ごきげんようチャンネル


あきらけき かがみにあへば すぎにしも いまゆくすゑの こともみえけり

         大鏡


脳科学には要注意 サッカー選手の身体の仕組みは、サッカーではない

「磁力」について、次のような説明がある。

 

 

「磁力は、電荷の運動によって引き起こされる基本的なである。...よって磁性は電荷を持つ粒子運動をすればいつでも現れる。磁性は電流の中の電子の運動によって発生して電磁気と呼ばれたり、電子の量子力学的な軌道運動やスピンによって生じ、永久磁石の力の源となったりする。」(ウィキペディア「磁性」より)

 

 

誰でも知っている磁石のはたらきを、「電荷の運動」という本質においてとらえている。物質の現象を、さらに微小な物質の運動へと還元して認識している。

 

このように、物質がおこす現象の本質すなわち物性は、物質的に解明されていく。

 

 

人間や社会を対象にした学問は、こうした自然科学の着実な進歩に大きく水をあけられている。それはなぜか。

 

人間の意識(その本質は規範)と物質の物性。このふたつの区別と関係をあいまいにしているからである。

 

ヒトは、物質としての身体がなければ意識をもてない。そういう意味で、身体は意識を支えている。だが、身体と意識は、それぞれ次元がちがうものの名前である。

 

脳科学の話を聞いていると、意識をこまかく調べれば、目にみえない物質の運動が発見でき、それが意識の物質的実体であるかのようにイメージしやすい。

 

だが、意識は人間が社会的に発展させた作法による内心の活動である。意識やその表現は物質の運動が支えているにしても、意識じたいは物質ではない。意識は物質ではないからこそ、意識なのである。

 

 

「これまでのところ、交換価値を真珠やダイヤモンド [⇨脳] のなかに発見した化学者は、ひとりもいない。」(マルクス『資本論』初版(幻燈社版)、322頁)

 

 

サッカー選手の脳をいくら調べても、サッカーのルールはわからない。

 

サッカー選手の身体をいくら調べても、今日のサッカーの試合展開はわからない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 脳科学はニセ科学 | 15:45 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
脳の価値は、臓器売買の対象になることである

人は、あらゆるものについて観念をもつ。

 

そして観念は生身の人が行うもので、脳のような臓器が単独で行うのではない。臓器は物質の一種であり、物質は観念をもたない。

 

臓器売買や臓器の無償提供が可能であるのは、臓器は人ではないことの反映である。

 

人体や動植物の物的組成と機能は、観念ではなく、自然レベルの話である。

 

最近、脳の各部位が人間の意識の各側面を分担していることがわかってきたが、脳科学が直接対象にしているのは、脳の化学的・物理的機構、つまり自然レベルである。脳の化学的・物理的機構を解明すれば、意識の生理的基盤がいっそうわかるようになるが、それは直接には観念の内容の研究ではない。

 

この点で示唆的なのは、人が言語を発する機構である。もともと人は、言語専用の臓器をもっていない。発話につかう肺、声道、声帯、舌、歯、唇などの臓器は、元来は人の生存に不可欠な、消化器官と呼吸器官である。人は、消化と呼吸のための器官を足場にして、これを言語という観念表現に利用しているのである。

 

考えてみれば、それも当然である。人間は、自然的には物質(生命体)の一種であり、臓器の組み合わせであり、消化し呼吸する肉体にすぎない。その肉体から観念を生もうとすれば、肉体を観念のために利用する以外に方法はない。つまり、肉体は利用されているだけであるから、いくら調べても肉体のなかに観念を発見することはできない。

 

人じたいは財になる。たとえば人がもつ身体エネルギー(労働力)が生活や職場やスポーツで発揮されるとき、人は物質的な「財」となる。財とは、人がそこから「価値」(生存、健康、快感、利便性など)という抽象的な力を得る源泉である。貨幣や商品だけでなく、健全な身体も、人の「健康」などの価値を生む「財」である。

 

他方で、臓器は人ではなく、一種の物質であるから、それじたいが労働力を発揮することはできず、「財」にはならない。しかし、たとえば商品として社会的に貨幣と交換されるなら、臓器は一種の「財」となる。

 

タイヤやエンジンや車体は、自分では走れない。部品を集めた車も、自分では走れない。車は人が乗ってはじめて走る。

 

同様に、臓器じたいが観念をもつことはない。臓器を集めた肉体も、観念をもつことはない。肉体に依存しながら、人が観念をもつのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 脳科学はニセ科学 | 07:19 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
意識の科学は可能か おわり

意識の科学は、可能どころか、あらゆる学問が意識の科学をめざしているとさえいえる。なかでも、人の表現や行為を研究する人文・社会系の学問は、物質性とは次元を異にする「意識の科学」である。

 

はじめに引用した対談集で、吉川弘之氏(一般設計学)は、次のように述べている。

 

 

 

「私の研究している工学について言うと、なぜ人間はこのような [気候変動を引き起こすような] 人工物をつくるのかという疑問があって、それについては手がかりすらなく、何もわかりません。」46頁

 

 

 

これは「工学」を、物質性の研究に限定して考えているから出てくる発言のようにみえる。

 

どうして、人間はいろいろな「人工物」をつくるのか。この問題提起に対して、対談相手の村山斉氏(カリフォルニア大学バークレー校、物理学)は、

 

 

「ニーズがあるというのが理由では?」

 

 

と応じている。これに対して吉川氏は、

 

 

 

「もちろんそうですが、その『ニーズ』とは何かという問いに対して、科学的に記述できないんです。『役割』というのも、物体でもなければ精神でもない。やはり科学では説明できません。」47頁

 

 

 

 

と答えている。

 

ここで吉川氏がいう「科学」とは、化学や物理学のような分野を指しているのではないかと思う。たしかに「ニーズ」や「役割」は、化学や物理学が得意とする「物体」ではない。それは、人が欲する価値・意志・意味の内容のことであり、経済学、経営学、社会学、政治学、言語学などが扱ってきた観念の世界である。それは「科学では説明できない」どころか、「科学で説明してきた」ことである。

 

もちろん、これまでの人文・社会系の学問が十分な成果をあげたとは言えない。むしろ、社会的には無力化しているとさえ思える。

 

学問は、物質性とは次元を異にする、純粋の観念としての<概念の世界>を対象としている。このことを、学者たちがみずから十分に自覚していない。そこに学問の無力化の根因があるのではないかと、私は思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 脳科学はニセ科学 | 14:25 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
意識の科学は可能か その5

では、人の意識を対象とする学問は、これまで存在しなかったのだろうか。

 

少々大きなことをいえば、それは存在しなかったどころか、あらゆる学問は人の意識を対象としているとさえ言える。

 

経済学、社会学、心理学、歴史学のような人文・社会系の学問は、人の表現や行為を通して、けっきょくは人の意識や観念のあり方を扱う学問である。化学や物理学、そして数学でさえ、人を直接の対象とはしないが、人が物質や数についてもつ概念を革新することが目的である。あらゆる学問が人の意識を対象としているともいえる、と言ったのは、そういう意味である。

 

言語が表す意味、ひいては人間の心とは、人間どうしの表現交換すなわち社会活動の産物である。それを脳のような自然的素材から直接説明することは、カテゴリーエラーである。生成文法の根本的な錯誤もここにある。言語を脳のような物質に直結させて説明しようとするのは、ある地域の交通ルール(右側通行か左側通行かなど)を、車のエンジンの仕組みや機能から説明しようとするカテゴリーエラーである。
 

いわゆる心身問題(身体と精神はどちらが先か、両者はどういう関係にあるかといった問題)も、身体という生理的なものと、精神という社会的なものを直接因果づけようとするもので、紙の裏と表を直接因果づけようとすることに似た、妄想を誘う偽問題、カテゴリーエラーであるとも言える。
 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 


 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 脳科学はニセ科学 | 14:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
意識の科学は可能か その4

解決の入り口は、個人的認識と社会的概念を区別することにある。それは一枚の紙の、裏と表の関係を理解することに似ているかもしれない。

 

人が抱く観念のうち、認識はそのつど個人的に創造される面であり、概念はすでに社会的に共有されている面である。認識と概念を媒介するためにつくられるのが、表現体(紙という物質。言語なら、音声や文字という物質の形式)である。

 

表現体は、個人の認識からみたとき、人の身体性・物質性(場所、年齢、性別、記憶、気分などを含む)を反映している。たしかに個人は、感覚器官をもつ身体がなければものごとを認識できないし、発声器官や筆記用具などの物質を利用しなければ、認識を表現することもできない。脳科学などの生命科学が研究しているのは、このような表現の身体性・物質性を支える生理的機構である。

 

他方、表現体には概念の面もある。概念は、表現体の身体性・物質性とは次元を異にする。概念の内容はあらかじめ社会的に決められているから、概念からみれば、その表現体が誰によって、どういう状況で作られたかといったことは関知しないことである。

 

 

 

概念は、認識の規範として働く。認識は、概念という規範にのっとって表現体へと変換されるのである。こうして、認識と概念は、表現体を媒介として、互いに切り離せない関係を結ぶ。

 

一枚の紙には、かならず裏と表があり、両者を切り離すことはできない。

 

それと同じように、人が創造する表現体(一枚の紙)がもつ物質性(ウラ)と、その表現体が表す概念の非物質性(オモテ)は、切り離すことができない(一方がなければ他方もない)。切り離せないが、それぞれ別の面である。

 

先述のように、商品の交換価値は「自然的素材をもったく含むことはできない」とマルクスは言った。商品(一枚の紙)は、つくる作業においては自然的素材(パルプ。言語なら音声・文字)が不可欠である(ウラ)。だが、商品が交換材(貨幣)と交換されることによって表される交換価値(値段)は、人が観念的に理解する数にすぎず、物質性から自由な、純粋の概念(オモテ)である。そして、物質性と非物質性という裏と表があるからこそ、それは商品なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 脳科学はニセ科学 | 13:08 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
意識の科学は可能か その3

物質の組成や機能から、非物質である意識の内容を説明することはできないことを指摘したマルクスの文を、もうひとつ引用しておく。

 

 

 

 

「一部のエコノミストが商品世界に貼り付いたフェティシズムまたは社会的労働規定の対象的外観によってどれほどあざむかれたかは、なによりも交換価値が形成されるに際しての自然の役割 についての長たらしくて、愚かしくも子供じみた争いが証明している。
 

交換価値は、物に費やされた労働を表現するための、ひとつの限定された社会的作法 であるのだから、為替相場と同じく自然的素材をまったく含むことはできない。


(マルクス『資本論 第一巻』初版第一章。訳文は、筑摩書房版マルクスコレクションIII、2005年、321頁。イタリックは三浦による。なお、この文は資本論の現行版にもある。新日本出版社版の第一巻なら、140頁)

 

 

 

 

 

「為替相場」は、数どうしがつくる関係にすぎず、非物質的な存在である。数どうしの関係は自然的素材(たとえば、コンピュータの画面上のドット)によって表現されるが、「相場」を知ろうとしてコンピュータの画面上のドットの化学的・物理的特性を研究するとすれば、それはお門違いである。非物質的な関係の世界は、「自然的素材をもったく含むことはできない」(マルクス)のである。

 

ここまでは、読者もだいたい納得できるであろう。だが他方では、なおすっきりしない感覚が残るかもしれない。

 

「相場」じたいは非物質的ではあっても、それがコンピュータの画面上のドットという物質的な基盤をもってはじめて存在できるとすれば、「相場」が自然的素材を「まったく」含まないとは言えないのではないか、と。

 

じつは、このすっきりしない感覚にこそ、問題の根源が顔を出している。

 

この部分こそ、マルクスが十分に説明しなかった、事態の核心なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 脳科学はニセ科学 | 07:46 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
意識の科学は可能か その2

遺伝子を化学的・物理的に解明すればするほど、生命に特有のものが何であるかがわからなくなるー。

 

この話から私が思い出したのは、マルクスのある言葉である。

 

商品の交換価値とは、人間労働を実体とする商品の価値が、人間による商品交換によって社会的に現象するものである。それは人間の社会的活動が生む一種の観念であって、物質としての商品が「生まれながらに」もっているものではない。そのことを理解できない経済学者の言葉を引用したあと、マルクスは皮肉をこめてこう述べている。

 

 

 

 

「これまでのところ、交換価値を真珠やダイヤモンドのなかに発見した化学者はひとりもいない。」(マルクス『資本論』初版、江夏訳、322頁。第二版では岡崎訳154頁)

 

 

 

 

遺伝子をいくら化学的・物理的に解明しても、そこに生命に特有のもの、たとえば意識を「発見」できるわけではない。

 

お門違いの人に、お門違いの問いをすると、お門違いの答えが返ってくる。

 

 

こういう「お門違い」を、「カテゴリーエラー」と呼ぶことがある。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 脳科学はニセ科学 | 08:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
意識の科学は可能か その1

「私は、おそらく生命科学は、将来が暗いのだと思います。... 遺伝子はただの化学物質で、... 複雑な生命活動を可能にしている生物特有の、何か、素粒子では説明できないものが発見されるということは、おそらく、もうないと思います。」

 

 

 

これは、日本科学界の重鎮・吉川弘之氏の発言である。

 

吉川氏は1933年生まれ。東大総長、放送大学長、日本学術会議会長などをつとめた人で、一般設計学という工学分野の専門家である。(上の引用は、『吉川弘之対談集 科学と社会の対話 研究最前線で活躍する8人と考える』丸善出版、2017年3月、45頁から。吉川氏の経歴は同書奥書による)

 

先に引用した部分の直前で、吉川氏はこう語っている。

 

 

 

「生物は複雑ですからね。今はまだ化学反応だけがわかっている部分が多くて、物理現象までは理解できていません。システムバイオロジーが生命体の統合的なシステムを明らかにしようとしていますが、まだ水準は低いものです。」45頁

 

 

 

吉川氏の発言の主旨を私なりにいいかえると、生命科学の発達によって、生命に特有の「何か」が発見されるかとも思ったが、どうやらたんなる化学反応、あるいはせいぜい物理現象としてしか生命を解明できそうにない、ということではないかと思う。

 

だとしても、それがなぜ生命科学の「将来は暗い」ということに直結するのか、私にはよくわからないが、なかなか大胆な発言ではある。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 脳科学はニセ科学 | 07:27 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
<脳科学>はニセモノ科学である おわり
脳科学の発展は、哲学でいう「心身問題」(心と身体の関係をどう理解するかという問題)にも影響を与えているらしく、同誌に載った哲学研究者の文に、次のように書かれている。



「意識をニューロンへと変換しようとする脳神経科学の挑戦は、物理的なものの領域のいかなる変化も自然科学の合法則性に例外なくしたがっているとみなして、心的なものを物理的なものへと変換しようとする試みであり、…

つまり、『理由の空間』は『原因の空間』に還元されて、


『主体Sは理由Gにもとづいて行為Hを引き起こした』


という合理的説明も


『理由Gは行為Hを引き起こした』


といった因果的説明に取って代わられるのである。」


(加藤泰史「脳神経科学の哲学的挑戦」『世界思想』2013年春号、48頁)




いいかえると、




「意識的で合理的な主体、自由で自律的な主体という人間観は、脳神経科学の発展によって、法則的に決定された無意識的で機械的な存在という人間観へと大きく変革を迫られつつある。」(同上、48頁。ただしこの文は、信原幸弘氏の文からの引用)




もちろん、人間の精神活動が脳の(特定部位の)活動へと還元されるという脳科学の見方と、決定論的で非自律的な人間観という哲学的観点とは、次元がちがっている。

とはいえ、脳科学が現代の人間観に深いインパクトを与えていることは確かであろう。

私は、このような『唯脳論』的な思い込みは、脳科学や哲学にとってはもちろん、人類全体にとっても不幸な誤りであると思う。

項をあらためて論じてみたい。










(おわり)











| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 脳科学はニセ科学 | 22:55 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
<脳科学>はニセモノ科学である その1
<自分>はどこにいるか。

自分の中をいくらのぞきこんでも、<自分>は見つからない。

しかし、<自分>とはひとつの<世界>なのだと思えば、辻つまがあう。

<自分>は<世界>つまり全体のことなので、いくら部分を探しても見つからないのは当然である。

しかし、近代人は、<部分>に目を奪われて、<全体>を見失う傾向があるー。

そういう話を聞いたことがある。






全体を見るセンスを失った、タダモノ主義のニセ科学。

いまや隆盛にみえる脳科学は、そういうものに堕する危険をかかえているのではないか。

最近、我が意を得た感じがしたのは、神経心理学者による、次の文である。




「今や脳科学は恐るべきテンポで進展しているが、最先端のテクノロジーをもってしても、脳状態以外の事象を扱うことはできていない。…

にもかかわらず、脳科学においては、大脳の働きを暗黙裡に心の働きと同一視し、大脳のさまざまな部位に心のさまざまな働きを割り付ける試みが続いている。」


(山鳥重「脳の働きと心の働き」『世界思想』2013年春号、44頁。ゴチックは三浦)




ここで「脳状態」というのは、ニューロンが「電気的信号を出したり出さなかったり」すること、すなわち「単純」な「電気的活動」のことである。(山鳥同上文、42頁)

現在の脳科学は、「心の働き」を「電気的活動」とみなすことで、ココロをモノに還元し、全体を部分に局限する。

これは、事の本質を見失った誤りである。








(つづく)









| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 脳科学はニセ科学 | 09:41 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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