ごきげんようチャンネル

"The United States as a country has interests, and those interests are not the interests we hear about on the campaign trail." Jeanne Zaino, Iona College
           
神様は動く神輿に乗っている 言語は揺れる音波に乗っている

「神宮」を名乗る神社が、いくつかある。橿原神宮、伊勢神宮、熱田神宮、明治神宮、鹿島神宮など。

 

そういう大きな神社では、白い砂利を敷いた広い庭に多くの神職達が居並び、長い時間をかけて儀式を行なっているのを見ることがある。一般の参拝者は、この庭には入れない。

 

正装した神職達が庭に正座し、いわゆる土下座スタイルで、敬意をもって何度も本殿の神に頭をさげる。本殿の前を横切るときも、上半身を曲げて神に敬意を表す。そして、榊などがささげられる。

 

こういう行事は、年間を通して何度も行われている。

 

 

 

そういう光景を見るとき、私が思うのは、<神様は人がつくる存在だ>ということである。

 

パントマイムで、手の平をペタペタと動かし、押してみたりして、そこに壁があるように見せる技があるが、あれに似ている。人の動きによって、そこに何かがあるように見えるのだ。

 

だが私は、神様などいない、と言いたいのではない。逆に、人が神の存在を繰り返し確認している限り、そこに神はいると言いたいのだ。

 

 

 

これは、言語と同じ原理である。古代ヘブライ語は、早くに語る人がいなくなり、長い間、日常生活では使われない死語であった。それが近代シオニズム運動のなかで復活し、今ではイスラエルの国語になっている。ある言語を人が語るとき、その言語は客観的に存在することになる。

 

神も言語も、<どこにあるか>と聞かれたら、一瞬、答えに困るかもしれない。それは、人間どうしの関係すなわち社会において、人が共有する観念として存在するのである。ただ、神の観念は、神社や神職や儀式や榊といった物質的なものよらなければ、支えることができない。言語による観念は、人の身体がつくる音波や描線という物質的なもので表現され、社会的に共有されなければ死滅する。

 

社会の共同観念は、それを表す物質的なものをつくり続ける限り、客観的に実在する。もし物質的なものを誰もつくらなくなれば、共同観念は主観的にも客観的にも滅失する。アンデス文明の神々は、人々が神殿更新や祭礼儀式を停止した瞬間に、存在しなくなったのである。

 

 

 

 

人々が神輿を担いでいる限り、そこに神はいる。人々がその言語を話している限り、その言語は実在する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | イエスの虚像 | 03:34 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
アメリカ大統領は、アメリカ国家ではない 当然だが忘れがちな視点

先ごろのトランプのアフガニスタン新政策に関する声明について、アルジャジーラが三人の識者を招いて討論会をやっていた。

 

 

 

http://www.aljazeera.com/programmes/insidestory/2017/08/trump-full-term-170821185240336.html

 

 

 

トランプのアドバイザーだった人と、トランプに非常に批判的な人。そして三人目は大学の研究者で、Jeanne Zaino という人だった。Iona College で政治学、国際学を担当しているという。

 

この人の発言は、目前の事実を追うだけでなく、視点がもっと遠くまで届いている感じがした。

 

たとえば最近、側近のバノン氏がホワイトハウスを去ったことについて、Zaino さんは、トランプの政治スタイルからいって、近くにいないほうが大統領に影響を与えることさえある。マスコミはこうした個々の人事のことをあまり大げさに扱わない方が良い、とクールにコメント。確かに、マスコミは目前の動きの意味を伝えようとするあまり、実際以上に事件性を持たせようとすることがある。

 

もうひとつ、彼女の発言で感心したのは、「大統領と合衆国は別物」という直球の指摘である。アメリカ合衆国は、「大統領」と呼ばれる人が表現したり約束したりするのとは別のレベルの存在である。

 

誰が大統領になろうと、合衆国には合衆国の、独自の利害、独自の制度、独自の経緯があり、個々の大統領がそれを無視することはできない。トランプもまた、選挙戦でなにを言おうが、それとは別に厳然と存在するアメリカ合衆国の利害・制度・経緯から自由ではありえない。

 

政治の真の問題は、アメリカ経済をどうするか、社会保障をどうするか、人種問題をどうするか、アフガニスタンへの派兵をどうするか、といったリアルな問題への対処が、現実にどうなっているかである。トランプの言動や、彼の政権内部について語っているだけでは、真の政治論にならない、と。

 

これは正論である。大統領をはじめとする人たちが、リアルな問題にひとつひとつ対処していく以外に、「合衆国」のあり方自体を変える方法はないのだから。

 

 

 

 

...

 

 

 

 

以下、Jeanne Zainoさんの発言から。

 

 

"What we see with, quite frankly, every presidency is ... Presidents come in,  they get into the office and the real governing powers at work in the United States take over.

 

And now we've seen a President Trump who has bombed in Syria, we've seen now a President Trump who is likely tonight to call for increased troop levels in Afghanistan,  and he will blame that on the war on terrorism when in fact the US has funded and been perceived helping those terrorists in the past in Afghanistan and elsewhere in that part of the world.

 

And so, you know ... I think that Presidents as individuals come in with ideas of isolationism or whatever it is, the United States as a country has interests, and those interests are not the interests we hear about when Presidents come out to speak, nor the interests, quite frankly, we hear about on the campaign trail."

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 史的唯物論から史的連関論へ | 22:39 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
英語、数学、国語… 学校の教科は科学から見離されている

 

学校の科目としての英語、とくにその文法は、言語の科学から取り残された<耕作放棄地>のようになっている。中高の英語教師は学校英文法以外を知らず、大学教員の多くは、学校英文法の改善に関心をもたない。

 

 

どうやら、数学も同じらしい。たとえば、次のような記述がある。

 

 

「二次元もしくは三次元のユークリッド幾何学は、太古より数学的な思想の根源を養ってきたものだが、今日では、数少ない専門家しか研究しないもので、ないがしろにされている。」(ジェイ・カプラフ(萩原一郎ほか訳)『デザインサイエンス百科事典』朝倉書店、2011年、ii頁)

 

 

この文の筆者は、東京工業大学教授の萩原一郎氏。幾何学だけでなく、おしなべて中学高校でやっている数学は、大学での主たる研究対象ではなくなって久しいのだろう。大学の数学教員は、もはや中学高校の数学の事項を研究対象にしていない。だから、その改善に強い関心をもったり、そのために時間を費やすことは少ない。

 

 

同じことは、国語にも言えそうだ。

 

国文学や国語学関係の大学の教員は、国語の入試問題を作ることはあっても、中高生の現代日本語の読解力の改善を自分の仕事にするものではない。

 

 

もとより、中高の英数国の教員は、科目の内容を根本的に改革したり、教授方法を根本的に改善できる立場にない。その立場にあるのは大学の教員だろうと思われるが、多くの大学の教員は、中高の教科内容の改善を仕事としていない。そして、中高でやっている事項は、専門分野としては時代遅れであることが多いから、それを自分の研究対象にしている大学の教員は限られる。

 

教科としての英数国の教授法を専門にしている大学教員もいるが、その場合、「何を学習すべきか」というより、既存の教科書や学習指導要領の事項を「いかに学習させるか」に焦点をおいているように見える。もちろん、<いかに>という教授法・学習法も科学の対象になりうる。ただ、<なにを>という、より根本的なところにまで目を向け、改革を提唱する大学教員は少ないのが現状であろう。

 

 

こうして、中高の学習内容は、科学の<耕作放棄地>として、打ち捨てられるほかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバ・スタイルの塾を作りたい | 05:14 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
世界は、実体/属性の連関運動である

<この世界はすべて物質だ>というのは、間違っていない。それは一面で正しい。

 

だが、物質という実体は、物性という属性をもっている。生物の生体は、物質/物性を基礎として、習性という属性をもっている。人の身体は、物質/物性および生体/習性を基礎として、精神という属性をもっている。

 

この世界の実体は、物質>生体>身体であるが、実体は、物性>習性>精神という属性ももっている。

 

実体なき属性はないが、属性なき実体もない。

 

その意味では、<この世界はすべて物質だ>とだけいうのは、誤解を招きやすい。

 

科学は実体を研究しているが、それは実践的には、実体の属性の研究である。科学は、属性の認識を新たにする作業を通して、実体の概念を深化させようとする。人間が直接認識できるのは、実体そのものではなく、実体の属性(動態・状態と、その程度・様態)だからである。

 

物質・生体・身体という実体は、人間にとって、物性・習性・精神という属性として現れる。属性は実体なくして存在しえないが、実体は属性として現れざるをえない。実体/属性という二層態が、互いに連関しあうこと。これがこの世界の根本的なあり方である。自然しかり、社会しかり、人間しかり、商品しかり、貨幣しかり、行動しかり、文字しかり、音声しかり。

 

この見方(連関の論理)によって、自然、社会、思考の運動を、同じ原理、一つの原理で見ることができる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 21:26 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ただ名画、名演者たれ 岡倉天心『茶の本』から

岡倉天心の The Book of Tea(1906年。邦訳名『茶の本』)に、「琴ならし」という道教の説話が紹介してある。

 

洛陽の郊外・竜門に桐の大木があり、これを切って琴にしたところ、誰もうまく鳴らすことができない。

 

そこに伯牙(はくが)という名人が現れて、見事に弾きこなした。

 

王はたいへん喜び、その秘訣を聞くと、伯牙は、

 

 

「他の人々は自分のことばかり歌おうとするから失敗したのです。私は楽想を琴にまかせてしまっただけです。」

 

 

と答えた。

 

そういう説話である。

 

 

 

 

天心の非凡は、このあとにある。

 

 

 

「真の芸術は伯牙であり、われわれは竜門の琴である」64頁。

 

 

 

すぐれた芸術作品は、名人であり名医である。名人・名医の前に立つと、われわれの身体は素直になり、心の弦が鳴り出す。名人・名医は、ただ相手の性向にあわせて自在に楽音を奏でる。

 

美術館とは、来場者が名人の手によってそれぞれの楽音を奏でるコンサートホールであり、名医が集まった心のクリニックなのだ。

 

次は、私が本書でもっとも好きな部分である。

 

 

 

 

「[名品に「触れられ」たとき、われわれの心には] 恐怖におさえられていた希望や、認める勇気のなかった憧憬が、栄えばえと現れて来る。わが心は画家の絵の具を塗る画布である。

 

 

Hopes stifled by fear, yearnings that we dare not recognise, stand forth in new glory. Our mind is the canvas on which the artists lay their colour. 」

 

 

(訳文は岩波文庫版、64-65頁より)

 

 

 

 

 

人に接する時は、伯牙のように、相手の心の「琴線を鳴らす」ような態度で接するのが良い。私たちは、お互い名画のように、名演者のように、自分のことをし、それによって相手を尊重すれば良いのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 名著のアフォーダンス | 09:54 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ローマ字とアルファベット 似て非なるものからの出発

多くの日本人が、日本語をローマ字でも書ける。これは、明治時代にひらかなとアルファベットを対応させる工夫が行われ、それを学校で教えたからである。結果として、ローマ字とアルファベットは、同じ文字を使っている。

 

そのため、次のような誤解が生まれやすくなった。

 

 

 

<英語のアルファベットを、ローマ字風つまり日本語風に読めば、英語になる>

 

 

 

さすがに最近は、本気でこう思っている人は少ないだろう。しかし、アルファベットを見ながら、ついローマ字読みしてしまう癖から抜け出せない人は、とても多い。

 

たとえば、elite は、日本語で「エリート」に当たる語だが、これを「エリート」と発音したら、ローマ字読みになってしまう。在米20年の日本人が、 normal の自分の発音が通じないことを嘆いていたが、これもおそらく、「ノーマル」とローマ字読みするからだろう。

 

こうして、われわれに欠けているのは何かが見えてくる。それは、<アルファベットをローマ字風に読む>のをやめて、<アルファベットを英語読みする>技法である。

 

 

英語学習法としては、フォニックスがこれに近い。ただ、フォニックスは英語で育った子どもがアルファベットのつづりに馴染むためにできた方法なので、そもそも英語の発音ができない人にとっては完全な方法ではない。

 

 

 

けっきょく、二つのことが必要であることになる。

 

 

 

英語を発音する身体要領の習得

 

アルファベットを英語読みするルールの習得

 

 

 

´△領省に役立つのが、発音記号である。カナを使った独自の発音記号を工夫することも考えられるが、内外の辞書で発音記号が採用されていることを考えると、やはり発音記号を活用するのが賢明である。

 

 

 

ローマ字とアルファベットが同じ文字であることからくる誤解は、英語の習得の障害になりやすい。しかし、アルファベットは、英語習得の強い味方でもある。上記の´△あれば、英語は自分でどんどん上達できるからである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 09:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「毛沢東」は中国語か? 発音が決定的である理由

外国語をやりたければ、発音は重要だ。「そうだよね」という人は多い。

 

だが、じっさいに外国語の発音を身につけるのは難しいし、発音が重要である理由をきちんと説明するのも、案外むずかしい。

 

そのせいか、

 


「発音はだいたいでいい」

「発音は最後でいい」

 


という発想もけっこう広まっている。

 

こういう発想が根強く残るひとつの原因は、文字があるからである。

 


たとえば、中国語と日本語なら、漢字という共通の文字がある。短くてわかりやすい例として、人名で考えてみると、

 

 


「毛沢東を、『もうたくとう』と発音しても、それで中国語になる」

 

 


と言ったら、そのおかしさに、誰もが気づくだろう。

字は同じでも、中国語をやるというなら中国語の発音で読まなければ中国語にはならない。中国語の発音ができてはじめて、話し手も聞き手も中国語が体験できるのだ。



英語の場合もこれと同じである。

 

 

 

「McDonald を『マクドナルド』と発音しても、それで英語になる」

 

 

 

もしそう思っている人がいるとしたら、それは McDonald という文字をローマ字風に読めば英語になるという思い込みがあるからかもしれない。じっさい、日本人のあいだでは「マクドナルド」で通じる。これは立派な日本語である。

 

 

最近、kaki(柿)とか adzuki(小豆)が、フランス語や英語として認められるようになっているという。これも、アルファベットという文字が媒介になって、彼らの言葉として発音しているから、フランス語とか英語として理解できるのだ。

 

 

 

 

英語のつづりを見て、それを日本語風に読んだり自己流に読んでいたのでは、英語にはならない。英語の発音ができてはじめて、話し手も聞き手も英語が体験できるのだ。

日本語風や自己流で通じたとしたら、それは聞き取った相手が優れているからであって、自分の実力ではない。









 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 08:14 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
教育の変革は、カーンアカデミーに学べ 

サルマン・カーンSalman Khan というインド系アメリカ人が三十代ではじめた、「カーン・アカデミー the Khan Academy」というオンラインチュータリングのサイトがある。

 

 

http://www.khanacademy.org/

 

 

 

10分程度の短いレッスンを多数集めたもので、その多くはカーン氏がペンタブレットに板書しながら早口で解説している。

 

初歩の算数から高度な数学、物理学、生物学、経済学、美術史まで、内容は多彩。生徒は自分の視聴録やテスト結果を記録したり、メダルを獲得できるようにもなっている。すべてが無料と宣言している。

 

カーン・アカデミーは、本人が驚くほどの反響を世界中で呼んでいる。いわゆる「ソーシャル・イノベーション」の好例といえる。

 

 

 

 

 

 

彼がTEDの壇上で、自分の発想を10分で説明したプレゼンがある。こちらは日本語訳もある。

 

 

https://www.ted.com/talks/salman_khan_let_s_use_video_to_reinvent_education/discussion

 

 

<いっせい授業・いっせい進級>という近代教育の画一的システムが、いかに子ども一人一人の才能をつぶしてしまうか。

 

インターネットのビデオを活用しよう。幾何であれ微分であれ、人間が開発してきた知恵を誰もが身につけること。それは、工夫次第で可能なのだ。画一的な教育システムから脱皮すれば、人類全体のレベルがぐんと上がるだろう。

 

 

そう主張するこのプレゼンには、数百のコメントが寄せられており、なかには英語圏の教員がカーンの主張に共感して書き込んだものもある。それを読むと、学校のクラスの様子や問題点が、日本にそっくりであることがわかる。きっとアジアの他の国も、似た問題を抱えているのだろう。ヨーロッパも例外ではないはずだ。

 

ということは、どこであれ一つの国が教育改革に成功すれば、その影響はほとんど全世界に及ぶ可能性があるということである。

 

 

 

 

 

 

カーンがライス大学の卒業式で行った講演は、他人の人生を生きるのではなく、自分の道を追求しようと呼びかけている。

 

 

http://www.khanacademy.org/new-and-noteworthy/v/salman-khan-at-rice-university-s-2012-commencement

 

 

 

ハイライトは、こうだ。

 

 

 

“Some come from environments where most of their lives they have had to hide their passions, their gifts for fear of looking different.

 

But they come here suspecting that this might be a place where they can spread their wings, where they can explore the world.”

 

 

 

ここにある言葉を使えば、カーンのメッセージは、次のようなことになるだろう。

 

 

 

Don’t hide your gifts.  Show your passions by looking different.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバ・スタイルの塾を作りたい | 22:23 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
発音が、外国語の見えないバリアになっている

先日、人に聞いた話。

 

 

 

パリに行ったら、露店に柿があった。見ると、「kaki」と書いてある。

「カキは日本語ですよね」

 

そう売り子に言ったら、けげんな顔をして、

「kakiはフランス語だよ」

と答えた。
 

 



もう一つ、似た話を読んだ。

 

 

 

和菓子の老舗「虎屋」がパリとニューヨークに支店を出したときのこと。

 

和菓子は小豆(あずき)の餡(あん)を材料に使う。ところが、欧米では豆類に高級なイメージがなく、これをお菓子に使うことに抵抗があった。

そこで、店ではこれを固有名詞風に adzuki と呼び、とにかく客に食べてもらった。bean(豆)の一種であることは、そのあと口頭で説明した。

すると和菓子は次第に受け入れられていったという。(川島蓉子『虎屋ブランド物語』東洋経済新報社、41頁)
 


柿がkakiと呼ばれて受け入れられたのと同様、小豆はそのままadzukiと呼ぶことで違和感がなくなった。

 

 

 

 

 

柳父章『翻訳語成立事情』は、近代日本で英語のrightやsocietyのような基本語が「権利」「社会」という耳慣れない漢字語に翻訳され、この新語が流布した心理を分析している。

それによると、「権利」「社会」は、当時の人には意味(中身)がよくわからなかった。そして、わからないがゆえに深遠な感じがして、人々に受け入れられたのだという。

これを柳父氏は「カセット効果」と呼んでいる。ここでカセットcassetteとは、テープではなくて「小さな宝石箱」の意である。

外見が見慣れず中身も見えないが、だからこそいいものが入っていると思える。この「わからなさ」のゆえに、近代の新語を日本人はすすんで受け入れたのだ、と。(柳父章『翻訳語成立事情』岩波新書、1982年、36、83、86、116、189頁)

聞き慣れない単語のほうが、かえって受け入れられる。kakiや adzuki にも、そういう心理が働いたのだろう。

 

 

 

 

この話で、隠れた役割を果たしているのが、発音の問題である。

 

例えば、bananaを日本語風に発音した「バナナ」は、もはや英語ではない。その証拠に、日本語風に「バナナ」というとき、英語のように a や the をつけようとする人は、滅多にいないだろう。パリのkaki、ニューヨークのadzukiは、もはやフランス語であり、英語である。それは、フランス語、英語として聞こえる発音で言っているからである。

 

 

発音が変わることで、言語が変わる。言語の違いとは、発音の違いが第一である。

 

 

「発音には、そうこだわらなくていい」
「発音は最後でいい」

 


という人は、おどろくほど多い。

たしかに発音が完璧でなければ話してはいけないというものではない。しかし、だからといって「最後でいい」「こだわらなくていい」ということになるだろうか。スポーツでも芸事でも学問でも、基本的なことについて、「最後でいい」「こだわらなくていい」という人がいるだろうか。

英語もどきの日本語の音を、英語と思いこんできたとすれば、迂闊な話である。発音が日本語であれば、それはもはや日本語の一部になっているのだ。

 

 

発音軽視は、日本の英語教育の徒労と失敗の、最初にして最大の原因かもしれないと、私は思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 14:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
和菓子は水を売れ、洋菓子は空気を売れ

和菓子の「たねや」社長・山本徳次氏が、おもしろい洞察を書いている。
 

 


洋菓子の焼き物はほとんどが空気。洋菓子がうまいのは、空気を演出しているとき。

他方、和菓子は、6割から8割が水。魚と同じで、みずみずしくて保水作用があることが大切。水のうまさが和菓子の決め手。

洋菓子は空気を売れ、和菓子は水を売れ。

 

 

(山本徳次『商いはたねやに訊け』毎日新聞社、2003年、43頁)
 

 

 


まるで名僧「空海」の名前のように、和菓子と洋菓子はこの世の二大要素 —空気と水— のうまさを凝縮しているわけだ。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 歴史とは何か | 13:35 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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