ごきげんようチャンネル

あなたがたは、終わりの時にいるのに、なお宝をたくわえている。
        ヤコブの手紙 5:3    

マルクスと脳科学 社会科学における必然性 おわり
この、おそらくは人間の脳の仕組みに由来する不可避的な心理メカニズム(今村仁司の「第三項化という暴力」)は、原発や核兵器、軍備、安保体制のような社会事象にもあてはまる。



われわれが、原発はないほうが良いと思いながらも全廃をためらうのは、すでに原発に頼るエネルギー体制ができていて、<電気が安心して使えるのは、原発があるからだ>という意識が普及しているからである。


核兵器や在日米軍や軍備についても、なくてもすむならそのほうが良いと思いながら、われわれが廃止をためらうのは、すでに核兵器や米軍や軍備に頼る軍事体制ができていて、<安心して暮らせるのは、安保があるからだ>という無意識化した意識が定着しているからである。



いずれも、自分にとっての現状を事態の正当な原因とみなすがゆえに、思考の堂々めぐりから抜け出せなくなっているのである。



この種の現状肯定的観念は、生活に忙しい庶民や凡庸な政治家の立場にたてば、どれも<自然な>発想で、彼らにとってはすっかり正しい見方のように感じられる。

だが、科学的にものを見るという場合、それでは不十分である。

上記でいえば、③常識から②現状にさかのぼり、③再び常識を肯定する、という誰もがたどる思考にひたるだけなら、わざわざ科学を学ぶ必要はない。

科学とは、上記の ①原因→②現状→③常識 という事象の成立順序にそって理解し、そのなかから現状を改革する勘所を探し当てる作業である。

真の脳科学とは、①原因→②現状→③常識 をたどろうとする科学者自身、その脳は、③常識→②現状→③常識 という堂々めぐりで満足しがちであることを指摘してくれる、そういう存在であるはずだ。



科学における必然とは、③常識→②現状→③常識 で自己肯定しがちであるという<脳の必然>と闘い、①原因→②現状→③常識 という事態の客観的論理を必然として明らかにする努力のことである。







(おわり)







 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 脳科学 | 22:28 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
マルクスと脳科学 社会科学における必然性 その5
マルクスが言おうとしたのは、人間ならば誰もがたどる思考の型がある、ということである。


車の普及を例にとると、



<① 高速かつ快適に、個人的に移動したいという願望・必要 → ② 車の発明・普及 → ③ <移動には車>が常識になる>



という順序で事態は進んだ。

ところが、すでに車が普及した社会にいて、③ <移動には車>が常識になった人にとっては、②の車の普及が、③の原因であるかのように見える。

すなわち、



<私が移動できるのは、車があるからだ>



と思うようになる。


こうなると、人は車を手放すわけにはいかないと思うし、車のない社会は考えられないと思うようになる。

しかし、もともとわれわれは、②車が普及したので、③車で移動が当然、と思うようになったのであった。したがって、③車で移動できるのは、②車が普及したからだ、というのは、同語反復的な堂々めぐりにすぎない。

車とは、本来、①の高速移動という願望が原因となって生まれたものである。車はそのための手段のひとつであって、なにかの原因ではない。だが、車が常識になっている人には、車は高速移動の手段であり、かつ原因としか見えないのである。








(つづく)






 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 脳科学 | 14:46 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
マルクスと脳科学 社会科学における必然性 その4
社会科学の論理では、主体たる人間は、



<社会的必要の対象化(実体)→社会的原理・規範の創出・確立(本質)→個人の行為の無意識化(現象)>



という順序をたどって、自己と社会を発達させる。

むろん、この過程の背後では、脳などの人間の生理的な仕組みが支えているから、ある無意識的機能が脳のある部位に配分されることはありうる。

たとえば、言語という無意識的機能が、脳のどこかの部位(たとえばブローカ野)に配分されていることが判明したとする。

すると、次のような逆転した発想が生まれたりする。



<脳のこの部位を鍛えれば、個人の言語能力に影響を与えることができる→無意識のうちに外国語ができるようになる>



まるで冗談のような、薄っぺらで穴だらけのこの発想になんとなく魅力を感じるとすれば、あなたの脳は、低質な自称「脳科学」に染まっているのかもしれない。











(つづく)








 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 脳科学 | 07:18 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
マルクスと脳科学 社会科学における必然性 その3
いいかえると、マルクスが言っているのは、「社会が脳の機能を規定するのであって、脳が社会をつくるのではない」ということである。

社会は、ある特定の時代、ある特定の地域でのみ存在する。そして人間の意識は、その社会のあり方に無意識のうちに規定される。

あることを<当然のこと>と無意識化するのは脳の働きかもしれないが、なにが<当然のこと>かは社会によって異なるから、社会の外からみるといかにも奇妙にみえることがある。

そういう意味でも、<脳一般 ーそれはどの社会でも同じものであるー が、人間の行動を規定している>というのは、逆立ちした錯覚である。



同じ箇所でマルクスは、<商品の価値は、その生産に必要な社会的必要労働時間によって決まる>という原理について、


「ある人の頭の上に家が崩れ落ちるときの重力の法則のように、規制的な自然法則として暴力的に自己を貫徹する」
(『初版 資本論』前掲、62頁)


と述べている。

商品どうしは交換されねばならず、交換するためには交換比率を決定しなければならないが、その交換比率を規定するものは、この地球上では社会的必要労働時間以外には見当たらない。

だから社会的必要労働時間という原理は、「自然法則」である。

<自然法則ならば、脳の働きではないか>と思うかもしれないが、この「自然法則」は、商品交換を必要とする資本主義社会にだけ、「暴力的」に通用する「自然法則」である。

上記の文でいえば、「ある人の頭の上に」とマルクスが限定している箇所がそれであって、社会的必要労働時間の原理は、資本主義社会にいる人の「頭」にとっての「自然法則」にすぎない。


脳は、ある社会で無意識化(必然化)している「自然法則」の貫徹=人間の無意識的行動を生理的に支えている人体器官のひとつであって、脳が「自然法則」の原因であるわけではない。






(つづく)







 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 脳科学 | 06:34 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
マルクスと脳科学 社会科学における必然性 その2
注意すべきは、この文は、<脳がこうなっているから、人間はそう行動する>といった俗流唯物論的な脳科学を正当化したものではないということである。

マルクスの主旨は、


<社会がこうなっているなら、人間はどうしてもそのように行動する。それは不可避である。なぜ不可避かは、もはや社会科学の問題ではない。強いて答えるなら、人間は生理的にそうなっているから、とでもいうしかない。>


ということである。



先の引用文でいうと、



<社会が資本主義(「物質的生活の特殊な様式」)になると、人間は必要に迫られ、私的な労働生産物を商品として、つまり抽象的人間労働とみなして社会的に交換しあう。

なぜ人間は、抽象的人間労働などという抽象的な思考産物をつくり、無意識のうちにそれを前提として行動できるのか?

そういう疑問が起こるかもしれない。

しかし、それはもはや社会科学の問題ではない。強いて答えるなら、人間は生理的にそういう能力をもっているから、とでもいうしかない。>



という主旨である。



社会の仕組みに応じて、人間は行動する。だから社会科学の仕事は、この社会の仕組みを解明することである。

もちろん、人間が生物である以上、生物としての生理的限界を超えることはできないが、<脳がこうなっているから、人間はこう行動する>というのは、人間の社会的行動の説明として転倒している。

<社会がこうなっているから、人間はこう行動する>のであって、脳の仕組みは、この人間の行動を裏側から条件づけているにすぎない。






(つづく)






 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 脳科学 | 23:48 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
マルクスと脳科学 社会科学における必然性 その1
マルクス『資本論』の初版には、脳に言及した次の部分がある。長いパラグラフの途中にあるので、つい見落としそうなところだが、きわめて重要な箇所である。




「人々は、自分たちの諸生産物を商品として互いに関係させるためには、自分たちのいろいろな労働を、抽象的な、人間的な、労働に、等置することを強制されている。

彼らはこのことを知ってはいないが、彼らは、物質的な物を抽象物である価値に還元することによって、このことを行うのである。

これこそが、彼らの頭脳の自然発生的な、したがって無意識的で本能的な作用であって、この作用は、彼らの物質的生活の特殊な様式と、この生産によって彼らが置かれているところの諸関係とから、必然的にはえ出てくるものである。」



(マルクス(江夏美千穂訳)『初版 資本論』幻燈社、1983年、62頁。ゴチックは三浦)





価値(抽象的人間労働という思考産物)をつくってしまうのは、人間の「頭脳」の「自然発生的」「無意識的」「本能的」「必然的」な働きだというのだから、一見すると、マルクスが現代の脳科学を予見した部分のようにも読める。


ここには、社会科学と生理学の接点が見えている。








(つづく)








 
| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 脳科学 | 05:18 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
<脳科学>はニセモノ科学である おわり
脳科学の発展は、哲学でいう「心身問題」(心と身体の関係をどう理解するかという問題)にも影響を与えているらしく、同誌に載った哲学研究者の文に、次のように書かれている。



「意識をニューロンへと変換しようとする脳神経科学の挑戦は、物理的なものの領域のいかなる変化も自然科学の合法則性に例外なくしたがっているとみなして、心的なものを物理的なものへと変換しようとする試みであり、…

つまり、『理由の空間』は『原因の空間』に還元されて、


『主体Sは理由Gにもとづいて行為Hを引き起こした』


という合理的説明も


『理由Gは行為Hを引き起こした』


といった因果的説明に取って代わられるのである。」


(加藤泰史「脳神経科学の哲学的挑戦」『世界思想』2013年春号、48頁)




いいかえると、




「意識的で合理的な主体、自由で自律的な主体という人間観は、脳神経科学の発展によって、法則的に決定された無意識的で機械的な存在という人間観へと大きく変革を迫られつつある。」(同上、48頁。ただしこの文は、信原幸弘氏の文からの引用)




もちろん、人間の精神活動が脳の(特定部位の)活動へと還元されるという脳科学の見方と、決定論的で非自律的な人間観という哲学的観点とは、次元がちがっている。

とはいえ、脳科学が現代の人間観に深いインパクトを与えていることは確かであろう。

私は、このような『唯脳論』的な思い込みは、脳科学や哲学にとってはもちろん、人類全体にとっても不幸な誤りであると思う。

項をあらためて論じてみたい。










(おわり)











| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 脳科学 | 22:55 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
<脳科学>はニセモノ科学である その1
<自分>はどこにいるか。

自分の中をいくらのぞきこんでも、<自分>は見つからない。

しかし、<自分>とはひとつの<世界>なのだと思えば、辻つまがあう。

<自分>は<世界>つまり全体のことなので、いくら部分を探しても見つからないのは当然である。

しかし、近代人は、<部分>に目を奪われて、<全体>を見失う傾向があるー。

そういう話を聞いたことがある。






全体を見るセンスを失った、タダモノ主義のニセ科学。

いまや隆盛にみえる脳科学は、そういうものに堕する危険をかかえているのではないか。

最近、我が意を得た感じがしたのは、神経心理学者による、次の文である。




「今や脳科学は恐るべきテンポで進展しているが、最先端のテクノロジーをもってしても、脳状態以外の事象を扱うことはできていない。…

にもかかわらず、脳科学においては、大脳の働きを暗黙裡に心の働きと同一視し、大脳のさまざまな部位に心のさまざまな働きを割り付ける試みが続いている。」


(山鳥重「脳の働きと心の働き」『世界思想』2013年春号、44頁。ゴチックは三浦)




ここで「脳状態」というのは、ニューロンが「電気的信号を出したり出さなかったり」すること、すなわち「単純」な「電気的活動」のことである。(山鳥同上文、42頁)

現在の脳科学は、「心の働き」を「電気的活動」とみなすことで、ココロをモノに還元し、全体を部分に局限する。

これは、事の本質を見失った誤りである。








(つづく)









| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 脳科学 | 09:41 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
考える胃  胃潰瘍、ヒドラ、別腹 脳科学について おわり
「脳科学」は、いまやブームを超えて「常識」になりつつある。

ところで4年ほど前のテレビ番組に、えらくおもしろいのがあった。

胃は、脳の力を借りることなく、自分を制御する完璧な仕組みをもっている。たとえば胃液を出しても自分自身は溶けないように、うまく自己制御する能力をもっているのだ。

つまり、胃は自分で「考える」能力をもっているのだから、「一種の脳」といえるという説明だった。

それに、脳がない生物だっている。たとえばヒドラという小さな生物は脳がなく、腸しかないが、立派に生きている。これは「腸が考えている」例になるのだろう。

しかし人間には脳があって、胃に対して命令できる。そのため、脳と胃が「思考」の対決を行う状態が起こる。ストレスが胃潰瘍の誘引になる原因は、脳からの不調信号によって胃が心ならずも?異常に胃液を分泌するからである。

「甘いものは別腹」というが、これも胃は一杯になっているのに、脳が甘いものを見てドーパミンを分泌せよと命令するので、胃は仕方なく、甘いものを受け入れるのだという。(以上、私のメモによると2004年1月10日のどこかの番組より。民放だったと思う

どうだ。胃だって考えるのだ。それなら、足だって手だって、自分で考えているはずだ。手を一周以上ねじったら骨折してしまうが、そうならないのは、脳が制御しているだけでなく、手自身がそうならないように制御しているからではないか。

組織のパーツは、それぞれに自律性をもち、それぞれに「考えている」のだ。それが、「生物が生きている」ということだろう。



(おわり)






| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 脳科学 | 08:00 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
「英語脳」より大事なもの 脳科学について その3
「脳のなかの小人問題」は、英語と深い関係がある。

「脳が情報を解読したり思考したりしている」(=脳のなかに小人がいる)とイメージすると、脳を鍛えれば英語ができるのでは?という発想になりやすい。

しかし、「脳を鍛えれば英語ができるようになる」というのは、じつは意味不明である。

言語問題を脳の問題におきかえて発想すると、「聴き流して脳を刺激すると英語がわかるようになる」とか「音楽のリズムを応用して右脳を刺激すれば効果大」とか、一見「科学的」な新メソッドが次々に作れる。

新メソッドがいけないというのではない(実際、やってみたら効果があるかもしれない)。

問題は、その説明方法にある。

人間は問題に直面すると、その根源部分をピンポイントで特定しようとする。その結果、脳を鍛えればよいと考える。むろん多くの科学は、このピンポイント手法によって発達したのであり、これは優れた方法である。

問題は、分析がピンポイントの方向だけで終わっていることにある。脳は重要ではあるが、他の器官と共同して人間の能力を調整し発達させる、ひとつの器官にすぎない。

たとえば、脳の外にある舌や喉の筋肉を鍛えないで、外国語の発音はできない。そして舌や喉は、脳をふくむ全身を調整せずに思い通り動かすことはできない。私たちは全身で生きているのであり、言語は全身の運動である。

それぞれの言語には、それぞれ独自の全身運動がある。外国語を習得するとは、その全身運動を尊重し、そのミニチュア(科学)を作り、それを全身でなぞって身につけることなのだ。

脳を直接きたえることはできない。われわれの脳のなかに小人がいて、すべてを理解したり、しゃべったりしているのでもない。

脳をふくむ全身の問題として脳科学を理解するようにしたいと思っている。



(つづく)







| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 脳科学 | 00:40 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
#誰が書いてるの?
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30      
<< April 2017 >>
-->
#新しい記事
#過去の記事
#著書/共著
#著書/共著
#著書/共著
#著書/共著
#著書/共著
#著書/共著
#著書/共著
敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人
敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人 (JUGEMレビュー »)
ジョン ダワー, John W. Dower, 三浦 陽一, 高杉 忠明
#著書/共著
敗北を抱きしめて 下 増補版―第二次大戦後の日本人
敗北を抱きしめて 下 増補版―第二次大戦後の日本人 (JUGEMレビュー »)
ジョン ダワー, John W. Dower, 三浦 陽一, 田代 泰子, 高杉 忠明
#コメント
  • 五木寛之氏の「暗愁」
    Yasuyuki Koyanagi (03/31)
  • 同時通訳・達人のつぶやき 「道遠し」問題について その1
    ぽっこり (11/07)
  • この本は買うな! 東大の『教養英語読本』を切る おわり
    雪 (04/24)
  • <言葉>や<心>は社会行為であって、脳の産物ではない  生成文法という現代病について
    YAGURUMA"剣之助" (12/29)
  • ソシュールの「恣意性」徹底批判 補遺  池上嘉彦氏の指摘から その4
    YAGURUMA"剣之助" (12/13)
  • ソシュールの「恣意性」徹底批判 補遺  池上嘉彦氏の指摘から おわり
    みうら (12/13)
  • ソシュールの「恣意性」徹底批判 補遺  池上嘉彦氏の指摘から おわり
    YAGURUMA"剣之助" (12/13)
  • ソシュールの「恣意性」徹底批判 おわり
    YAGURUMA"剣之助" (12/12)
  • 森鴎外「かのように」から
    一市民 (12/05)
  • government of the people, by the people, for the people - ゲティスバーグ演説の意味について おわり
    小林 宏 (12/05)
#トラックバック