ごきげんようチャンネル




そらになる心は春の霞にて よにあらじとも 思ひたつかな

西行



人間は人間のために生きているのではない

菩薩とは、「仏の位の次にあり、悟りを求め、衆生を救うために多くの修行を重ねる者」(大辞林)。

 

できたら菩薩になろう。そう思うことは大事だ。しかし、誤解もしやすい。

 

「悟りを求め、衆生を救うために修行する者」というと、「菩薩になるとは、人のために生きることであり、それは素晴らしいことだ」と思うかもしれない。

 

だが、それは順序がちがう。

 

菩薩は、人間のために修行するのではない。

 

菩薩は人間のためにも行動するが、それは人間が、自分が、「おおいなるもの」の構成部分になっていて、もともと自他の区別も、人と生物の区別もないことを知っているからである。

 

菩薩は、宇宙の構成部分として活動する。

 

だから菩薩には人間の愚かさも見えてくるし、人間のいとおしさも見えてくる。

 

仏教が教えているのは、つねに人間以前のおおいなるものへの尊崇と、あらゆるものの一体性から出発すること、それがもっとも底深いあり方だということなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 05:50 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
希望があれば遠い道も人は歩く

人間の歴史は、易行(いぎょう)の拡大であった。

 

たとえば仏教は、難行 the Difficult Path から易行 the Easy Path へと移行してきた。

 

「怒れる神」から「慈悲の神」へというルターの主張も、難行から易行への転換という性格をもっている。

 

ビジネスでも、「早い・安い」が売りになる。安易さを嘆く人もいるが、「早い・安い」が圧倒的なパワーをもつことは事実である。

 

 

いちばんいいのは、こういうやり方ではないか。

 

もともと道は遠い。遠いからこそ、ひとつひとつの行為を易行にすべきだ。「早い・安い」も方便(真実に至る仮の手段)である。それで人が希望をもてるならば。

 

ただし、ひとつひとつの易行が終点につながっていることを指摘しつづけることも大事だ。

 

希望がつづけば、遠い道も人は歩く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
人間の力を超えることは、観念上で解決するしかない

生老病死(四苦)に、愛別離苦、怨憎会苦など四つを加えて八苦。

 

たしかに、これらは不可避の現実で、人間は避けることができない。

 

だが、ひとつだけ解決方法がある。

 

それは、こうした不可避の現実をうまく解釈する観念をつくることである。

 

ここに、宗教の基盤がある。

 

また、宗教的な解決を放棄したり延期することも観念上の解決の一種であるから、無宗教も、不動の現実を観念の上で解決する方法の一種である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
『坂の上の雲』を空からみる 司馬史観を越えた暗殺者

安重根(アン・ジュングン 1879‐1910)といえば、「韓国の義兵中将」を名乗り、ハルビン駅で伊藤博文を「軍事行動」として暗殺した男。朝鮮独立史を語るには欠かせない人物である。

その安重根が、処刑される直前まで執筆していた「東洋平和論」という文章に、おもしろいことが書いてある。

日本が日露戦争に勝利できたのは、「韓清両国人民」が「日本軍を歓迎」し支援したからだというのである。


日本は、「東洋平和の維持と大韓国独立の強化」を開戦理由にした。そして日露の開戦は、黄色人種と白色人種の競争ともいえる。だから東洋人民は日本を支持し、「以前の日本に対する敵愾心は一気に消滅」した。

ところが日本は、ロシアに勝利すると韓国から外交権を奪い、満州南部まで利権をのばした。そのため、「日本の偉大な名声や絶大な勲功は一朝にして失われ」たのだった。

 

では、日露戦争に勝利した日本は、どうすればよいのか。

 

安重根によると、まず日本は旅順を中国に返還し、旅順を永世中立地帯とすべきである。そこに韓中日が共同で管理する軍港を作り、三国代表による常設委員会を設置し、東洋平和会議を組織する。

 

そして三国人民を会員として会費を集め、共同銀行を設置し、共同貨幣を発行し、共同軍団を創設し、互いの言語を学習し、日本の指導によって商工業を発展させる。三国皇帝は、ローマ教皇を訪問し協力を誓いあい、王冠を受ける。

「そうすれば世界は日本の英断に驚き、日本を称賛し、信頼を置き、韓日中は永遠の平和と幸福がえられる」

 

というのである。(以上、勝村誠「安重根の東洋平和論」『歴史地理教育』2010年1月号、67頁より)

 

理想論のようだが、安重根の構想の根底にあるのは、日本の命運をにぎるのはアジアの民衆であり、げんにアジアの民衆の支持を得ることで、日本はロシアに勝てたのだし、これから韓中日が共同で栄えることもできるのだ、という見方である。

 


英雄的人物に光をあて、日露戦争を近代日本の栄光ととらえる司馬史観とはちがう歴史観が、ここにある。

安重根は「坂の上の雲」の上から、日本をふくむ東アジアを見ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
真実が現れるフィクション 浄土三部経について

浄土三部経を読みながら、クリアに実感した。

 

ここに書かれた内容は、フィクションである。

 

ブッダが弟子に説法するという仏典の定型を踏襲しているが、歴史上のブッダが阿弥陀の浄土を説いたという事実は、まずありそうにない。

 

阿弥陀の極楽浄土は豪華絢爛だとあるが、これは瞑想体験にもとづいた空想であろう。

 

肝心の四十八願も、法蔵菩薩も、フィクションである。

 

頭を冷やして考えてみれば、以上は明白なことである。

 

観無量寿経以外は、歴史上のブッダの入滅から数百年たって、紀元前後にインドで書かれたらしい。すべて想像の産物であろう。


 

 

偽経(ぎきょう)という言葉がある。

 

偽経とは、「西域や中国・日本などで、俗信や、正統仏教とは別の思想を取り入れて偽作された経典」(大辞泉)のこと。浄土三部経は起源がインドにあるようだから、偽経ではない。しかし、後世の想像の産物であるのに、ブッダが説いたかのような形式をとっているところはフィクションであり、内容も歴史的事実ではない。

 

 

 

小説やおとぎ話は、自他ともに認めるフィクションである。では、寺院の教義を支える経典は、小説やおとぎ話とどこがちがうのか。

 

二点が重要だ。

 

ひとつは、経典は、寺院、僧侶、信者といった歴史ある組織や実績によって真実性が担保されていること。宗教の教えのために生命を犠牲にした人がたくさんいる。小説を守る?ために死んだ信者とか、おとぎ話を教義にした寺院・僧侶というのは、聞いたことがない。(神社なら、桃太郎神社のような例があるが)

 

もうひとつは、経典は生老病死のような、人間の力を超える現実への直接的な処方箋であること。こうした問題は、観念上で解決するしかない。観念上の解決は観念の産物によるほかはない。経典はフィクションたるべく運命づけられている。そしてフィクションたる経典から寺院、僧侶、信者、そして勇敢な行為といった現実が生まれ、そうした現実ゆえに経典の真実性は増す。

 

 

 

宗教の要諦は、教義の内容が歴史上の事実に合致しているかどうかではなく、現実を超越できる力を、人々に与えることができるかどうかである。

 

フィクションだからこそ生まれる真実性、つまり人の心にとっての実在性。それが大事なのだ。

 

経典はフィクションではないかと言われたら、

 

「しかり。だがフィクションゆえにこそ、現れる真実がある。その真実に生き、死んだ人たちもいる。真実なるがゆえに、我信ず」

 

そう斬り返す気概が、宗教の真骨頂だろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
現実に合致した認識が科学 現実を透過した認識が宗教

現実は、それ独自の法則にしたがって運動する。この運動じたいは科学ではない。

 

人間は、現実の運動の法則をつかむことができる。現実がしたがっている法則を正確に認識すれば、現実をより深く理解できる。現実を操作したり変質させたりすることも可能になる。

 

ここでいう現実とは、目に見える現象、五感で感知できる世界のことである。

 

科学は、現実認識を洗練させた概念の体系であり、人間の現実認識の規範となる。

 

現実と認識の合致。それが科学である(悪用もありうる)。

 

 

他方で宗教は、現実を透過する認識であり、絶対的存在がつくる世界を観念的に構築する。

 

科学を心の糧にしても、人間は生きられないこともある。芸術も虚しいことがある。

 

宗教は、人間に希望を与える観念上の認識である(悪用もありうる)。

 

おそらく宗教は、人間の観念がつくった最大の発明品だろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
言語は物を人格化し、人格を物化する

人間は、言語によってあらゆる物を人格化する。

 

たとえば美しい景色がわれわれの五感によって認識され、この認識が言語化されるとき、景色(物)は言語を媒介として人格化する。素粒子やタンパク質が認識の対象となり言語化されると、素粒子もタンパク質も人間にとって意味あるものとして了解される。

 

言語とは、世界の人格化である。人格化するから、世界は人間にとって意味あるものとなる。

 

言語によって世界が人格化するということは、言語によって人格が物化するということでもある。言語の音声・文字には、話し手の人格が物化して凝結している。

 

 

 

マルクスは、商品生産における<物の人格化/人格の物化>を考察した。上記のように、言語表現においても、<物の人格化/人格の物化>がおこなわれる。三浦つとむの「自己分裂」は、話し手の認識力によって<物の人格化/人格の物化>がおこなわれることの言い換えである。

 

 

 

 

✴<物の人格化/人格の物化>については、マルクス(森田茂也訳)『資本論第一部 草稿』光文社古典新訳文庫、2016年、413頁以下の訳者解説を参照。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
近代の合意と現代の紛糾

われわれが生きている近現代という時代 the modern era の特徴。

 

それは、たいていのことについてすでに人類的な合意ができているということである。

 

 

 

戦争は基本的に違法である(国連憲章)。

 

核兵器は廃絶されるべきである。原子力の利用は破滅的危険がともなうので、廃止が望ましい。

 

軍事費・武器を削減し、公共の富は人の福祉に活用すべきである。

 

より富裕な者がより多くの社会的負担を負うことは、全員にとっての正義である。

 

病気・貧困・暴力は、撲滅されるべきである。

 

国家の運営は、民主主義によるべきである。国家単位の民主主義には、三権が分立した統治形態が望ましい。

 

個人の自由、国家の独立、民族の自決は尊ばれるべきである。

 

不平等とは、性別、人種、国籍、言語など、本人に責任のないことによって不利な扱いを受けることであり、それは不正義である。

 

人が人たるには、教育制度が不可欠である。スポーツ・外国語教育・芸術は、地域・民族・国家を超えて互いを理解する力になる。

 

神々に優劣はなく、宗教は個人の内面の問題である。特定の宗教組織が政治を直接つかさどることは、宗教弾圧や思想抑圧につながるため、望ましくない。

 

歴史は抹殺したり歪曲するのではなく、人類の鏡として、ありのままに認識さるべきである。

 

自然破壊は人類の自滅行為である。

 

 

 

これらは広くは1500年ころにはじまる「近代」の成果として、とくにここ数十年で、全人類が到達した合意といっていいだろう。

 

問題は、こうした合意を現実にするための<プロセスについての合意>が、なかなか得られないことにある。現代の紛糾の多くは、<プロセスについての合意>を求めるプロセスである。

 

とにかく、すでにこれだけの観念上の合意があるということは、人間にとって大きな財産だ。

 

これらの合意こそ、人類の財産といっていい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 09:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
空海の書はマントラである 

大岡信氏は、空海の書に「妖気」がただよっているという。あれは「おまじないの字」であり、ときに「不気味」だと言っている(大岡信『あなたに語る日本文学史』新書館、72、74頁)

 

私は、空海の書を展覧会で見たことがあるが、大岡氏に同感だ。

 

そもそも呪文とか祈祷は神秘的な力を信じる行為で、それが「日本の土着」だとも、大岡氏はいう。(同上書、73頁)

 

日本仏教の基礎となった般若経系の仏典も、読経や善行がブッダ(覚者)への道だという神秘的観念のうえに成り立っている。(佐々木閑『集中講義 大乗仏教』NHK出版、2017年、50-51頁)

 

この国には古来、神秘への信頼がただよっていることになる。

 

 

 

 

 

 

                 空海 益田池碑銘

 

 

 

 

 

空海の書の対極にあるのが、最澄の楷行書だろう。これは理知的で、端麗の極みだ。

 

 

 

 

 

「最澄 山家」の画像検索結果

 

            最澄 山家学生式

 

 

 

 

仏法とは理屈を超えた神秘だとしたのが空海で、逆に仏法は論理に貫かれているという信念をもっていたのが最澄なのかもしれない。

 

 

最澄の流れは仏教の教学の面で受け継がれ、空海の流れは、仏教の実践面を代表するのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「ご同行(どうぎょう)」の思想

真宗の信者のことを同行(どうぎょう)ということがある。お遍路さんの笠には、同行二人(どうぎょうににん)と書いてある。弘法大師と二人で巡礼しているという意味である。

 

この「同行」という発想は、人類史上、画期的なものだったし、今後も輝きつづける歴史の遺産である。

 

般若経系仏教の発想は、われわれは過去世ですでに如来(覚者)の候補生である菩薩になっており、何度も生まれ変わりながら如来になるための厳しい修行を積むのが仏道だ、ということだった。

 

菩薩であることが自覚できれば、立派だ。如来になれば、もっと立派だ。だが、それは至難のこと。これでは、菩薩にも如来にもなれない凡人は仏道から除外されてしまう。

 

そこで、鎌倉期あたりから、日本列島に新発想が登場した。

 

菩薩になるのは、あの世に行ってからでよい。この世のわれわれは、将来菩薩になり、如来になりたいと願いつつ、いまは「みなさんご同行」、つまり菩薩候補生という平等の立場なのだ、という考え方である。

 

あの世に引率されて菩薩になる手続きは、阿弥陀様がすでにやってくださったので、われわれが心配することはない。

 

絶対慈悲の存在を設定することで、菩薩になるタイミングを一段ずらし、肩の力を抜いた発想である。

 

平等の「ご同行」という考え方から、人間の権利上の平等(人権)という思想も導ける。人間どうしがいたずらに敵対する発想も回避できる。社会運営の基本方針もでてくる。

 

「ご同行」は、人類が長い年月をかけて到達した、すごい思想なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 06:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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