ごきげんようチャンネル



春ごとの花に心をなぐさめて 六十(むそぢ)あまりの年を経にける


西行

仏像は宇宙服である

われわれはいずれ宇宙に帰る。ならば宇宙服が必要だ。

 

どんな宇宙服か。

 

それは仏像だ。

 

われわれは仏像を着て、宇宙に帰るのだ。

 

どの服がいいだろう。

 

私だったら、大日如来が好き。いや、エネルギーの塊になって、不動明王を着ていこうか。

 

 

 

 

 

 

 

「大日如来 運慶」の画像検索結果

 

http://blog.livedoor.jp/okinawa34nn/archives/50882004.html

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
死は物語である

宗教は、死を物語にする。

 

宗祖、高僧、妙好人しかり。経典の比喩しかり、浄土しかり。

 

死に方がわかれば、生き方もわかる。

 

歴史も生死も、物語にすると納得できる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
死の定義は「不帰」

死の定義は「不帰」(ふき)だという話を聞いて、ハタとひざを打った。

 

不帰とは「もう生き返らない」こと。「生」の逆を言っただけなのだが、これほど正確な「死」の定義もなさそうだ。

 

呼吸・脈拍・瞳孔の三点セットとか脳死とかが話題になるが、それは死の定義ではなく、「不帰」の判定方法にすぎない。

 

物質的構造としての肉体は「不帰」となる。そのとき、概念としての自分が「不帰」であるかどうか。そうなのだ。肉体の死のほかに、概念としての死があるのだ。

 

誰も死を経験できないという。それは、感覚としての死を生きたまま体験できないということであって、概念としての死は考えてみることができる。

 

死が概念としてきちんと把握できれば、感情的に死を受け入れる手助けにもなる。

 

死んだらすべて終わりで、あとはなにもないという人がいるが、これも概念の持ち方で決着をつけているという意味で、永遠の生を信じる人と同種のやり方である。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 09:10 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
トランスは常識である

あるものが、規範にもとづいて、なにかにはたらきかけ、なにかが生まれる。すると、はたらきかけたもの自身がその影響を受けとる。

 

この当然のプロセスを、主体・客体・転体といった実体概念や、投射・転態・反射、そして規範といった関係概念で定式化した。それがトランスの論理である。

 

それなら、常識を仰々しく言っただけではないかと思う人もあろう。

 

その通り。トランスは、常識を述べている。

 

常識は、当人たちがその規範性を客観的に意識できないことも多い。

 

トランスは常識だからこそ、いちどは確認してみたらどうか、ということである。

 

そこから、万有引力の法則のように複雑な現象まで説明できるなら、トランスという概念には意味があることになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
物品(土台)と組織(上部構造) なぜ、どこがちがうか

政治を学問的に理解する難しさは、経済学と比べると浮き彫りになる。

 

経済学では、人間と自然の関係が基礎になり、生産された「物」として現象するものを直接、対象にできるから、数学的な処理に適する内容も多い。また、経済的な事象は、権力による規制・干渉なしで展開しうる。

 

ところが政治学は、人間が内面にもつ規範とそれにもとづく行動が対象となるから、観念が直接の問題となる。また、政治的な事象は、条件次第で政治的事象へと転化しうる社会的事象や社会的権力のあり方にまで対象を拡大しなければ理解できない。つまり政治は、独立した事象として扱いにくい性質のものである。

 

政治学が経済学よりも古い学問であるにもかかわらず、これまで「ごくごく凡庸」な理論しか生まれなかった原因は、政治のこうした扱いにくさにある(滝村隆一『国家論大綱』第一巻上、54-57頁)。

 

経済的事象は「他の社会的事象と実体的に明瞭に区別される、独立的な事象」(同上書、56頁)であって、国家権力とは理論的に別次元のものとして扱えるという滝村隆一の指摘は、重要である。

 

ここに、資本と国家の区別と統一の根本的必要性が示唆されている。

 

 

以上のことを拡張していうと、政治学だけでなく、これまでの人文社会科学は、人間の観念を扱うための理論と方法を知らなかったということである。

 

このことの影響は、心理学や言語学の現状に現れているし、歴史学でもほぼ同様であろう。哲学も、まさに人間の観念を対象にしながら、確実な基礎がつかめず手探りしているうちに、いまや無用の長物化しつつある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
人間は宇宙のミニチュアである

人間の身体は、宇宙でできた元素を集めてできているという。

 

地球の鉄とか金といった鉱物も、宇宙でできた元素が埋まったものらしい。

 

それなら、地球は宇宙の凝縮体である。

 

そして、地球からいろいろなものをいただいて生きている人間ひとりひとりが、歩く宇宙である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
神社仏閣は、宇宙のご機嫌をとるためのおもてなしサロン

神仏は、人間のほうをふりむく理由を持たない。

 

そこで人間は、宇宙のなかから人間に優しい神仏を探しだし、ご機嫌をとるためのサロンを常設するようになった。

 

それが神社仏閣である。

 

 

宇宙の運行の真実を人間社会に適用し、古代の人間(作者をふくむ)にもわかるように比喩的に述べたのが、大乗仏教の経典である。

 

いいかえると、古代の創作である大乗経典は、観念世界の構築によって現実を超越するためのファンタジーである。

 

生きた人間であったブッダを宇宙の運行の真理そのものとする超越的ロジックは、ファンタジーを創造するうえで便利であった。

 

 

神社仏閣は、人間が神仏をもてなし、現実を超越するための場として、今も生きている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「物狂い」が限界を突破する

音楽の演奏家には、二種類あるようだ。

 

ひとつは、正確に、きれいに演奏できる人。これは秀才型。

 

もうひとつは、物狂い。こちらは天才型。

 

「物狂い」とは、正気でない人、神がかった人(大辞泉)。

 

 

楽器を改良したり、高度なテクニックをこなすのは、秀才型。秀才によってテクニックの最前線が広がっていく。

 

他にないリズム感や音質をもっているのは、天才型。こちらは、とりつかれたように限界を突破してしまう。

 

 

秀才がいないと、音楽に堅固な基礎が与えられないし、新技術も開発できない。だが、秀才だけだと面白くない。

 

天才にも何種類かあると思うが、これからどんな天才が現れるかは予測できない。予測できないから天才なのだ。

 

 

誰もが天才を発揮できれば、素晴らしい。

 

それには、秀才になる訓練をしつつ、天才をめざすことだ。

 

地味な訓練をしながら、物狂いになってしまうことだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
統合とは分業することである

統合するとは、分業するということである。

 

分業ということは、関係しあうということ。

 

トランスは、分業しているから統合している。トランスの要素は、すべて分業しあう関係にある。

 

社会の変化も、分業の仕方を編成替えして、統合しなおすということである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
権力とは、成員を選定し、その行動規範を決定して社会を統合する指導力

権力とは何か、ということについて、政治学の滝村隆一氏は、

 

「規範にもとづく支配力」(『国家論大綱』第一巻上、302頁)

 

だと規定している。機能や制度や人格のレベルで権力を理解せず、観念的な規範のレベルでとらえたところが優れている。権力は、本質的には観念的な事象だからである。

 

だが、もともと規範とは、観念的支配力として作動する観念である。権力とは何かという問いにたいする答えとして、「規範にもとづいた観念的な支配力」だというのは、権力の特性を十分とらえていないという印象が残る。

 

権力の定義は、むしろ

 

「組織成員を選別し、成員の行動規範を決定して、社会を統合する指導力」 

 

というほうが明確ではないかと思う。

 

権力は、成員の離脱や加入を判断する権限を握っている。国家権力とほかの権力とのちがいは、その組織である国家からの離脱や他の国家への加入が、個人の自由意志ではそうとうに困難であり、ときに個人の意志をまったく認めないところにある。

 

また、権力は個々の成員が抱く規範よりも上位の規範である。すなわち、一人一人がどんな規範をもっていようが、否応なしに行動させる<規範の規範>(社則、法律、方針、目標など)を決定し、それによって成員の行動を指導し組織できる力である。指導力を裏づける手段として、権力は賞罰権ももっている。

 

ここでのポイントは、権力が作動する組織では、直接には行動が問題にされるということである。私的な会話などは、個人の精神レベルの事象(意識形態)である。むろん、こうした私的な意識形態を、組織の指導力にかかわる行動の一種と権力がとらえることはありうる。

 

成員の行動規範の決定に、なるだけ多くの成員を形式的にせよ参加させて「手続き的正義」を確保し、権力の指導力を増す。これが会議や選挙などの民主主義的手段の意味である。

 

 

 

歴史は権力現象に満ちているから、権力の概念はトランス・ヒストリーにとっても根幹的である。

 

権力とはなにか。その概念内容は、こうしたところがおさえどころのように思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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