ごきげんようチャンネル

 魚、水を行くに、行けども際なし  道元『正法眼蔵』



脳の価値は、臓器売買の対象になることである

人は、あらゆるものについて観念をもつ。

 

そして観念は生身の人が行うもので、脳のような臓器が単独で行うのではない。臓器は物質の一種であり、物質は観念をもたない。

 

臓器売買や臓器の無償提供が可能であるのは、臓器は人ではないことの反映である。

 

人体や動植物の物的組成と機能は、観念ではなく、自然レベルの話である。

 

最近、脳の各部位が人間の意識の各側面を分担していることがわかってきたが、脳科学が直接対象にしているのは、脳の化学的・物理的機構、つまり自然レベルである。脳の化学的・物理的機構を解明すれば、意識の生理的基盤がいっそうわかるようになるが、それは直接には観念の内容の研究ではない。

 

この点で示唆的なのは、人が言語を発する機構である。もともと人は、言語専用の臓器をもっていない。発話につかう肺、声道、声帯、舌、歯、唇などの臓器は、元来は人の生存に不可欠な、消化器官と呼吸器官である。人は、消化と呼吸のための器官を足場にして、これを言語という観念表現に利用しているのである。

 

考えてみれば、それも当然である。人間は、自然的には物質(生命体)の一種であり、臓器の組み合わせであり、消化し呼吸する肉体にすぎない。その肉体から観念を生もうとすれば、肉体を観念のために利用する以外に方法はない。つまり、肉体は利用されているだけであるから、いくら調べても肉体のなかに観念を発見することはできない。

 

人じたいは財になる。たとえば人がもつ身体エネルギー(労働力)が生活や職場やスポーツで発揮されるとき、人は物質的な「財」となる。財とは、人がそこから「価値」(生存、健康、快感、利便性など)という抽象的な力を得る源泉である。貨幣や商品だけでなく、健全な身体も、人の「健康」などの価値を生む「財」である。

 

他方で、臓器は人ではなく、一種の物質であるから、それじたいが労働力を発揮することはできず、「財」にはならない。しかし、たとえば商品として社会的に貨幣と交換されるなら、臓器は一種の「財」となる。

 

タイヤやエンジンや車体は、自分では走れない。部品を集めた車も、自分では走れない。車は人が乗ってはじめて走る。

 

同様に、臓器じたいが観念をもつことはない。臓器を集めた肉体も、観念をもつことはない。肉体に依存しながら、人が観念をもつのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 脳科学はニセ科学 | 07:19 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
意識の科学は可能か おわり

意識の科学は、可能どころか、あらゆる学問が意識の科学をめざしているとさえいえる。なかでも、人の表現や行為を研究する人文・社会系の学問は、物質性とは次元を異にする「意識の科学」である。

 

はじめに引用した対談集で、吉川弘之氏(一般設計学)は、次のように述べている。

 

 

 

「私の研究している工学について言うと、なぜ人間はこのような [気候変動を引き起こすような] 人工物をつくるのかという疑問があって、それについては手がかりすらなく、何もわかりません。」46頁

 

 

 

これは「工学」を、物質性の研究に限定して考えているから出てくる発言のようにみえる。

 

どうして、人間はいろいろな「人工物」をつくるのか。この問題提起に対して、対談相手の村山斉氏(カリフォルニア大学バークレー校、物理学)は、

 

 

「ニーズがあるというのが理由では?」

 

 

と応じている。これに対して吉川氏は、

 

 

 

「もちろんそうですが、その『ニーズ』とは何かという問いに対して、科学的に記述できないんです。『役割』というのも、物体でもなければ精神でもない。やはり科学では説明できません。」47頁

 

 

 

 

と答えている。ここで吉川氏がいう「科学」とは、化学や物理学のような分野を指しているのではないかと思う。たしかに「ニーズ」や「役割」は、化学や物理学が得意とする「物体」ではない。それは、人が欲する価値・意志・意味の内容のことであり、経済学、経営学、社会学、政治学、言語学などが扱ってきた観念の世界である。それは「科学では説明できない」どころか、「科学で説明してきた」ことである。

 

もちろん、これまでの人文・社会系の学問が十分な成果をあげたとは言えない。むしろ、社会的には無力化しているとさえ思える。

 

こうした学問の無力化は、物質性とは次元を異にする純粋の観念、概念の世界を対象としていることを、学者たちがみずから十分に自覚していないからではないかと、私は思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 脳科学はニセ科学 | 14:25 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
意識の科学は可能か その5

では、人の意識を対象とする学問は、これまで存在しなかったのだろうか。

 

少々大きなことをいえば、それは存在しなかったどころか、あらゆる学問は人の意識を対象としているとさえ言える。

 

経済学、社会学、心理学、歴史学のような人文・社会系の学問は、人の表現や行為を通して、けっきょくは人の意識や観念のあり方を扱う学問である。化学や物理学、そして数学でさえ、人を直接の対象とはしないが、人が物質や数についてもつ概念を革新することが目的である。あらゆる学問が人の意識を対象としているともいえる、と言ったのは、そういう意味である。

 

言語が表す意味、ひいては人間の心とは、人間どうしの表現交換すなわち社会活動の産物である。それを脳のような自然的素材から直接説明することは、カテゴリーエラーである。生成文法の根本的な錯誤もここにある。言語を脳のような物質に直結させて説明しようとするのは、ある地域の交通ルール(右側通行か左側通行かなど)を、車のエンジンの仕組みや機能から説明しようとするようなものである。
 

いわゆる心身問題(身体と精神はどちらが先か、両者はどういう関係にあるかといった問題)も、身体という生理的なものと、精神という社会的なものを直接関係づけようとするもので、多くの人を妄想に陥らせてきた偽問題である。
 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 


 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 脳科学はニセ科学 | 14:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
意識の科学は可能か その4

解決の入り口は、個人的認識と社会的概念を区別することにある。それは一枚の紙の、裏と表の関係を理解することに似ているかもしれない。

 

人が抱く観念のうち、認識はそのつど個人的に創造される面であり、概念はすでに社会的に共有されている面である。認識と概念を媒介するためにつくられるのが、表現体(言語なら音声や文字)である。

 

表現体は、個人の認識からみたとき、人の身体性・物質性(場所、年齢、性別、記憶、気分などを含む)を反映している。たしかに個人は、感覚器官をもつ身体がなければものごとを認識できないし、発声器官や筆記用具などの物質を利用しなければ、認識を表現することもできない。脳科学などの生命科学が研究しているのは、このような表現の身体性・物質性を支える生理的機構である。

 

他方、表現体には概念の面もある。概念は、表現体の身体性・物質性とは次元を異にする。概念の内容はあらかじめ社会的に決められているから、概念からみれば、その表現体が誰によって、どういう状況で作られたかといったことは関知しないことである。

 

 

 

個人の認識は、概念は規範として働く。認識は、概念という規範にのっとって表現体へと変換されるのである。こうして、認識と概念は、表現体を媒介として、互いに切り離せない関係を結ぶ。

 

一枚の紙には、かならず裏と表があり、両者を切り離すことはできない。

 

それと同じように、人が創造する表現体(一枚の紙)がもつ物質性(裏)と、その表現体が表す概念の非物質性(表)は、切り離すことができない(一方がなければ他方もない)。切り離せないが、それぞれ別の面である。

 

先述のように、商品の交換価値は「自然的素材をもったく含むことはできない」とマルクスは言った。商品(一枚の紙)は、つくる作業においては自然的素材が不可欠である(裏)。だが、商品が交換材(貨幣)と交換されることによって表される交換価値(値段)じたいは、人が観念的に理解する数にすぎず、物質性から自由な、純粋の概念(表)である。そして、物質性と非物質性という表と裏があるからこそ、それは商品なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 脳科学はニセ科学 | 13:08 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
意識の科学は可能か その3

物質の組成や機能から、非物質である意識の内容を説明することはできないことを指摘したマルクスの文を、もうひとつ引用しておく。

 

 

 

 

「一部のエコノミストが商品世界に貼り付いたフェティシズムまたは社会的労働規定の対象的外観によってどれほどあざむかれたかは、なによりも交換価値が形成されるに際しての自然の役割 についての長たらしくて、愚かしくも子供じみた争いが証明している。
 

交換価値は、物に費やされた労働を表現するための、ひとつの限定された社会的作法 であるのだから、為替相場と同じく自然的素材をまったく含むことはできない。


(マルクス『資本論 第一巻』初版第一章。訳文は、筑摩書房版マルクスコレクションIII、2005年、321頁。イタリックは三浦による。なお、この文は資本論の現行版にもある。新日本出版社版の第一巻なら、140頁)

 

 

 

 

 

「為替相場」は、数どうしがつくる関係にすぎず、非物質的な存在である。数どうしの関係は自然的素材(たとえば、コンピュータの画面上のドット)によって表現されるが、「相場」を知ろうとしてコンピュータの画面上のドットの化学的・物理的特性を研究するとすれば、それはお門違いである。非物質的な関係の世界は、「自然的素材をもったく含むことはできない」(マルクス)のである。

 

ここまでは、読者もだいたい納得できるであろう。だが他方では、なおすっきりしない感覚が残るかもしれない。

 

「相場」じたいは非物質的ではあっても、それがコンピュータの画面上のドットという物質的な基盤をもってはじめて存在できるとすれば、「相場」が自然的素材を「まったく」含まないとは言えないのではないか、と。

 

じつは、このすっきりしない感覚にこそ、問題の根源が顔を出している。

 

この部分こそ、マルクスが十分に説明しなかった、事態の核心なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 脳科学はニセ科学 | 07:46 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
意識の科学は可能か その2

遺伝子を化学的・物理的に解明すればするほど、生命に特有のものが何であるかがわからなくなるー。

 

この話から私が思い出したのは、マルクスのある言葉である。

 

商品の交換価値とは、人間労働を実体とする商品の価値が、人間による商品交換によって社会的に現象するものである。それは人間の社会的活動が生む一種の観念であって、物質としての商品が「生まれながらに」もっているものではない。そのことを理解できない経済学者の言葉を引用したあと、マルクスは皮肉をこめてこう述べている。

 

 

 

 

「これまでのところ、交換価値を真珠やダイヤモンドのなかに発見した化学者はひとりもいない。」(マルクス『資本論』初版、江夏訳、322頁。第二版では岡崎訳154頁)

 

 

 

 

遺伝子をいくら化学的・物理的に解明しても、そこに生命に特有のもの、たとえば意識を「発見」できるわけではない。

 

お門違いの人に、お門違いの問いをすると、お門違いの答えが返ってくる。

 

 

こういう「お門違い」を、「カテゴリーエラー」と呼ぶことがある。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 脳科学はニセ科学 | 08:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
意識の科学は可能か その1

「私は、おそらく生命科学は、将来が暗いのだと思います。... 遺伝子はただの化学物質で、... 複雑な生命活動を可能にしている生物特有の、何か、素粒子では説明できないものが発見されるということは、おそらく、もうないと思います。」

 

 

 

これは、日本科学界の重鎮・吉川弘之氏の発言である。

 

吉川氏は1933年生まれ。東大総長、放送大学長、日本学術会議会長などをつとめた人で、一般設計学という工学分野の専門家である。(上の引用は、『吉川弘之対談集 科学と社会の対話 研究最前線で活躍する8人と考える』丸善出版、2017年3月、45頁から。吉川氏の経歴は同書奥書による)

 

先に引用した部分の直前で、吉川氏はこう語っている。

 

 

 

「生物は複雑ですからね。今はまだ化学反応だけがわかっている部分が多くて、物理現象までは理解できていません。システムバイオロジーが生命体の統合的なシステムを明らかにしようとしていますが、まだ水準は低いものです。」45頁

 

 

 

吉川氏の発言の主旨を私なりにいいかえると、生命科学の発達によって、生命に特有の「何か」が発見されるかとも思ったが、どうやらたんなる化学反応、あるいはせいぜい物理現象としてしか生命を解明できそうにない、ということではないかと思う。

 

だとしても、それがなぜ生命科学の「将来は暗い」ということに直結するのか、私にはよくわからないが、なかなか大胆な発言ではある。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 脳科学はニセ科学 | 07:27 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
マルクスと脳科学 社会科学における必然性 おわり
この、おそらくは人間の脳の仕組みに由来する不可避的な心理メカニズム(今村仁司の「第三項化という暴力」)は、原発や核兵器、軍備、安保体制のような社会事象にもあてはまる。



われわれが、原発はないほうが良いと思いながらも全廃をためらうのは、すでに原発に頼るエネルギー体制ができていて、<電気が安心して使えるのは、原発があるからだ>という意識が普及しているからである。


核兵器や在日米軍や軍備についても、なくてもすむならそのほうが良いと思いながら、われわれが廃止をためらうのは、すでに核兵器や米軍や軍備に頼る軍事体制ができていて、<安心して暮らせるのは、安保があるからだ>という無意識化した意識が定着しているからである。



いずれも、自分にとっての現状を事態の正当な原因とみなすがゆえに、思考の堂々めぐりから抜け出せなくなっているのである。



この種の現状肯定的観念は、生活に忙しい庶民や凡庸な政治家の立場にたてば、どれも<自然な>発想で、彼らにとってはすっかり正しい見方のように感じられる。

だが、科学的にものを見るという場合、それでは不十分である。

上記でいえば、③常識から②現状にさかのぼり、③再び常識を肯定する、という誰もがたどる思考にひたるだけなら、わざわざ科学を学ぶ必要はない。

科学とは、上記の ①原因→②現状→③常識 という事象の成立順序にそって理解し、そのなかから現状を改革する勘所を探し当てる作業である。

真の脳科学とは、①原因→②現状→③常識 をたどろうとする科学者自身、その脳は、③常識→②現状→③常識 という堂々めぐりで満足しがちであることを指摘してくれる、そういう存在であるはずだ。



科学における必然とは、③常識→②現状→③常識 で自己肯定しがちであるという<脳の必然>と闘い、①原因→②現状→③常識 という事態の客観的論理を必然として明らかにする努力のことである。







(おわり)







 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 脳科学はニセ科学 | 22:28 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
マルクスと脳科学 社会科学における必然性 その5
マルクスが言おうとしたのは、人間ならば誰もがたどる思考の型がある、ということである。


車の普及を例にとると、



<① 高速かつ快適に、個人的に移動したいという願望・必要 → ② 車の発明・普及 → ③ <移動には車>が常識になる>



という順序で事態は進んだ。

ところが、すでに車が普及した社会にいて、③ <移動には車>が常識になった人にとっては、②の車の普及が、③の原因であるかのように見える。

すなわち、



<私が移動できるのは、車があるからだ>



と思うようになる。


こうなると、人は車を手放すわけにはいかないと思うし、車のない社会は考えられないと思うようになる。

しかし、もともとわれわれは、②車が普及したので、③車で移動が当然、と思うようになったのであった。したがって、③車で移動できるのは、②車が普及したからだ、というのは、同語反復的な堂々めぐりにすぎない。

車とは、本来、①の高速移動という願望が原因となって生まれたものである。車はそのための手段のひとつであって、なにかの原因ではない。だが、車が常識になっている人には、車は高速移動の手段であり、かつ原因としか見えないのである。








(つづく)






 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 脳科学はニセ科学 | 14:46 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
マルクスと脳科学 社会科学における必然性 その4
社会科学の論理では、主体たる人間は、



<社会的必要の対象化(実体)→社会的原理・規範の創出・確立(本質)→個人の行為の無意識化(現象)>



という順序をたどって、自己と社会を発達させる。

むろん、この過程の背後では、脳などの人間の生理的な仕組みが支えているから、ある無意識的機能が脳のある部位に配分されることはありうる。

たとえば、言語という無意識的機能が、脳のどこかの部位(たとえばブローカ野)に配分されていることが判明したとする。

すると、次のような逆転した発想が生まれたりする。



<脳のこの部位を鍛えれば、個人の言語能力に影響を与えることができる→無意識のうちに外国語ができるようになる>



まるで冗談のような、薄っぺらで穴だらけのこの発想になんとなく魅力を感じるとすれば、あなたの脳は、低質な自称「脳科学」に染まっているのかもしれない。











(つづく)








 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 脳科学はニセ科学 | 07:18 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
#誰が書いてるの?
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< October 2017 >>
-->
#新しい記事
#過去の記事
#著書/共著
#著書/共著
#著書/共著
#著書/共著
#著書/共著
#著書/共著
#著書/共著
敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人
敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人 (JUGEMレビュー »)
ジョン ダワー, John W. Dower, 三浦 陽一, 高杉 忠明
#著書/共著
敗北を抱きしめて 下 増補版―第二次大戦後の日本人
敗北を抱きしめて 下 増補版―第二次大戦後の日本人 (JUGEMレビュー »)
ジョン ダワー, John W. Dower, 三浦 陽一, 田代 泰子, 高杉 忠明
#コメント
  • 英語を演奏する技術
    みうら (10/17)
  • 英語を演奏する技術
    月研ぎ (10/17)
  • 仏教は宇宙の創始や終焉をあまり考えない、古代の無限縁起の世界観
    みうら (10/16)
  • 仏教は宇宙の創始や終焉をあまり考えない、古代の無限縁起の世界観
    稲妻捕り (10/16)
  • 生きてるほうが珍しい  人間と宇宙、空と無の連関について
    みうら (10/16)
  • 生きてるほうが珍しい  人間と宇宙、空と無の連関について
    稲妻捕り (10/15)
  • 稽古とはクセをとること 舞妓さんのトレーニングに学べ
    みうら (10/14)
  • 稽古とはクセをとること 舞妓さんのトレーニングに学べ
    職人 (10/13)
  • 稽古とはクセをとること 舞妓さんのトレーニングに学べ
    みうら (10/13)
  • 稽古とはクセをとること 舞妓さんのトレーニングに学べ
    職人 (10/13)
#トラックバック