声を完全に「記述」することはできない。

同様に、言語学が断音性とか軌音性といった「弁別素性」=言葉(二分法)によって音声を「記述」することも、原理的に完成の可能性は、おそらくない。そうした単純な言葉で完全に記述できるほど人間の音声はやさしくない。

たとえばヤーコブソンはフランス語の子音を遠心的/求心的、鼻音/口音、歯音/唇音、閉鎖音/狭窄音という弁別素性によって分類している。その図131頁はなかなかきれいな構図にまとまっている。これがおそらく構造言語学がイメージする「構造」の例であろう。

ところがヤーコブソンは、この図では「子音組織と母音組織のあいだの中間的位置を占める音素、つまり流音はとりあげない」と断っているのである。126頁。

ヤーコブソンは「時間を節約するため」126頁と言っているが、彼らがおこなう分類はこの種のものが多い。それなりにおもしろい分類をしてみせるのだが、すべてをうまく分類した決定的なものは皆無で、何度も試みては延々と論じつづける。

もうひとついうなら、遠心的/求心的、鼻音/口音…と弁別素性をたくみに並べても、それは客観的(聴覚的)な「記述」にすぎないのだから、どう発音すればその音になるのかは不明のままである。

方法じたいに欠陥がある。

その反省がないまま瑣末なことにのめりこんでいく。成果はますます精緻になったようにもみえる。

そこに静かにひろがっているのは知的惰性と無気力である。






(おわり)








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ヤーコブソン構造言語学の遺産 その6

ヤーコブソンの構造言語学について次のような解説がある。

「ヤーコブソンの音韻論では、あらゆる言語の音韻体系を弁別素性すなわちホモ・サビエンス共通の生理的能力を基礎とする同一の要素と統一原理で記述できるうえ、諸音韻体系に見られる類似性、幼児の言語発達、されには失語症のいくらかの現象などを同一の基盤に立って考察できるようになった。…

言語の普遍性探求の価値の再発見とその堅実な理論づけは言語学の歴史の重要な転機であって、音韻論のみならず、アメリカ構造言語学の狭い技術主義の呪縛からの解放に大きな役割を果たしたのである。」(大橋保夫「音韻研究の歴史(2)」『岩波講座・日本語 第五巻 音韻』1977年、474頁)

ヤーコブソンに限らず、音韻論は言語学だけでなく人文科学全体でも高い評価が与えられている。

「音韻は言語研究のなかで最も発達した分野である。」(『岩波講座・日本語 第五巻 音韻』前掲、編者の「まえがき」v頁)

「音韻論の…現段階は、人間科学の分野ではとびぬけて高度の科学性に達している。」(大橋前掲論文、474頁)

なぜかというと、ふたつ理由がある。

_傘ぁΣ餐任亙質的にあつかえること。「音は言語記号の外形で、内容である意味と一応切り離して研究できる」(『岩波講座・日本語 第五巻 音韻』前掲、編者の「まえがき」v頁)。

音韻・音素は少数に還元できるので体系化しやすいこと。「音声を抽象した音韻は、最少の単体に分けるとごく少数個になって、全体を見通して扱うことが比較的容易でもある。言語を体系・構造としてつかむのには、音韻はまことに都合のいい対象」である。(同前「まえがき」v頁) じっさい、たいていの言語の音素は30個前後であるという。(大橋前掲論文、379頁)

ちなみに構造言語学が強調した「弁別素性」とは、断音性、軌音性、濁音性、緊音性、鼻音性など全部で12,3種類ほどがあり、これで「世界の言語音が記述できるとかんがえられている」という。(橋本萬太郎「音韻の体系と構造」『岩波講座・日本語 第五巻 音韻』1977年、15頁)

以上のことからみると成果はなかなか素晴らしいが、別の面からいえば事態はそうとう嘆かわしいともいえる。





(つづく)






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