ごきげんようチャンネル

"Life is too short to wake up with regrets." author unknown
           

世界は、実体/属性の連関運動である

大胆に言えば、<この世界はすべて物質だ>というのは、間違っていない。それは一面で正しい。

 

だが、物質という実体は、物性という属性をもっている。生物の生体は、物質/物性を基礎として、習性という属性をもっている。人という身体は、物質/物性および生体/習性を基礎として、精神という属性をもっている。

 

この世界の実体は、物質>生体>身体であるが、実体は物性>習性>精神という属性ももっている。

 

実体なき属性はないが、属性なき実体もない。

 

その意味では、<この世界はすべて物質だ>とだけいうのは片手落ちで、誤解を招きやすい。

 

実体/属性という、矛盾を含んだ二層態どうしの連関が、この世界の根本的なあり方である。自然しかり、社会しかり、人間しかり、商品しかり、貨幣しかり、行動しかり、文字しかり、音声しかり。

 

この見方によって、自然、社会、思考の運動を、同じ原理、一つの原理で見ることができる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 21:26 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ただ名画、名演者たれ 岡倉天心『茶の本』から

岡倉天心の The Book of Tea(1906年。邦訳名『茶の本』)に、「琴ならし」という道教の説話が紹介してある。

 

洛陽の郊外・竜門に桐の大木があり、これを切って琴にしたところ、誰もうまく鳴らすことができない。

 

そこに伯牙(はくが)という名人が現れて、見事に弾きこなした。

 

王はたいへん喜び、その秘訣を聞くと、伯牙は、

 

 

「他の人々は自分のことばかり歌おうとするから失敗したのです。私は楽想を琴にまかせてしまっただけです。」

 

 

と答えた。

 

そういう説話である。

 

 

 

 

天心の非凡は、このあとにある。

 

 

 

「真の芸術は伯牙であり、われわれは竜門の琴である」64頁。

 

 

 

すぐれた芸術作品は、名人であり名医である。名人・名医の前に立つと、われわれの身体は素直になり、心の弦が鳴り出す。名人・名医は、ただ相手の性向にあわせて自在に楽音を奏でる。

 

美術館とは、来場者が名人の手によってそれぞれの楽音を奏でるコンサートホールであり、名医が集まった心のクリニックなのだ。

 

次は、私が本書でもっとも好きな部分である。

 

 

 

 

「[名品に「触れられ」たとき、われわれの心には] 恐怖におさえられていた希望や、認める勇気のなかった憧憬が、栄えばえと現れて来る。わが心は画家の絵の具を塗る画布である。

 

 

Hopes stifled by fear, yearnings that we dare not recognise, stand forth in new glory. Our mind is the canvas on which the artists lay their colour. 」

 

 

(訳文は岩波文庫版、64-65頁より)

 

 

 

 

 

人に接する時は、相手の心の「琴線を鳴らす」ような態度で接するのが良い。私たちは、お互い名画のように、名演者のように、自分のことをしていればそれで良いのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 名著のアフォーダンス | 09:54 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ローマ字とアルファベット 似て非なるものからの出発

多くの日本人が、日本語をローマ字でも書ける。これは、明治時代にひらかなとアルファベットを対応させる工夫が行われ、それを学校で教えたからである。結果として、ローマ字とアルファベットは、同じ文字を使っている。

 

そのため、次のような誤解が生まれやすくなった。

 

 

 

<英語のアルファベットを、ローマ字風つまり日本語風に読めば、英語になる>

 

 

 

さすがに最近は、本気でこう思っている人は減っているだろう。だからこそ、われわれに欠けているのは何かが見えてくる。それは、<アルファベットをローマ字風に読む>のをやめて、<アルファベットを英語読みする>方法である。

 

 

英語学習法としては、フォニックスがこれに近い。ただ、フォニックスは英語で育った子どもがアルファベットのつづりに馴染むためにできた方法なので、そもそも英語の発音ができない人にとっては完全な方法ではない。

 

 

 

けっきょく、二つのことが必要であることになる。

 

 

 

英語を発音する身体要領の習得

 

アルファベットを英語読みするルールの習得

 

 

 

´△領省に役立つのが、発音記号である。カナを使った独自の発音記号を工夫することも考えられるが、内外の辞書で発音記号が採用されていることを考えると、やはり発音記号を活用するのが賢明である。

 

 

 

ローマ字とアルファベットが同じ文字であることからくる誤解は、英語の習得の障害になりやすい。しかし、アルファベットは、英語習得の強い味方でもある。上記の´△あれば、英語は自分でどんどん上達できるからである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 09:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「毛沢東」は中国語か? 発音が決定的である理由

外国語をやりたければ、発音は重要だ。「そうだよね」という人は多い。

 

だが、じっさいに外国語の発音を身につけるのは難しいし、発音が重要である理由をきちんと説明するのも、案外むずかしい。

 

そのせいか、

 


「発音はだいたいでいい」

「発音は最後でいい」

 


という発想もけっこう広まっている。

 

こういう発想が根強く残るひとつの原因は、文字があるからである。

 


たとえば、中国語と日本語なら、漢字という共通の文字がある。短くてわかりやすい例として、人名で考えてみると、

 

 


「毛沢東を、『もうたくとう』と発音しても、それで中国語になる」

 

 


と言ったら、そのおかしさに、誰もが気づくだろう。

字は同じでも、中国語をやるというなら中国語の発音で読まなければ中国語にはならない。中国語の発音ができてはじめて、話し手も聞き手も中国語が体験できるのだ。



英語の場合もこれと同じである。

 

 

 

「McDonald を『マクドナルド』と発音しても、それで英語になる」

 

 

 

もしそう思っている人がいるとしたら、それは McDonald という文字をローマ字風に読めば英語になるという思い込みがあるからかもしれない。じっさい、日本人のあいだでは「マクドナルド」で通じる。これは立派な日本語である。

 

 

最近、kaki(柿)とか adzuki(小豆)が、フランス語や英語として認められるようになっているという。これも、アルファベットという文字が媒介になって、彼らの言葉として発音しているから、フランス語とか英語として理解できるのだ。

 

 

 

 

英語のつづりを見て、それを日本語風に読んだり自己流に読んでいたのでは、英語にはならない。英語の発音ができてはじめて、話し手も聞き手も英語が体験できるのだ。

日本語風や自己流で通じたとしたら、それは聞き取った相手が優れているからであって、自分の実力ではない。









 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 08:14 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
教育の変革は、カーンアカデミーに学べ 

サルマン・カーンSalman Khan というインド系アメリカ人が三十代ではじめた、「カーン・アカデミー the Khan Academy」というオンラインチュータリングのサイトがある。

 

 

http://www.khanacademy.org/

 

 

 

10分程度の短いレッスンを多数集めたもので、その多くはカーン氏がペンタブレットに板書しながら早口で解説している。

 

初歩の算数から高度な数学、物理学、生物学、経済学、美術史まで、内容は多彩。生徒は自分の視聴録やテスト結果を記録したり、メダルを獲得できるようにもなっている。すべてが無料と宣言している。

 

カーン・アカデミーは、本人が驚くほどの反響を世界中で呼んでいる。いわゆる「ソーシャル・イノベーション」の好例といえる。

 

 

 

 

 

 

彼がTEDの壇上で、自分の発想を10分で説明したプレゼンがある。こちらは日本語訳もある。

 

 

https://www.ted.com/talks/salman_khan_let_s_use_video_to_reinvent_education/discussion

 

 

<いっせい授業・いっせい進級>という近代教育の画一的システムが、いかに子ども一人一人の才能をつぶしてしまうか。

 

インターネットのビデオを活用しよう。幾何であれ微分であれ、人間が開発してきた知恵を誰もが身につけること。それは、工夫次第で可能なのだ。画一的な教育システムから脱皮すれば、人類全体のレベルがぐんと上がるだろう。

 

 

そう主張するこのプレゼンには、数百のコメントが寄せられており、なかには英語圏の教員がカーンの主張に共感して書き込んだものもある。それを読むと、学校のクラスの様子や問題点が、日本にそっくりであることがわかる。きっとアジアの他の国も、似た問題を抱えているのだろう。ヨーロッパも例外ではないはずだ。

 

ということは、どこであれ一つの国が教育改革に成功すれば、その影響はほとんど全世界に及ぶ可能性があるということである。

 

 

 

 

 

 

カーンがライス大学の卒業式で行った講演は、他人の人生を生きるのではなく、自分の道を追求しようと呼びかけている。

 

 

http://www.khanacademy.org/new-and-noteworthy/v/salman-khan-at-rice-university-s-2012-commencement

 

 

 

ハイライトは、こうだ。

 

 

 

“Some come from environments where most of their lives they have had to hide their passions, their gifts for fear of looking different.

 

But they come here suspecting that this might be a place where they can spread their wings, where they can explore the world.”

 

 

 

ここにある言葉を使えば、カーンのメッセージは、次のようなことになるだろう。

 

 

 

Don’t hide your gifts.  Show your passions by looking different.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバ・スタイルの塾を作りたい | 22:23 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
発音が、外国語の見えないバリアになっている

先日、人に聞いた話。

 

 

 

パリに行ったら、露店に柿があった。見ると、「kaki」と書いてある。

「カキは日本語ですよね」

 

そう売り子に言ったら、けげんな顔をして、

「kakiはフランス語だよ」

と答えた。
 

 



もう一つ、似た話を読んだ。

 

 

 

和菓子の老舗「虎屋」がパリとニューヨークに支店を出したときのこと。

 

和菓子は小豆(あずき)の餡(あん)を材料に使う。ところが、欧米では豆類に高級なイメージがなく、これをお菓子に使うことに抵抗があった。

そこで、店ではこれを固有名詞風に adzuki と呼び、とにかく客に食べてもらった。bean(豆)の一種であることは、そのあと口頭で説明した。

すると和菓子は次第に受け入れられていったという。(川島蓉子『虎屋ブランド物語』東洋経済新報社、41頁)
 


柿がkakiと呼ばれて受け入れられたのと同様、小豆はそのままadzukiと呼ぶことで違和感がなくなった。

 

 

 

 

 

柳父章『翻訳語成立事情』は、近代日本で英語のrightやsocietyのような基本語が「権利」「社会」という耳慣れない漢字語に翻訳され、この新語が流布した心理を分析している。

それによると、「権利」「社会」は、当時の人には意味(中身)がよくわからなかった。そして、わからないがゆえに深遠な感じがして、人々に受け入れられたのだという。

これを柳父氏は「カセット効果」と呼んでいる。ここでカセットcassetteとは、テープではなくて「小さな宝石箱」の意である。

外見が見慣れず中身も見えないが、だからこそいいものが入っていると思える。この「わからなさ」のゆえに、近代の新語を日本人はすすんで受け入れたのだ、と。(柳父章『翻訳語成立事情』岩波新書、1982年、36、83、86、116、189頁)

聞き慣れない単語のほうが、かえって受け入れられる。kakiや adzuki にも、そういう心理が働いたのだろう。

 

 

 

 

この話で、隠れた役割を果たしているのが、発音の問題である。

 

例えば、bananaを日本語風に発音した「バナナ」は、もはや英語ではない。その証拠に、日本語風に「バナナ」というとき、英語のように a や the をつけようとする人は、滅多にいないだろう。パリのkaki、ニューヨークのadzukiは、もはやフランス語であり、英語である。それは、フランス語、英語として聞こえる発音で言っているからである。

 

 

発音が変わることで、言語が変わる。言語の違いとは、発音の違いが第一である。

 

 

「発音には、そうこだわらなくていい」
「発音は最後でいい」

 


という人は、おどろくほど多い。

たしかに発音が完璧でなければ話してはいけないというものではない。しかし、だからといって「最後でいい」「こだわらなくていい」ということになるだろうか。スポーツでも芸事でも学問でも、基本的なことについて、「最後でいい」「こだわらなくていい」という人がいるだろうか。

英語もどきの日本語の音を、英語と思いこんできたとすれば、迂闊な話である。発音が日本語であれば、それはもはや日本語の一部になっているのだ。

 

 

発音軽視は、日本の英語教育の徒労と失敗の、最初にして最大の原因かもしれないと、私は思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 14:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
和菓子は水を売れ、洋菓子は空気を売れ

和菓子の「たねや」社長・山本徳次氏が、おもしろい洞察を書いている。
 

 


洋菓子の焼き物はほとんどが空気。洋菓子がうまいのは、空気を演出しているとき。

他方、和菓子は、6割から8割が水。魚と同じで、みずみずしくて保水作用があることが大切。水のうまさが和菓子の決め手。

洋菓子は空気を売れ、和菓子は水を売れ。

 

 

(山本徳次『商いはたねやに訊け』毎日新聞社、2003年、43頁)
 

 

 


まるで名僧「空海」の名前のように、和菓子と洋菓子はこの世の二大要素 —空気と水— のうまさを凝縮しているわけだ。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 歴史とは何か | 13:35 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
やはり低迷している英文法の革新 言語観の貧困が根因

八木克正『世界に通用しない英語 あなたの教室英語、大丈夫?』(開拓社、2007年10月)



学校で教える英語が古くさかったり、間違っていたりする実態を指摘し、今後の方向を提案した本。

いくつか面白かったところをメモしてみる。

 

 

 

近代日本の「英文法」は1900年ごろ確立した。

 


イギリスの規範文法をもとにして日本の学習文法が確立したのは、明治後期(1900年ごろ)であった。

そのシンボルは、斎藤秀三郎『実用英文典』(1898‐1899)。これが日本初の体系的英文法書といわれる。

 

斎藤『実用英文典』の原型は、Henry Sweet, A New English Grammar, 1881-1898 。

 

さらにSweet の本の源流は、1600年ごろに確立した近代英語を集大成した L. Murray, English Grammar,1795である(八木、47、52頁)。

 

 

別の本だが、伊村元道『日本の英語教育200年』(大修館書店、2003年)にも、次のような説明がある。

 

 

「本書 [斎藤秀三郎『実用英文典』] は、その後の学校文法(スクール・グラマー)の枠組みを決めたといわれ、説明の仕方や例文まで本書を踏襲したものが数多く出た。戦後まで読まれた受験参考書のロング・セラー、山崎卓『自修英文典』(1913)なども本書の簡約版を底本にしている。英語学習者なら誰でも知っているあの『五文型』というのも斎藤の動詞分類にすでにその発想がある。…『不定詞』という名称も斎藤に始まる。それまでは『不定法』と呼んでMood(法)のひとつとしていた。」(伊村、25-26頁)

 

 


大正期に入り、規範文法に対して「科学文法」が台頭。

 


そのシンボルは、市河三喜『英文法研究』(1912年)。規範文法はまず規則を定め、それに言語使用を従属させようとするが、科学文法は「言語の実態をあるがままに受け入れて記述し、そのなかにひそむ規則性を見つけ出そうとする」立場である(八木、51頁)。他には、理論や体系を重視する中島文雄のような学風もあった。60頁。


著者の八木氏も、基本的にこの「科学文法」の立場をとっていると思われる。

 

 


1960年代に入り、構造言語学、さらに生成文法へと、日本の英文法研究は、急速に普遍理論志向へと転回した。
 


八木氏は、この時代を次のように回想している。

 

 

「流行に抗することができず生成文法の勉強をしながらも、同時に実証的研究を続けてきた私のような研究者が味わってきた悲哀でもありました。…言語学者はすべて言語の普遍性を追求しなければならないなどと指図される覚えはありません。…私は1960年代から2000年ころに至るまでの約40年間は、日本における英語の実証的研究の停滞期であったと考えています。」62‐63頁。



2000年ごろから、生成文法の勢いが衰退し、多様化の時代へ。

 


この時期、生成文法の盛行の影で営々と続けられてきたクエスチョンボックス型の語法研究が学習辞典や英語事典となって刊行され、集大成されていく。他方でラネカーらの認知文法も台頭してくる。最近では脳科学と結びつけた英語論も台頭している(八木、67頁以下)。
 

 

英語の発音が多様化しているからこそ、文法習得は重要性を増している
 


「書きことばになると、とたんに文法が意識されます。そう、英語の学習を話しことば中心にやっていては本当の英語の力がつくわけがないのです。書いてはじめて文法意識が芽生えます。」(八木、12頁)。

これは、英語の多様性をどう考えるかとも関連している。

世界には多くの種類の英語があるというが、著者によると多様なのは大部分が発音や語彙など話しことばのレベルのことで、書いた場合には
 


「英語と名のつくかぎり、文法上はほとんど違いがない。」(八木、20頁)
 


つまり、英語が様々な発音で多数の人が話しているからこそ、文法を知ることがますます重要だということである。英語を英語にしているのが文法だから、それをきちんと身につけることは絶対条件なのだ。

そのためには、文字を通じて英語を身につけること(読み書き)が有効だと、著者は言う。
 

 

ナショナルプロジェクトとして英語を総点検せよ

 


著者は、教科書、準教科書、学習参考書、問題集、入試問題などを総点検して、古くさい表現や間違った文法解説を日本の英語から排除すべきだという。



「その計画の実行のためには信頼のおける10名程度のいつでも相談できるネイティブ・スピーカーが必要です。5名位の日本語を母語とする英語専門家チームと、サポート役のネイティブ・スピーカー10名があれば数年で大がかりな点検作業ができるでしょう。学会をあげてのプロジェクトとしてやる値打ちがあると思います。」(八木、172頁)。

 


実現性はともかく、これはおもしろいアイディアだ。

ついでに、なぜ英語の習得にこれほど無駄が多いのか。それも研究してもらいたいものだ。規範文法があり科学文法があり生成文法がありながら、なぜ英語の習得はこれほど困難なのか。

これなら学会のプロジェクトどころかナショナルプロジェクトにする価値があると思う。

 

 

 

「科学的な言語研究」について

 


八木氏は、言語研究の方法について、次のように述べている。

 


「数学や理科など自然科学にもとづいた学科と同じように、英語が科学の裏づけをもった学科になるためには、科学的な言語研究の考え方が基本になければなりません。そのような学問としての英語研究の方法を分かりやすく提示することも本書の目的です。」vii頁。

 


そして著者は、「正しい英語とは今の世界に通用する英語」「世界のどこでも通用する英語」だともいう。16、18頁。

「より効果的に自己表現ができる英文法、そういうものを構築していかねばなりません。文法のための文法は専門家に任せて、学習のための英文法を早急に構築していかねばなりません。」171頁。

この主張に異論があるわけではないが、著者の方法には欠けているものがあるとも思う。たとえば、世界に通用する「正しい」用法を確認し、集めつづけても体系はできないであろう。

著者は「ボトムアップの思考法によって理論構築」「個別の現象の記述を積み重ねることによって体系を組み上げ」るのだと言っている。63頁。たしかに個々の事例を検討することは重要だが、それだけで「理論」や「体系」は作れない。

たとえば、18世紀から19世紀に流行したヨーロッパの「博物学 natural history」は当時のヨーロッパの世界進出とともに発見された、珍しい標本の採取と分類に熱中した。当時はそれが最先端の学問であった。

しかしこんにち博物学のように、たんにたくさん集めて分類することを科学とは呼ばない。

著者が鋭く指摘している古くさい表現や奇妙な文法は、たしかに早急に改めなければならない。しかしそれで日本における英語学習の問題が解決するわけではない。間違った個々の表現を改めただけでは「効果的に自己表現ができる英文法」は実現しない。

 

著者は多くの事例を集めて、それが示唆する規則性を見出すことを「科学的」な態度と考えているようだが、その作業から対象の本質がわかる保障もない。

 



じっさい、20世紀初頭に日本で確立した斎藤秀三郎流の文法体系に代わる英文法は、「科学文法」の台頭から100年近くたった今も実現していない。

 






 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | トランスグラマー 希望の文法へ | 12:41 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
本当に「復活」するのは、負い目のある人である

ペテロは、イエスによって十二使徒のなかの首位と認められた人。バチカンのサン・ピエトロ大聖堂は、ローマで殉教したペテロの墓の上に建造されたという。

 

もと漁師で、イエスが捕らえられたとき、自分も逮捕されるという恐怖から、イエスを「知らない」と三度も言ったペテロ。

 

そういう聖書の記述から、ペテロの性格は「直情的」とか「動揺しやすい」とか形容されることが多い。もっとはっきり言えば、ペテロは無教養で単純な、ある意味の「ダメ男」だったのではないかと、私は思う。

 

どうにもなりそうにないダメ男だったからこそ、イエスは使徒のなかの筆頭と認めた。処刑されたイエスは、ユダヤに伝承されるキリスト(救世主)だったのだー。そう気づいたあとのペテロの活動は、彼が「直情的」だったからこそ、熱が入ったのではないか。

 

 

 

 

キリストの死後、己の生をもう一度生き直そうと覚悟を固めた弟子たちの、その決意こそが、本当の意味の復活だった。」(原求作『キリール文字の誕生』上智大学出版、2014年、163頁)

 

 

 

 

イエスの復活の物語は、文字通りに信じる人もいれば、残された人々が抱いた幻想であったと解釈する人もいる。

 

罪なきイエスの処刑を阻止できなかったことへの後悔。この後悔が、処刑によってイエスがキリストであったと確信できたことと相乗的なペアとなって、周囲の人々を強い感情へとかりたて、イエス復活という共同幻想へと誘ったのではないか、というのである。

 

ペテロとよく比較されるパウロは、手紙が書けたくらいであるから、ペテロよりも教養があったのだろう。そのパウロも、かつてイエスの教えを否定し、キリスト教会を迫害したという負い目を背負ったからこそ、勇敢な布教活動ができた。

 

 

人間は、負い目を自覚するとき、ようやく人となる。

 

 

自分への後悔だけでなく、他人への謝罪をふくむとき、負い目は、痛みであると同時に財産となって、勇気ある活動へと人をかりたてる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | イエスの虚像 | 13:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ある白人至上主義者の改心 

アメリカで人種差別感情が高まり、それに抗議する人たちの動きも盛んになっている。ヨーロッパでも右派が台頭している。きっと日本にも影響してくるだろう。

 

アルジャジーラのサイトを見ていたら、元白人至上主義者で、ヘイト系バンドのリーダーだった男が、なぜ運動もバンドもやめたのかを、自分で説明している告白文があった。

 

 

 

http://www.aljazeera.com/indepth/features/2015/08/reflections-white-supremacist-150828100415193.html

 

 

 

2年前の記事だが、心の奥から出てくる言葉をつづった感じの、めったにない文になっている。

 

 

7年間、暴力的なヘイト活動を続け、優越感も持ったが、内心では自分の間違いを自覚していたという。その自覚を認めたくないがゆえに、さらにヘイト活動を続ける日々。やがて、心がヘトヘト(exhaustion)になってしまった。

 

今は慈善系の団体で働いているというが、そうなったきっかけは、自分が敵視した人々が返してくれた愛情 (love) だったという。ユダヤ人、レズビアン、黒人、ラティノ。そうした人たちの前では、相変わらず突っ張ってはいた。しかし、彼らに受け入れてもらううちに、「みんな人間という仲間なんだという気持ちに、どうしても勝てなくなった。 ... the sublime power of human kinship prevailed.」

 

 

この男が、どれだけ多くの人々の体と心を傷つけたか。それを考えると、この男の負い目は、ただ反省しただけでは済まない、犯罪的なものであろう。だが、この男がいま反省しているという事実は、人間性への究極的な信頼ということも考えさせてくれる。

 

自分の人種や民族や国家の優越の感情に身を任せることは、ある意味で単純にできることである。それは単純な感情であるだけに、強いパワーで人を動かす。

 

あることを信じるのは良い。だが、それを暴力的に他者に押しつけるのは良くない。相手を信頼して自分の意見を伝えた後は、相手自身に判断してもらう。相手も、自分を信頼して意見を言ってくれれば良い。その良し悪しの判断は、自分がする。その繰り返しによって、「みんな人間という仲間なんだ」という気持ちが醸成される。

 

このプロセスには、時間がかかる。相互尊重と忍耐の裏では、ほとんどつねに相互不信と暴力が進行する。その間に、とりかえしのつかない犠牲が生まれることもある。

 

これから右派がさらに台頭し、憎悪が放置され、奨励さえされるかもしれない。

 

それでも、人間の中核にあるのは、憎悪ではない。人間の中核にあるのは、「みんな仲間なんだ」という気持ちのほうである。そう思い続ける力を失いたくないと思う。

 

 

 

 

...

 

 

 

以下、原文から抜粋。

 

 

Reflections of a former white supremacist by Arno Michaelis    

 

 

...  But the most powerful moments that fed the growing sense of exhaustion that led me away from hate were ones rooted in love. Time after time during my seven year stint in hate groups, I was graced with kindness and forgiveness by people I was openly hostile to because of who they were. Refusing to let my inhumanity diminish theirs, people like a Jewish boss, a lesbian supervisor, and black and Latino co-workers modelled what it means to be a human being, when I least deserved, but most needed such a lesson. ...

 

But no matter how much I drank, how loud the white power music was cranked, how many other disgruntled white kids I managed to surround myself with, or how much blood I spilled, the sublime power of human kinship prevailed, leading me from a world consumed by hate and violence to one firmly set in the basic goodness of human existence.

 

 

 

http://www.aljazeera.com/indepth/features/2015/08/reflections-white-supremacist-150828100415193.html

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 歴史とは何か | 08:50 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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