ごきげんようチャンネル

科学とは、正確に驚くことである。 Y.M.
           

認知文法の中途半端
ジョン・R・テイラー/瀬戸賢一『認知文法のエッセンス』(大修館書店、2008年)。

認知心理学をベースにした認知言語学、とくに認知文法を概説した最新本。

「言語とは何か? 言語とは、思考をシンボル化して意思伝達を行おうとするときに私たちに与えられた素材の総体である。」19頁。

言語を「素材」と表現しているところに、たんなる記述文法(規範文法)ではなく人間の主体的営みとして言語を分析しようとする態度が感じられる。

第二言語習得研究といい、認知文法といい、いわゆる「学問」的な言語研究の特徴は、言葉を言葉でいいかえることに終始するところにあると、私は考えてきた。

認知文法は、たんなる客観的分析ではなく、人間の認知活動=主体的活動として言語をとらえるという視角を強調しているようだ。

しかし、私の目から見れば、認知文法もまた従来型言語学の一種である。

「認知文法の研究対象は、音韻構造と意味構造とシンボル構造である。シンボル構造は音韻構造と意味構造を結んでひとつにする。それゆえ、認知文法の関心の中心はシンボル構造を記述することである。」37頁。

認知文法の目標は「記述すること」すなわち言語を言語で「言いかえる」ことである。そこに人間の姿は、やはり現れない。

このことは、本書のほかの部分からもうかがえる。

「認知言語学は、言語…についての認知論的に妥当な説明をめざす。」5頁。

「言語認知は心に宿り、言語学の目的はその能力を記述することにある。」6頁。

「説明」や「記述」が悪いのではない。それは「何が起こっているか」を言葉で解説してくれる貴重な情報だ。ただ、解説を聞いて、初歩から自分でできるようになる人は少ない。

「解説者、現役の時なぜやらん」

という川柳があった。

バットやグローブの使い方、選手のプレーの勘どころを言葉で解説されたら、おもしろみがいっそうわかるかもしれない。なにかの法則性が発見できるかもしれない。

しかし、それで野球はできない。












| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 認知心理学 | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ポンプと心臓 コンピュータと生成文法
「われわれの世界観は道具によってつくられてきた。ポンプがあるから、われわれは心臓の役割が理解できるのだ。」(ジョン・ブロックマン編・高橋健次訳『2000年間で最大の発明は何か』草思社、2000年、152頁)

心臓がわかったからポンプができたのではない。ポンプがあるから人間は心臓が理解できるのだ。

ミニチュア(ポンプ)があるからこそ、もっと複雑なもの(心臓)が理解できる。

これこそ「科学」の原型である。

百科事典エンカルタの「認知心理学」には、次のような記述がある。

「フロイトは、人間の心的活動のイメージを、当時の代表的な機械であった蒸気機関車にもとめたといわれる。

今日の認知心理学は人間をコンピューターになぞらえることでなりたっているといっても過言ではない。

コンピューターの情報処理過程と人間の知の働きの過程には密接なアナロジー(類比)がなりたつからである。

認知心理学は人間をコンピューターのようにみなす心理学である。」

生成文法も、コンピュータが大成功したのをうけて、こっそりと(?)コンピュータの仕組みを借用して言語の理論を仮構している。

学問の基礎イメージは、誰でも知っている実在物からの類推に過ぎないのかもしれない。

硬直化した知性に疑問を投げかける。そういう勇気をもつために、ポンプと心臓の関係を知っておくことは役立つと思う。







| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 認知心理学 | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「意識は不要になるべき教師である」 シュレディンガー
酒井邦嘉『心にいどむ認知脳科学』(1997年、岩波書店)によると、アメリカの生物物理学者シュレディンガーは、

「意識とは教師である。」

と述べた。106頁。

人間が日常、自動的に行っている動作(服を着たり、箸を使ったり)は、子どもにとっては意識的に学ぶ必要のあることである。学習して、無意識的にできるようになったとき、「教師」である意識は不要になる。

しかし学習によって無意識的になった動作についても、人間はある意味で意識している。だから、服が裏返っているとか、箸が折れたなど、予想外のことが起こると、ただちに対応できる。「教える教師」はいらなくなるが、「見守る意識」は継続する、というわけだ。

この「教える教師」「見守る意識」が、サウンドステップスの本体であるように思われる。このごろはあまり使わない言葉のようだが、コンピュータにはオペレーティングシステム(OS)という「ソフトウエアのためのソフトウエア」が組み込まれている。(有名なWindowsは、マイクロソフト社のOSの名前)

OSは、「モニターmonitor」とか「常駐プログラム」とか呼ばれ、個々のソフトウエアに教え、見守るソフトウエアである。(黒川利明『ソフトウエア入門』岩波新書、2004年、71頁)

英語というソフトウエアを作動させるための、「教え、見守る」ソフトウエア。目には見えない命令の集合体。それがサウンドステップスの本体だ。




| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 認知心理学 | 08:19 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「学説」のトラウマ  演出されたフロイト
フィル・モロン『フロイトと作られた記憶』から、さらに引用。



アメリカの精神医たちがフロイトから手に入れたのは、なによりもコトバだった。

それまで精神医が使っていたのは、トラウマ(外傷)といういかにも軍医上がりのコトバ以外には、意志、感情、勇気、決意、自制心といった日常語にすぎなかった。だからフロイトが患者観察の中から練り上げて創案した一連の用語は、なによりの贈り物だったのだ。

もっとも、フロイトの用語の中には、彼がわざわざ日常語を使った「私」(イヒ)だの、ほかに言いようがないから「それ」(エス)と言ったコトバも交じっていた。

当然のことながら、当時のアメリカ人は、もっと「科学」らしい感じがするようラテン語に直して、エゴだのイドだのと、こむずかしい術語に仕立てあげた。

こうして数十年の年月を経るうちに、多くの精神分析用語や概念が診察室から漏れでて庶民に広がり、日常の普通のコトバとして使われるようになったのである。」



(フィル・モロン(中村裕子訳)『フロイトと作られた記憶』岩波書店、2004年、104−105頁)




「学説」の流行なるものが、こうした側面をもっていることは、昔も今もあることだろう。


新理論の安易な受容。

世間に受け入れられやすくするための「コトバ」の作出。

受容と流行のあとにやってくる、執拗で深刻な影響。


しばらく言葉を失う。







(おわり)







| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 認知心理学 | 21:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
アフォーダンスとは? ある定義
アフォーダンスという発想は、かなり知られるようになったが、まだわかりにくいという人も多いようだ。

アフォーダンスは、「無意識」とか、私のいう「生命=なぞり」といった、サウンドステップスに関連する有用な視点なのだが、説明してみよ、といわれるとなかなか難しい。

システム論の本に、なかなか深いアフォーダンスの定義が書いてあったので、紹介しておこう。[ ]内は、私がつけた注である。

アフォーダンス affordance

ジェームズ・J・ギブソンによって導入された概念で、運動する主体からみたとき、知覚と物[→物に限らず知覚の対象一般へと拡張できるのでは?]との関係を示す術語である。鳥が枝に止まろうとするとき、枝のしなりや弾力性が、物の固有性として知覚されているはずである。すんなりと鳥が枝に止まれるときのように、物と行為が相即[そうそく。二つの対立するものが相互に融合し一体となっていること]している場合には、物は知覚にとって、いっさいの主観的構成以前に受け取られているはずであり、物の特質が取り出されているはずである。このように、主観的構成以前に受け取るという事態が、アフォードafford という語のニュアンスのひとつであり、また知覚によって探り当てられた物の固有性がアフォード[提供]されるというニュアンスもある。行為に相即する環境を発見した点が、アフォーダンスの功績である。 (以上、河本秀夫『システムの思想』東京書籍、2002年より、一部改変)

このなんだかカントっぽいような、西田哲学っぽいような、才気ある角度からの説明は、なかなかうまくアフォーダンスという発想の特徴をとらえている。

ひらたくいえば、「主体が、思わずそうしてしまう(私流にいうと、生命であるかぎり、思わずなぞってしまう)環境が存在する」というような意味でとらえてみたらどうかと思っている。




| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 認知心理学 | 00:58 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
習熟=無意識化=フィードバックの削減
水泳 このあいだ、工学部の平田先生(脳科学)と話していたら、ハッとするようなおもしろい話が出た。

「ものに習熟する」というのは、工学的に言い換えると、「フィードバックの手間が減っていく」ことと同じだ、というのだ。

たとえば、ロボットが手をのばしてコップを握ろうとするとき、ロボットのセンサーはコップとの距離を何度も測り、その情報をフィードバックしつつ、次第にコップに近づいていく。このフィードバックの手間はロボットにとって大きな負担になるので、この手間を減らすことがロボットの進化だという。

これは人間でいえば、サウンド・ステップスの手の動きを、最初はフィードバックをくりかえしながら、正確な動き・正確な声に近づけていく。そして習熟するうちに無意識に同じ動作・同じ声ができるようになる。フィードバックが減り、スムースに動く(大量の情報を高速で処理できる)わけだ。

習熟とは無意識化のことであり、フィードバックの削減とは大量情報の高速処理である。

これで、何度も会っている人といると気楽になれる理由がわかった。相手との距離を測って情報をフィードバックする必要が減るので、そのぶん別のことに注意を向け、効率的に情報を処理できるからだ。

習熟とか無意識とかいう日常的なことを、フィードバックの削減という工学的な表現に置き換えることで、なにかが見えてくる。これはたんなる「無限後退」の論理ではないようだ。嬉しい


| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 認知心理学 | 00:19 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
体育は最大の知育である ガードナーの多重知性理論
知性には何種類あるか?

というような議論を延々とやるのはどうかと思うが、

何が知性か?

というのは考えてもいい問題だ。

アメリカの認知心理学者ハワード・ガードナーは、知性には六種類あり、それぞれある程度独立している、というようなことを言っている(多重知性理論)。いや、六つというより八つだと言っている本もある。
(澤田俊之『幼児教育と脳』文芸春秋新書、1999年)

六つか八つかはともかく、その分類の仕方は興味をひく。八つ論で見てみると、

言語的知性
論理数学的知性

これはいかにも。

空間的知性(物の位置関係を把握する)
絵画的知性(物の形を記憶したり図に描く)

ほー。

社会的知性(人間関係を理解して行動する)
感情的知性(自他の感情を理解しコントロールする)

ははぁ…

そして感心したのは、

音楽的知性(音楽を記憶したり演奏する)
身体運動的知性(身体の運動を記憶しコントロールする)

というのが入っていることだ。

小学校でいえば、音楽と体育。あまり「知性的」とは思われていない分野だ。

そもそも私の主張は、すべての知性の基礎は「身体運動的知性」にある、というものだ。

能力とか知性とかいうのは、環境(他者の要請)をいかに自分の身体の運動で同調させ、記述するかという問題なのだから。

もっとも知性らしくないようにみえる「身体運動的知性」は、たしかに知性の代表格たる「言語的知性」の基礎だと思う。ガードナーさん、えらい!

ま、こんなことを言っているのだから、英語を身体運動に還元してしまおうというSound Stepsの思想が、新鮮(?)にみえるのも仕方ないね。



| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 認知心理学 | 23:24 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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