ごきげんようチャンネル

"Life is too short to wake up with regrets." author unknown
           

発音が、外国語の見えないバリアになっている

先日、人に聞いた話。

 

 

 

パリに行ったら、露店に柿があった。見ると、「kaki」と書いてある。

「カキは日本語ですよね」

 

そう売り子に言ったら、けげんな顔をして、

「kakiはフランス語だよ」

と答えた。
 

 



もう一つ、似た話を読んだ。

 

 

 

和菓子の老舗「虎屋」がパリとニューヨークに支店を出したときのこと。

 

和菓子は小豆(あずき)の餡(あん)を材料に使う。ところが、欧米では豆類に高級なイメージがなく、これをお菓子に使うことに抵抗があった。

そこで、店ではこれを固有名詞風に adzuki と呼び、とにかく客に食べてもらった。bean(豆)の一種であることは、そのあと口頭で説明した。

すると和菓子は次第に受け入れられていったという。(川島蓉子『虎屋ブランド物語』東洋経済新報社、41頁)
 


柿がkakiと呼ばれて受け入れられたのと同様、小豆はそのままadzukiと呼ぶことで違和感がなくなった。

 

 

 

 

 

柳父章『翻訳語成立事情』は、近代日本で英語のrightやsocietyのような基本語が「権利」「社会」という耳慣れない漢字語に翻訳され、この新語が流布した心理を分析している。

それによると、「権利」「社会」は、当時の人には意味(中身)がよくわからなかった。そして、わからないがゆえに深遠な感じがして、人々に受け入れられたのだという。

これを柳父氏は「カセット効果」と呼んでいる。ここでカセットcassetteとは、テープではなくて「小さな宝石箱」の意である。

外見が見慣れず中身も見えないが、だからこそいいものが入っていると思える。この「わからなさ」のゆえに、近代の新語を日本人はすすんで受け入れたのだ、と。(柳父章『翻訳語成立事情』岩波新書、1982年、36、83、86、116、189頁)

聞き慣れない単語のほうが、かえって受け入れられる。kakiや adzuki にも、そういう心理が働いたのだろう。

 

 

 

 

この話で、隠れた役割を果たしているのが、発音の問題である。

 

例えば、bananaを日本語風に発音した「バナナ」は、もはや英語ではない。その証拠に、「バナナ」というとき、英語風に a や the をつけようとする人は、滅多にいないだろう。パリのkaki、ニューヨークのadzukiは、もはやフランス語であり、英語である。それは、フランス語、英語として聞こえる発音で言っているからである。

 

 

発音が変わることで、言語が変わる。言語の違いとは、発音の違いが第一である。

 

 

「発音には、そうこだわらなくていい」
「発音は最後でいい」

 


という人は、おどろくほど多い。

たしかに発音が完璧でなければ話してはいけないというものではない。しかし、だからといって「最後でいい」「こだわらなくていい」ということになるだろうか。スポーツでも芸事でも学問でも、基本的なことについて、「最後でいい」「こだわらなくていい」という人がいるだろうか。

英語もどきの日本語の音を、英語と思いこんできたとすれば、迂闊な話である。発音が日本語であれば、それは日本語の一種だと言っても、そうおかしくない。

 

 

発音軽視は、日本の英語教育の徒労と失敗の、最初にして最大の原因かもしれないと、私は思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 14:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
和菓子は水を売れ、洋菓子は空気を売れ

和菓子の「たねや」社長・山本徳次氏が、おもしろい洞察を書いている。
 

 


洋菓子の焼き物はほとんどが空気。洋菓子がうまいのは、空気を演出しているとき。

他方、和菓子は、6割から8割が水。魚と同じで、みずみずしくて保水作用があることが大切。水のうまさが和菓子の決め手。

洋菓子は空気を売れ、和菓子は水を売れ。

 

 

(山本徳次『商いはたねやに訊け』毎日新聞社、2003年、43頁)
 

 

 


まるで名僧「空海」の名前のように、和菓子と洋菓子はこの世の二大要素 —空気と水— のうまさを凝縮しているわけだ。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 歴史とは何か | 13:35 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
やはり低迷している英文法の革新 言語観の貧困が根因

八木克正『世界に通用しない英語 あなたの教室英語、大丈夫?』(開拓社、2007年10月)



学校で教える英語が古くさかったり、間違っていたりする実態を指摘し、今後の方向を提案した本。

いくつか面白かったところをメモしてみる。

 

 

 

近代日本の「英文法」は1900年ごろ確立した。

 


イギリスの規範文法をもとにして日本の学習文法が確立したのは、明治後期(1900年ごろ)であった。

そのシンボルは、斎藤秀三郎『実用英文典』(1898‐1899)。これが日本初の体系的英文法書といわれる。

 

斎藤『実用英文典』の原型は、Henry Sweet, A New English Grammar, 1881-1898 。

 

さらにSweet の本の源流は、1600年ごろに確立した近代英語を集大成した L. Murray, English Grammar,1795である(八木、47、52頁)。

 

 

別の本だが、伊村元道『日本の英語教育200年』(大修館書店、2003年)にも、次のような説明がある。

 

 

「本書 [斎藤秀三郎『実用英文典』] は、その後の学校文法(スクール・グラマー)の枠組みを決めたといわれ、説明の仕方や例文まで本書を踏襲したものが数多く出た。戦後まで読まれた受験参考書のロング・セラー、山崎卓『自修英文典』(1913)なども本書の簡約版を底本にしている。英語学習者なら誰でも知っているあの『五文型』というのも斎藤の動詞分類にすでにその発想がある。…『不定詞』という名称も斎藤に始まる。それまでは『不定法』と呼んでMood(法)のひとつとしていた。」(伊村、25-26頁)

 

 


大正期に入り、規範文法に対して「科学文法」が台頭。

 


そのシンボルは、市河三喜『英文法研究』(1912年)。規範文法はまず規則を定め、それに言語使用を従属させようとするが、科学文法は「言語の実態をあるがままに受け入れて記述し、そのなかにひそむ規則性を見つけ出そうとする」立場である(八木、51頁)。他には、理論や体系を重視する中島文雄のような学風もあった。60頁。


著者の八木氏も、基本的にこの「科学文法」の立場をとっていると思われる。

 

 


1960年代に入り、構造言語学、さらに生成文法へと、日本の英文法研究は、急速に普遍理論志向へと転回した。
 


八木氏は、この時代を次のように回想している。

 

 

「流行に抗することができず生成文法の勉強をしながらも、同時に実証的研究を続けてきた私のような研究者が味わってきた悲哀でもありました。…言語学者はすべて言語の普遍性を追求しなければならないなどと指図される覚えはありません。…私は1960年代から2000年ころに至るまでの約40年間は、日本における英語の実証的研究の停滞期であったと考えています。」62‐63頁。



2000年ごろから、生成文法の勢いが衰退し、多様化の時代へ。

 


この時期、生成文法の盛行の影で営々と続けられてきたクエスチョンボックス型の語法研究が学習辞典や英語事典となって刊行され、集大成されていく。他方でラネカーらの認知文法も台頭してくる。最近では脳科学と結びつけた英語論も台頭している(八木、67頁以下)。
 

 

英語の発音が多様化しているからこそ、文法習得は重要性を増している
 


「書きことばになると、とたんに文法が意識されます。そう、英語の学習を話しことば中心にやっていては本当の英語の力がつくわけがないのです。書いてはじめて文法意識が芽生えます。」(八木、12頁)。

これは、英語の多様性をどう考えるかとも関連している。

世界には多くの種類の英語があるというが、著者によると多様なのは大部分が発音や語彙など話しことばのレベルのことで、書いた場合には
 


「英語と名のつくかぎり、文法上はほとんど違いがない。」(八木、20頁)
 


つまり、英語が様々な発音で多数の人が話しているからこそ、文法を知ることがますます重要だということである。英語を英語にしているのが文法だから、それをきちんと身につけることは絶対条件なのだ。

そのためには、文字を通じて英語を身につけること(読み書き)が有効だと、著者は言う。
 

 

ナショナルプロジェクトとして英語を総点検せよ

 


著者は、教科書、準教科書、学習参考書、問題集、入試問題などを総点検して、古くさい表現や間違った文法解説を日本の英語から排除すべきだという。



「その計画の実行のためには信頼のおける10名程度のいつでも相談できるネイティブ・スピーカーが必要です。5名位の日本語を母語とする英語専門家チームと、サポート役のネイティブ・スピーカー10名があれば数年で大がかりな点検作業ができるでしょう。学会をあげてのプロジェクトとしてやる値打ちがあると思います。」(八木、172頁)。

 


実現性はともかく、これはおもしろいアイディアだ。

ついでに、なぜ英語の習得にこれほど無駄が多いのか。それも研究してもらいたいものだ。規範文法があり科学文法があり生成文法がありながら、なぜ英語の習得はこれほど困難なのか。

これなら学会のプロジェクトどころかナショナルプロジェクトにする価値があると思う。

 

 

 

「科学的な言語研究」について

 


八木氏は、言語研究の方法について、次のように述べている。

 


「数学や理科など自然科学にもとづいた学科と同じように、英語が科学の裏づけをもった学科になるためには、科学的な言語研究の考え方が基本になければなりません。そのような学問としての英語研究の方法を分かりやすく提示することも本書の目的です。」vii頁。

 


そして著者は、「正しい英語とは今の世界に通用する英語」「世界のどこでも通用する英語」だともいう。16、18頁。

「より効果的に自己表現ができる英文法、そういうものを構築していかねばなりません。文法のための文法は専門家に任せて、学習のための英文法を早急に構築していかねばなりません。」171頁。

この主張に異論があるわけではないが、著者の方法には欠けているものがあるとも思う。たとえば、世界に通用する「正しい」用法を確認し、集めつづけても体系はできないであろう。

著者は「ボトムアップの思考法によって理論構築」「個別の現象の記述を積み重ねることによって体系を組み上げ」るのだと言っている。63頁。たしかに個々の事例を検討することは重要だが、それだけで「理論」や「体系」は作れない。

たとえば、18世紀から19世紀に流行したヨーロッパの「博物学 natural history」は当時のヨーロッパの世界進出とともに発見された、珍しい標本の採取と分類に熱中した。当時はそれが最先端の学問であった。

しかしこんにち博物学のように、たんにたくさん集めて分類することを科学とは呼ばない。

著者が鋭く指摘している古くさい表現や奇妙な文法は、たしかに早急に改めなければならない。しかしそれで日本における英語学習の問題が解決するわけではない。間違った個々の表現を改めただけでは「効果的に自己表現ができる英文法」は実現しない。

 

著者は多くの事例を集めて、それが示唆する規則性を見出すことを「科学的」な態度と考えているようだが、その作業から対象の本質がわかる保障もない。

 



じっさい、20世紀初頭に日本で確立した斎藤秀三郎流の文法体系に代わる英文法は、「科学文法」の台頭から100年近くたった今も実現していない。

 






 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | トランスグラマー 希望の文法へ | 12:41 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
本当に「復活」するのは、負い目のある人である

ペテロは、イエスによって十二使徒のなかの首位と認められた人。バチカンのサン・ピエトロ大聖堂は、ローマで殉教したペテロの墓の上に建造されたという。

 

もと漁師で、イエスが捕らえられたとき、自分も逮捕されるという恐怖から、イエスを「知らない」と三度も言ったペテロ。

 

そういう聖書の記述から、ペテロの性格は「直情的」とか「動揺しやすい」とか形容されることが多い。もっとはっきり言えば、ペテロは無教養で単純な、ある意味の「ダメ男」だったのではないかと、私は思う。

 

どうにもなりそうにないダメ男だったからこそ、イエスは使徒のなかの筆頭と認めた。処刑されたイエスは、ユダヤに伝承されるキリスト(救世主)だったのだー。そう気づいたあとのペテロの活動は、彼が「直情的」だったからこそ、熱が入ったのではないか。

 

 

 

 

キリストの死後、己の生をもう一度生き直そうと覚悟を固めた弟子たちの、その決意こそが、本当の意味の復活だった。」(原求作『キリール文字の誕生』上智大学出版、2014年、163頁)

 

 

 

 

イエスの復活の物語は、文字通りに信じる人もいれば、残された人々が抱いた幻想であったと解釈する人もいる。

 

罪なきイエスの処刑を阻止できなかったことへの後悔。この後悔が、処刑によってイエスがキリストであったと確信できたことと相乗的なペアとなって、周囲の人々を強い感情へとかりたて、イエス復活という共同幻想へと誘ったのではないか、というのである。

 

ペテロとよく比較されるパウロは、手紙が書けたくらいであるから、ペテロよりも教養があったのだろう。そのパウロも、かつてイエスの教えを否定し、キリスト教会を迫害したという負い目を背負ったからこそ、勇敢な布教活動ができた。

 

 

人間は、負い目を自覚するとき、ようやく人となる。

 

 

自分への後悔だけでなく、他人への謝罪をふくむとき、負い目は、痛みであると同時に財産となって、勇気ある活動へと人をかりたてる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | イエスの虚像 | 13:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ある白人至上主義者の改心 

アメリカで人種差別感情が高まり、それに抗議する人たちの動きも盛んになっている。ヨーロッパでも右派が台頭している。きっと日本にも影響してくるだろう。

 

アルジャジーラのサイトを見ていたら、元白人至上主義者で、ヘイト系バンドのリーダーだった男が、なぜ運動もバンドもやめたのかを、自分で説明している告白文があった。

 

 

 

http://www.aljazeera.com/indepth/features/2015/08/reflections-white-supremacist-150828100415193.html

 

 

 

2年前の記事だが、心の奥から出てくる言葉をつづった感じの、めったにない文になっている。

 

 

7年間、暴力的なヘイト活動を続け、優越感も持ったが、内心では自分の間違いを自覚していたという。その自覚を認めたくないがゆえに、さらにヘイト活動を続ける日々。やがて、心がヘトヘト(exhaustion)になってしまった。

 

今は慈善系の団体で働いているというが、そうなったきっかけは、自分が敵視した人々が返してくれた愛情 (love) だったという。ユダヤ人、レズビアン、黒人、ラティノ。そうした人たちの前では、相変わらず突っ張ってはいた。しかし、彼らに受け入れてもらううちに、「みんな人間という仲間なんだという気持ちに、どうしても勝てなくなった。 ... the sublime power of human kinship prevailed.」

 

 

この男が、どれだけ多くの人々の体と心を傷つけたか。それを考えると、この男の負い目は、ただ反省しただけでは済まない、犯罪的なものであろう。だが、この男がいま反省しているという事実は、人間性への究極的な信頼ということも考えさせてくれる。

 

自分の人種や民族や国家の優越の感情に身を任せることは、ある意味で単純にできることである。それは単純な感情であるだけに、強いパワーで人を動かす。

 

あることを信じるのは良い。だが、それを暴力的に他者に押しつけるのは良くない。相手を信頼して自分の意見を伝えた後は、相手自身に判断してもらう。相手も、自分を信頼して意見を言ってくれれば良い。その良し悪しの判断は、自分がする。その繰り返しによって、「みんな人間という仲間なんだ」という気持ちが醸成される。

 

このプロセスには、時間がかかる。相互尊重と忍耐の裏では、ほとんどつねに相互不信と暴力が進行する。その間に、とりかえしのつかない犠牲が生まれることもある。

 

これから右派がさらに台頭し、憎悪が放置され、奨励さえされるかもしれない。

 

それでも、人間の中核にあるのは、憎悪ではない。人間の中核にあるのは、「みんな仲間なんだ」という気持ちのほうである。そう思い続ける力を失いたくないと思う。

 

 

 

 

...

 

 

 

以下、原文から抜粋。

 

 

Reflections of a former white supremacist by Arno Michaelis    

 

 

...  But the most powerful moments that fed the growing sense of exhaustion that led me away from hate were ones rooted in love. Time after time during my seven year stint in hate groups, I was graced with kindness and forgiveness by people I was openly hostile to because of who they were. Refusing to let my inhumanity diminish theirs, people like a Jewish boss, a lesbian supervisor, and black and Latino co-workers modelled what it means to be a human being, when I least deserved, but most needed such a lesson. ...

 

But no matter how much I drank, how loud the white power music was cranked, how many other disgruntled white kids I managed to surround myself with, or how much blood I spilled, the sublime power of human kinship prevailed, leading me from a world consumed by hate and violence to one firmly set in the basic goodness of human existence.

 

 

 

http://www.aljazeera.com/indepth/features/2015/08/reflections-white-supremacist-150828100415193.html

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 歴史とは何か | 08:50 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
憲法9条(戦力の不保持)と24条(結婚の要件)はペアである

国の交戦権を否定した9条と、婚姻が「両性の合意」のみで成立するとした24条は、根本思想が同じかもしれない。

じっさい、1950年代には、9条と24条を直接結びつける議論が登場した。

9条を廃止し日本軍を再生させるには、兵隊になる男性が命を投げ出す理由が必要となる。親に服従することがよいことだという意識を育てれば、国家や上官の命令に従うのがよいことだという心情ももたせやすい。したがって、家族において、親や夫への服従関係を否定する24条は、改正しなければならない...

そういうロジックであった。(若尾典子「憲法24条を考える」『歴史地理教育』2007年4月号、10頁」

兵士をつくるためには、家族における服従関係を復活させるべし、ということである。うまく戦争をするには?という目的からみると、9条と24条がつながりをもっていることがわかる。



実際、戦前の日本では、徴兵と結婚は深い繋がりがあった。現在でも、韓国など徴兵制のある国では、徴兵と結婚は切っても切れない問題である。

だからであろう。戦後、日本国憲法の規定のなかで、とくに若い世代に共感を呼んだのは、ほかならぬ9条と24条であった。(若尾同上論文、11頁)

 

 


1960年に、「僕は泣いちっち」で有名な守屋浩が、「24条知ってるかい」という歌を出したことがある。

 

 


「憲法なんて知らないが 24条いかせるぜ
好きな二人を添わせれば 心中なんかなくなるさ
明治生まれじゃ無理だけど 時代が変わっているんだよ
もっと勉強しておくれ 日本国の憲法を」

 

 


という歌詞だったという。いかにも戦後的な、明るい文句だ。





 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 憲法改正 | 23:06 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
チキンラーメンからカップヌードルへ 形式の改善で世界食品に飛躍

日清食品の創立者・安藤百福(ももふく)氏が1958年、自宅の小屋でインスタントラーメンを発明した時の話は、よく知られている。

奥さんが天ぷらを揚げるのを見て、味付けした麺を乾燥させる方法を思いつき、工夫の末に、インスタントラーメンが誕生した。

インスタントラーメンは、お湯をかけただけで食べられる「魔法のラーメン」として人気になった。しかし、安藤氏の工夫はまだ続く。

1966年、欧米視察に出た安藤氏は、紙コップにチキンラーメンを砕いて入れ、フォークで食べている人の姿を目にする。飛行機で配られたマカデミアナッツの容器に密閉用の「フタ」がついていることにも感心する。

そして1971年、世界初のカップ麺「カップヌードル」が発売された。

カップヌードルは、チキンラーメンがカップに入っただけのようにも見えるが、これが大きな飛躍となった。

 

 

 

 

安藤百福氏は、チキンラーメンを開発するとき、五つの目標をもっていたという。



 屬泙真べたい」と思ってもらえるおいしさ。

調理と食事に手間と時間がかからないこと。

常温で長期間保存できること。

ぢ燭の人に腹いっぱいになってもらえる価格。

ケ卆古で安全であること。

(日清食品『インスタントラーメンまるごとガイドブック』より)
 

 


この五つは、どれもすぐれた商品に必要な要素であろう。

しかし、キチンラーメンがこの五つを満たしているとしても、そこにはひとつ欠けているものがあった。それは、<人間すべてに通用する普遍的形式>をもつことである。

チキンラーメンは、ドンブリひとつで作り、そのまま箸で食べられる。それだけでもそうとうな普遍性があった。しかし、ドンブリと箸がないと食べられないということはまだ不便な点でもあったし、世界的に通用する食べ方でもなかった。

中身ではなく、形式(容器・道具)に問題があったのだ。

それをカップとフォークでクリアしたのがカップヌードルである。これによってインスタントラーメンは、人間すべてに通用する普遍的食品として完成したのだ。
 

いまでは、インスタントラーメンは世界で年間1,000億食近くも食べられているという。

 

 

 


安藤百福氏は、

 

 

「食足世平(しょくそくせへい)ー食足りて世は平らか」

 

 

という言葉が好きだったという。「食は足りて当然であり、それが平和のもとだ」という考えであろう。

考えてみれば、外国語だってそうありたいものだ。英語ごときに多くの人がやたらと時間と労力をとられるのは馬鹿げている。
 


「語足世平(ごそくせへい) — 語り足りて世は平らか」

 

 

すなわち「英語のような共通語は、普通に努力すれば誰もができるようにしよう。そうして、お互い納得するまで、世界の人と語り尽くそう。それが平和のもとだ」。そういう考えを、知恵と工夫で現実のものにすべきなのだ。
 



 

 

 





(おわり)




 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバ・スタイルの塾を作りたい | 05:23 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
学説がビジネス的に試される時代 机上の議論は終わった おわり

そもそも、現代の英文法はどうあるべきなのか。

 


もともと、言語表現の対象とその認識はつねに具体的である。しかし具体的な言語表現が成立するには抽象的なルール(言語規範)にのっとっている必要がある。

そしてこの抽象的なルールは、つねに具体的な表現によって表現される。抽象的なルールを直接記したルールブックが人間の前にあらかじめ置かれているわけではない。

そこで、このルールブックをあえて作ろうとするのが文法の研究である。

料理にたとえれば、わかりやすいかもしれない。

料理は具材の扱い方を知っている人間によって作られたのだが、結果として見えるのは調理された具材だけである。

出来上がった具材の様子を分類することは、料理を知る出発点になるだろう。しかし、それだけで料理を作るルールがわかるだろうか。

料理のルールは個々の料理のなかにではなく、料理人の意識のなかにあるはずだ。文法学者は、料理(表現結果)を観察分類するだけでなく、料理人の意識(表現を生んだルール)のなかに入り込み、その内容を表現しなければならない。

 

 


英文法を体系化しようとする努力。それを支えている動機の一つは、それによって学習者の苦労を少しでも軽減したいという実践的な意図であろう。いわば、レシピを明らかにすることによって、誰もが普通の努力で一定の料理が作れるようにしたいということである。

 

現代の社会の中で、一体どうすれば、そうした実践的な意図は実現するのだろうか。


オグデンのベーシックイングシッシュが想定したように、小中高の学校教育の枠で新たな「仮説の体系」を検証・普及することは、旧仮説が制度的に確立しているため、大きな決断と長い時間と膨大な費用が必要であろう。

ザメンホフのエスペラントが期待したように、善意にもとづくボランティアベースの非営利的な方法で新しい言語体系を普及させることも、大きな困難があると思われる。

半世紀前にチョムスキーが成功したように、一人の魅力的な学問的「仮説」を大学教員レベルの専門家が大挙して検証するような光景も、しばらくは起こらないであろう。

日本の「英会話学校」は、上記のような学校教育やボランティアや学問とはちがう枠の存在であり、ビジネスベースのものであるが、真に革新的な「仮説の体系」をもっていないためにおのずから限界が見え、最近では市場が頭打ち状態になっている。

 

 

 


以上のことから、英文法の新しい体系を開発するには、次のような戦略が考えられる。

まず、誰かが仮説の体系をつくり、たとえば本として出版する。しかし、これだけでは何も起こらない。

教育行政が真価不明の新理論をすぐに採用することはありえないし、全国の学校でそれを教える体制もない。そして英語教育の専門家をひきつける魅力をもつ第二のチョムスキーは、おいそれとは現れないだろう。結果、たとえ本が多少売れたとしても、それ以上のことは起こらない。

そこで、その「仮説の体系」をもとにした商品をつくり、ビジネスラインで普及をはかる。ビジネスである以上、商品と商法が稚拙ならばどこかで失敗するだろう。それはこの「仮説の体系」にはさしたる価値がないことの証明とみなしてよい。

逆に、もしも商品と商法がすぐれていれば普及するであろう。普及すればするほど、新しい「仮説の体系」の価値が多くの人に理解され、欠点が修正される。そうなれば商品と商法がますます洗練され、購入者はさらに増える。

ここにポジティブなサイクルが生まれ、革新が進行する。

 

 



英文法ひとつをとっても、もはや学者の机上の作業でなにかが起こる時代は終わったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバ・スタイルの塾を作りたい | 04:52 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
学説がビジネス的に試される時代 机上の議論は終わった その1

安藤貞雄『現代英文法講義』(開拓社、2005年)

英文法を総合的にあつかった学術書としては、比較的新しいものに入ると思う。

ときどき参照しているが、説明が詳しく、例文に格調高いものが多いうえに、いまの文法論で何が議論されているかもわかる。

英文法研究の現状を総括した大作と高く評価したうえで、いくつか気になることを記しておきたい。

 


 


「はしがき」に、本書は「豊富な用例を…体系化した学術書」だという説明がある。v頁。

「用例を体系化した」という表現は、本書の基本的な立場を示している。言語事実(実際の用例)から出発して、それらを分類整理すること。それが文法学の役割だということであろう。

著者は「GB理論やミニマリスト・プログラムの視点」もとりいれようと試みたと述べているが、それでは「節操がない感じがある」という。vi頁。

つまり著者は、ここ数十年、日本の英語界を席巻した生成文法の超演繹的な手法に満足できず、「言語事実から帰納的に原理原則を導き出す」ことを基本と考えており、これを著者は「科学的」な「手順」と呼んでいる。vi頁。

私としては、著者が生成文法に距離を置くところには同感できても、用例を収集・整理することで英文法が「体系化」できたり「科学的」になるという発想には違和感がある。

「体系」とは「個々別々の認識を一定の原理に従って論理的に組織した知識の全体」(デジタル大辞泉)といった意味なので、そこにはひとつのまとまりを感じさせる原理や一貫性があるはずである。

しかし、本書がどういう原理による「体系」を提示しているのか、39章からなる目次を見ても、私には読み取れない。

 


 

「体系」ならば、たとえば英文法の知識の全体を論理的に組織した一枚の図が描けるはずである。一枚の図でなくても、著者の考える英語の全体像が本書のどこかに書かれていてしかるべきである。

おそらく、全体像に近いのは第2章「文型」あたりであろうと思われるが、そこには著者独自の8文型論が書かれているものの、8つの文型を貫く原理については言及がない。

ここにこの本の特徴があらわれている。「8つ」というところまではよく整理されているのだが、整理しただけで終わっている。「8つ」を貫く英語文型の根本原理は何かといった考察には踏み込もうとしない。

けっきょく著者のいう「体系化」とは、おそらく「網羅的」という意味ではないかと思う。

ひとつの言語の文法の全体を描こうとする以上、網羅(しようと)することは必要である。しかし網羅(しようと)したから「科学的」であるとは限らない。

雑多なものを雑多なままで集めるだけでなく、よく観察していくつかの種類に分別するのは、昆虫採集的な意味で「科学的」であるかもしれない。

しかし今日、対象を分別して並べてみせるだけで「科学」とは普通言わない。

そのような言語事実が発生するメカニズム、その言語事実を分類する原理や、分類のプロセスを明らかにする作業が必要である。本書にはそれがない。

 

 

 

本書は、たんに文法現象を紹介し記述するだけでなく、常に「なぜに?」という疑問に答えようとしたこと、すなわち「説明文法」たらんとしたことが「最大の特徴」だという。v頁。

しかし、読者の一人として私にはそれが実感できない。どこがたんなる「記述」ではなく「説明」になっているのかが見えないのである。

もちろん、「説明」らしい部分がないわけではない。

たとえば受動態の分類で、

 I was interested by what you told me. (動詞的受動態)

◆I am very interested in chess. (形容詞的受動態)

の二種類があるといい、

「形容詞[的受動態]の特徴はveryに修飾される点、決定的にはby以外の前置詞をとる点である。」

という。344頁。

なるほど、何かが「説明」されたようにも思える。しかし、正確にはいったい何を「説明」しているのだろうか。

ふたつの受動態の分類の「原理」なのだろうか。だとすれば、その「原理」はなんなのだろう。

それとも、ここに書かれているのはふたつの受動態の区別のテクニックの「説明」にすぎないのだろうか。

だとしたら、それは文法現象のたんなる「記述」とどれほど違うのだろうか。
 

 

 

 

 

 

 


 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバ・スタイルの塾を作りたい | 04:51 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
世界の料理の違いは、水の違い 中国料理・フランス料理・日本料理

在来作物を活かした料理を元に、広い視野で地域起こしに貢献している奥田政行さんの講演。

 

 

 

http://www.nhk.or.jp/radio/player/ondemand.html?p=1940_01_6405

 

 

 

色々な面で大変参考になる話だが、ここでは、料理の根本についての奥田さんの一言が面白かったので、メモしておく。

 

 

 

 

・中国料理 ... 海で獲れたものを乾かして広大な内陸に運ぶ過程で、表面にカビが生えたりしやすい。きれいな水が得られないこともある。そこで、油で揚げたり、蒸したりする技法が発達した。

 

 

・フランス料理 ... カルシウムの多い硬水の土地柄なので、素材の旨みが水に染み出しにくい。そこで、時間をかけて煮詰めたソースを別に作り、それを素材にかけるという方法が発達した。

 

 

・日本料理 ...  軟水の土地柄なので、素材の旨みが水に染み出しやすい。そこで、旨みを直接水に与えて、そのまま食べる方法が発達した。

 

 

 

 

どんな素材を使うにせよ、水を使わない料理は少ない。だから、水のあり方は料理の仕方に根本的な影響を与えるということだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 人類史どれどれ虫眼鏡 | 18:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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