ごきげんようチャンネル

 魚、水を行くに、行けども際なし  道元『正法眼蔵』



「帝位は最高の死装束である」テオドラの真実

テオドラ (Theodra 500年ごろ~548年)は、東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌスの皇后。

競馬場の熊係をしていた男の娘で、踊り子だったとか娼婦だったといわるが、ユスティニアヌスに見染められ、皇后に。今日残っているモザイク画をみると、テオドラは目のぱっちりした面長の美女である。

 


この女性には、有名なエピソードがある。



532年、首都で発生した「ニカの乱」。うろたえて逃亡しようとする夫ユスティニアヌス帝を、テオドラはいさめた。

 

 

 

 


「陛下、生きることだけをお望みなら、なにもむずかしいことはありません。目の前は海で、船もあります。しかし、この世に生まれ落ちた者は必ず死を迎えます。皇帝たるもの、逃亡者になるなどけっしてあってはならないことです。
 


帝衣は最高の死装束である

 

 

私は、この古(いにしえ)の言葉に深い共感を覚えます。」

 

 

 

 

テオドラの言葉で勇気をとりもどしたユスティニアヌス帝は、反乱の鎮圧に成功したという。


http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/sekaishi/archive/chapter011.html


 

 


テオドラが言ったのは、「皇帝なら皇帝らしくしなさい」という単純なことである。職人は職人らしく、四十代は四十代らしく。覚悟をもって、「らしく」する。その時、人はいちばん輝く。

 

もっと簡単に言えば、人間なら、覚悟をもって人間らしくする。それが人の最高のあり方だということだ。
 

 

 

 

 

 


 

 



 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバスタイルの塾を作りたい | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
日本人は英語がうまい? マーク・ピーターセン氏の優しさ

文科省が「英語が使える日本人」を作るための「戦略構想」を発表したり、TOEFLの国際比較で日本人の平均点が低い(156カ国中144位だった年もある)といったことをとりあげて、「日本人はとくに英語ができない」という主張?がしばしばおこなわれる。

『日本人の英語』(岩波新書)で有名なマーク・ピーターセン氏(明治大学教授)は、これはでっちあげだと強調する。日本人がとくに英語が下手という事実はないと。

じっさい、TOEFLの平均得点が低いというが、TOEFLは受験料が高いから、日本以外では留学候補者のようなエリートだけが受験する。軽い気持ちで受験する人が沢山いる日本とは、もともと受験者の質が違う。だから「TOEFLの国別平均点は無意味な統計なのだ」(マーク・ピーターセン『英語の壁』文春新書、2003年、37頁)。

ピーターセン氏がもっとも嘆くのは、文科省自身が、日本の中学・高校の英語教員の英語力が低い、などと公言していることだ。ピーターセン氏の経験では、「地方をまわって現場の先生に会ってみると、むしろ英語力は驚くほど高い」という(同上書、37−38頁)

けっきょく、何が悪いかというと、「全員にいやでも英語を覚えさせる」という日本の教育方針なのだ。英語をどこまでやるかは個人の判断にまかせるべきで、しぶしぶやっているような人まで巻き込む火必要はないと、ピーターセン氏は力説する。

大学で、英語嫌いの学生にも教えているピーターセン氏の目からみると、「英語全員強制」の弊害は目に余るのだろう。

 

 


では、本当のところ、日本人の英語のレベルは、どうなのか? 

私としては、「ある意味で低いが、それは仕方がないことであり、かなり多くの国でも、似たようなものだろう」と答えたい。

たとえば、しょっちゅう使う「冠詞」(a とthe)について考えてみても、これがまともに使える自信のある人が、何人いるだろうか。


以前私は韓国の書店で、韓国人が読んでいる英語の参考書を手にしたことがあるが、冠詞については日本人と同じような注意が書いてあった。日本語と同様、韓国語にも冠詞がないので、冠詞を駆使するのは、韓国人にとっても著しくむずかしい。

そして冠詞のように面倒で重要な点については、どの国でもおおざっぱな説明・教育しか行われていないという実態がある。英語の冠詞がまともに使えるようになる外国人向けの優れた教育メソッドは、まだ存在しないのだ。

これでは、母語に冠詞がある言語の話者か、一部の非常に才能のある人くらいしか、英語がまともに出来るようにはならない。

英語教師を含む日本人の英語力は低くない、というピーターセン氏の主張は、半分は彼の優しさからくるものだと私は思う。英語で人間の優劣を決めるかのような日本の風潮に対して、彼のヒューマニズム(会ってみるとわかるが、彼はアメリカ中心主義とは縁のない人である)が許せないのではないか。

日本人の英語のレベルが国際的に低いと嘆いたり、それはなぜかと議論すること以上に重要なことは、英語が本当に身につくメソッドを一日も早く開発し、普及させることだ。

それがないのに、中学・高校の英語教師の英語力は英検準一級が目標(文科省)などと言ってみても、しょせんは夢物語 a pipe dream である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の学校 イングリッシュ・ジム | 00:00 | comments(6) | trackbacks(0) | - | - |
英語を演奏する技術

中部大学の鶴田正道教授(当時。現在名誉教授、音楽美学)が、学内誌でこう述べている。

 

 


「総合芸術論でバイオリンを教えています。

バイオリンが大変すばらしいのは、楽譜が論理的に音楽になることですね。楽譜で見たのをすぐ音にすることができて、耳で聞くことができる。頭と心が瞬時に一致するんですね。

体を使いますから右手と左手が合わないといい音がしない。心身を整えて真剣に取り組める。」

(中部大学『ANTENNA』2008年8月号、2頁)

 

 


この文は、歌と比べたときの楽器の利点を述べている。

 



◆楽譜を「黙読」したり「音読」する(口ずさむ)のではなく、バイオリンのように指板上に音が整然と配列された楽器を使うと、楽譜に表された音どうしがもつ論理的関係が可視化されて、「楽譜が論理的に音楽になる」

 


◆楽器で演奏すると、「黙読」や「音読」とちがって、音楽を客観的に「耳で聞くことができる」



◆楽器は両手を使い体を使うので「黙読」や「音読」以上に「心身を整えて真剣に取り組める」



◆こうして、楽器を使うと「頭[論理的な理解]と心[音楽的な意味の表現]が瞬時に一致する」

 

 



自分の声を自分で聞く「音読」にまさる方法がある。それは、自分の身体を楽器にして演奏することである。

英語を楽器のように演奏する。身体を楽器にして両手で英語を演奏する。

その技術が、サウンド・ステップス(イングリッシュ・ジムの一部)である。
 

 

 

 


参考:三浦陽一『なぜ英語の発音はむずかしい?』(中部大学ブックシリーズ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の学校 イングリッシュ・ジム | 00:00 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
仏教は宇宙の創始や終焉をあまり考えない、古代の無限縁起の世界観

仏教では、世界が因縁(直接的な力が因、間接の条件が縁)によって運行されていると説く。これを縁起の理法という。

 

仏教では、宇宙の創始者が誰かとか、宇宙の始点や終点がどんなものかについては、それほど関心をもたない。弥勒信仰のような例もあるが、その場合も、宇宙の終末が誰によって起こされるかといったことは積極的に語らない。

 

キリスト教やイスラム教は、宇宙が人間の力の及ばないところで始まり、終わると解釈する点では、仏教と発想が共通しているが、神を宇宙の創始者とし、神による世界の終末を強く意識するところは、仏教と対照的である。

 

 

どうして仏教では、始原と終末の問題はさほど重要ではないか?

 

それは、問題追求のプロセスこそ、問題の解決そのものだからである。問題の解決とは、問題を追求するプロセスにほかならない。人間は、ものごとの連関のあり方を見極め、その改善を課題にすればよく、そのあとのことは、宇宙の摂理におまかせする。宇宙は、如来などの働きとして自動的に運行されており、人間がどうこうできるものではない。

 

 

キリスト教やイスラム教の世界では、宇宙の始原と終末を神の業とし、したがって宇宙の運行にも神の秩序が隠れていると考えた。この発想が、現世の科学的探求を推進した。

 

その際、隠れたポイントは、キリスト教やイスラム教は、もともと整備された科学的世界観を持っていなかったことである。たとえばカソリックの宇宙イメージは、古代以来の常識的なレベルであった。だからこそ、神の秩序を宇宙に探し出そうとする新しい情熱が、キリスト教世界では醸成されたとも言える。

 

仏教は、科学を推進する情熱に欠けていたかもしれない。その原因は、キリスト教と違って仏教は、科学的と言ってもいいような、抽象的で相関的な世界観(如来、四大など)を、古代に作ってしまったからである。仏教は、この世界をかなりよく説明する超越的論理であった。

 

だからその後、個々の認識をより科学的な概念へと凝結させ、新しい概念によって認識を照らし出し、その認識によってさらに新しい概念を探求するという、前進的な情熱を持ちにくかったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 00:00 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
生きてるほうが珍しい  人間と宇宙、空と無の連関について

四大の一時的結合(空)としての人間。

 

人間である時間は、一瞬である。

 

一瞬でないほう(無)から人間を見る。これが宗教と科学である。

 

近代になり、科学が宗教を掘り崩していった原因は、科学と宗教の目線が「無」という共通点をもつからである。

 

宗教の物語でしか説明できなかった「無」が、科学の概念によっても説明できることがわかったからである。

 

そういう意味で、科学は近代の宗教である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天の雲が地上を見下ろしている。だが、雲は地上の水の一瞬の形にすぎないから、むしろ地上がすべての基盤である。

空に人がいて絶えず動き、それに無関心な地上の無が横たわる。

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 10:41 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
奴隷と年季奉公人の違いは、希望の違い 

ルシオ・デ・ソウザ、岡美穂子『大航海時代の日本人奴隷 アジア・新大陸・ヨーロッパ』(中公叢書、2017年4月)

 

本書は、奴隷の売買という形をとった、船による労働力の国際移動が400年以上前に存在したことを証明している。

 

人間の場所的移動は、労働力そのものの移動であり、人間社会の土台の変動の一部として、古来存在した。各地を回る商人・芸人、出稼ぎ、旅行、遊学、嫁入り、戦争による軍隊の移動、人の捕獲。

 

国際奴隷もまた、そうした労働力移動の一種である。イスラエル人のバビロン捕囚(紀元前600年ごろ)のように、推計1万人を超える人々が遠方に移送され、約半世紀の間、労働に従事させられた国際奴隷の例もある。

 

本書にあげられた奴隷は、ひとつのエスニックグループにつき、多くて数百人である。これらの奴隷は、貿易都市や船上で、貿易商人の家内労働者として個人的に奉仕する点的な存在で、農場や軍隊で集団的に使役されたのではなかった。子孫をつくる存在でもなかったようだ。

 

のちにアメリカに連れて行かれた黒人奴隷は、農場で集団労働したり、家族をもつこともあったから、同じ「奴隷」といっても、労働形態に相当な違いがある。本書が実証した国際奴隷の存在は、経済的にはそれほど重要であったわけではないようだが、人類史の埋もれた事実として、記憶する価値がある。

 

 

いくつかメモしておきたい。

 

 

○ 奴隷は、遠方へと転売を重ねるほど値段が上がった。自ら志願して奴隷になり、海外に渡った例もあるという。

 

 

○ 幼少の奴隷をもつことは、キリスト教徒とっては、憐れみの行為とみなされた。

 

 

○ キリスト教に改宗したユダヤ人に対する猜疑心と、厳しい追及ぶりが描かれている。彼らは実際には改宗していないのではないかと疑われており、監視され、怪しい行動が密告されると宗教裁判にかけられ、財産を没収された。これはけっきょく、ユダヤ人の財産がねらわれていたということではないか。

 

 

○ 本書には、奴隷が逃亡した例が紹介されていない。老齢、病気...。奴隷は、解放された後のほうが悲惨ということもあった。人は共同体を離れて生きられないということの証明か。

 

 

○ 本書を読みながら、ハタと気づかされたのは、奉公と奴隷の違いが、案外と微妙なことである。奴隷に年季が設けられることもあったらしい。購買者は奴隷として買ったつもりが、本人は年季奉公人になったつもりであったという皮肉な例もあるらしい。

 

年季奉公と奴隷の違いは、報酬の有無ということもあるが、意識の差つまり希望の有無も大きい。技術を習得し、ゆくゆくは独立した生計を立てられるという目的と希望があれば、労働の内容も自ずから高度になる。たとえ単純労働でも、いずれ年季が明けると思えば、労働の質が違ってくるだろう。

 

外見上は同じ労役でも、使役する方、使役される方が、それぞれどう思っているか。人間の歴史では、そこが重要になる。

 

希望とは、内面の問題であることに注意したい。希望があるかないか。その違いは、人間の歴史において、客観的にも大きな違いを生んできたはずだ。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
土台は生存条件、上部構造は活動条件 マルクス「ブリュメール18日」より

マルクスの「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」に、土台と上部構造の関係についての思考例がある。いわゆる史的唯物論の「公式」(経済学批判序説)とあわせて参考にすべき部分である。

 

 

 

 

 

「正統王朝派とオルレアン派... これら二分派を分けていたのは、いわゆる原理ではなく、両者の物質的な生存条件、つまり二つの異なる所有様式だった。古くからの都市と田舎の対立、資本と土地所有との対抗関係だったのである。

 

同時にまた、古い思い出、個人的な反目、不安や期待、偏見や思い違い、共感や反感、信念や信条や原理などが、彼らをどちらかの王家に結びつけたことも否定できまい。

 

所有の、社会的生存条件の、さまざまな形態の上に、さまざまな、独特に形成された感情や、思い違いや、考え方や、人生観から成る一大上部構造がそびえている。

 

一階級全体が、これら [上部構造の構成要素] を、自らの物質的な基盤と、この基盤に対応する社会的境遇からつくりだし、形成するのだ。

 

これら [上部構造の構成要素] は伝統や教育を通じて個々人に流れこんでいくので、個々人は、これら [上部構造の構成要素] が自分の行動を決める本当の動機であり、その起点であると思い込むのである。...

 

私生活では、ある人が自分のことをどう考えどう言うかと、その人が実際どのような人で何をするのかが区別されるのだから、歴史的な闘争ではなおさらのこと、政党のうたい文句や思い込みを。それの実際の体質や実際の利害と区別し、それのイメージを、実態と区別しなくてはならない。...

 

イギリスのトーリー党が長いこと、王制や、教会や、古いイギリスの制度の美点に心酔していると思いこんでいたところ、いざ危なくなると、自分たちが心酔していたのは地代にすぎなかったことを白状せざるをえなかったのと同じである。」

 

 

 

(マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」、筑摩書房マルクスコレクションIII、38-39頁。太字は引用者)

 

 

 

 

 

ここでマルクスは、土台を「社会的生存条件」「物質的な生存条件」「自らの物質的な基盤」と呼んでいる。土台に根を持つ個々人の感情、意識を、ここでは「上部構造」とも呼んでいるが、以下ではむしろ経済学批判序説の用語にならって、政治的法律的に規定された全社会的な編成の具体的形態(国家や憲法など)を、「上部構造」と呼ぶことにしよう(すると、個々人の感情、意識の表れは、上部構造というより「意識諸形態」と呼ぶべきであろう)。

 

土台は人間の物質的生存条件であり、上部構造は人間の非物質的活動条件、すなわち両者は個人の生活の前提である。生存条件が確保できないと活動条件が満たされないし、活動条件があってはじめて生存条件が確保できる。

 

個人は、単独でこれらの条件を無視したり破壊したり修正することはできない。人は組織によって、新しい土台や上部構造、すなわち新しい生存条件や活動条件を作る。

 

土台と上部構造は、個人・組織・階級にとって投射の対象であり、投射の主体でもある。土台と上部構造は、人間社会が所有する属性(条件)である。だからこそ、土台と上部構造は、人間社会を制約する実体ともなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

        湯島聖堂  東京

 

 

 

 

 

 

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稽古とはクセをとること 舞妓さんのトレーニングに学べ

『AERA』誌に、「祇園の人間力」という小さい記事があった(2017年9月11日号、54頁)。

 

祇園の舞妓さんに必要なのは、お座敷の雰囲気を見極める感覚と、その子ならではのキャラクターだという。つまりは個性だが、個性を磨くには、どうすればいいのか。

 

 

 

「入門すると、とにかく毎日お稽古です。稽古のときには型を叩き込まれますが、型が身につくと、自然にその人らしさがあらわれてくる。個性は無理につくるものではないんです。」

 

 

 

 

現地を取材した記者は、

 

 

 

 

最初についているのは個性ではなく、癖とみなされ、それを取るのが稽古でもあるのだ

 

 

 

 

とコメントしている。

 

おそらく、場の雰囲気を見極める能力も、型を身につけ、舞妓としての自信がつくなかで養われるのだろう。

 

 

 

...

 

 

 

 

社会的に認知された概念(規範)にしっかりと準拠した認識を養い、その認識にもとづいてきちんと活動しようとすると、そこに個性が現れる。

 

クラシック音楽の演奏、体操競技、外国語...  伝統ある活動は、普遍的であろうとすればするほど個性的になるという原理によって規律されている。

 

伝統を打ち破るものも、伝統の習得から出た個性である。正統の探求こそ、最高の個性と変革への道である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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創造とは、洗練された概念が自己組織化するまで磨きあげること

ピアニストの辻井伸之さんが、難曲「ラ・カンパネラ」(リスト作曲。1851年)をウィーンで演奏した時の画像が YouTube に出ている。

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=f2IRyrkmP7Q

 

 

激しい手の動きによって、鐘の音の美という曲の本質に、繊細に迫っていく姿が映っている。

 

 

辻井さんといえば、何年か前、彼がアメリカのコンクールで優勝したときのテレビドキュメンタリーで、審査員の一人が、

 

 

「彼の演奏には、天から舞い降りたような、この世のものではないような、不思議な瞬間がある。そういう天才を、私たちは待っていたのです」

 

 

というようなことを言っていた。

 

 

数年前の『タイム』に、日本人バレリーナのカジヤ・ユリコさんについて、所属のヒューストンバレー団の芸術監督が似たようなことを言っている記事がある。われわれは、ユリコさんのような、「あの説明しがたいものをもった人 somebody who has that unexplainable thing 」を探しているのだ、と。

 

 

 

“She has that ability to take your breath away at times on stage,” says artistic director Stanton Welch, who’s teaching today’s class. “That’s what you’re looking for as a choreographer and a director: somebody who has that unexplainable thing.

 

http://time.com/4037535/yuriko-kajiya/

 

 

 

しかし、芸術の主人公は、それを演じるピアニストやダンサーではない。作品を作った作曲家や振付師でもない。芸術の主人公は、洗練された概念である。芸術が目指す概念は、誰が創造し、誰が演じるかといった、生身の人間の問題とは別の次元のものである。

 

高度な概念は、自己組織化する。はじめ現実の鐘の音に触発された美の概念は、音どうしの自立的関係へと昇華する。

 

日常的現実を超えた概念の世界を、ピアニストやダンサーが表現してくれる。優れた表現の中のある瞬間に、われわれは洗練された概念の本質を認識でき、この世にあることの意味を感じることができる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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will の概念は「話者の確信」 田中茂範『表現英文法』から考える

英語教育論、英語文法論で知られる田中茂範氏(慶應大学教授)の本を見ていたら、will について、氏の説明が進化していることに気がついた。

 

 

2008年の本では、

 

 

「willは現在の意志・推量を表す」

 

 

となっていた(田中茂範『文法がわかれば英語はわかる!』NHK出版、2008年、34頁)。この説明だと、「意志・推量」が誰によるものなのかがはっきりしない。

 

 

ところが、2013年の本では、

 

 

「will は発話時における話者の『意志』か『推量』を表す」

 

 

となっている(田中茂範『表現英文法』コスモピア、2013年、280頁。太字は引用者)。will は主語の意志や推量ではなく、話者の意志や推量を表す、と明記されたわけである。

 

 

しかし、will について、その他の説明部分には大きな変化がないように見えるし、そこに問題が残っていると思う。

 

 

 

どちらの本も、will が表すのは「意志か推量」であるといい、意志の他になぜ推量の意味もあるかが、かなり丁寧に説明してある。だが、氏の説明を読んでも、意志と推量の違いがピンとこない。

 

 

If it rains tomorrow, I'll stay at home. のように、条件のif 節ではwill を使わないが、その理由についての氏の説明は、どちらの本でもよく理解できない。

 

 

「時・条件などを表す節の中には、推量の余地のない確定的な内容が含まれるため、推量の意味合いがあるwill は使えない」(『文法がわかれば...』2008年、前掲、35頁)

 

「条件のif 節では推量を含まない内容(条件)を語るため、『推量』のwill は使わない」(『表現英文法』2013年、前掲、282頁)

 

 

氏が言いたいことは、if が表す条件は客観的で、will が表す推量は主観的だから、両者は同居できないということなのかもしれないが、そういう理解でいいのか、この説明ではよくわからない。

 

 

 

 

上記の ↓△箸癲∪睫世曖昧な感じがする原因は、共通していると思う。

 

 

その原因とは、文の中で、 will が表す認識上の機能、意味を分類しようとする発想が先立ってしまい、will が本来どのような概念であるかを解明しようという意識が薄いからである。

  

概念は、話者の具体的な認識とは別次元の、対象の抽象的な本質についての観念であり、認識にとっての規範である。概念は、それぞれ単一の実体として概念の世界にあり、他の概念と関係を結びながら存在している。will の場合なら、may, can, must などと共に、ひとつの群れを作っている。

 

物質的な現実のなかにいる個々の話者は、自分の具体的な認識を、概念を使って表現する。その結果として、ひとつの概念から複数の「意味」が発生するのである。

 

このことは、以下のような三層でイメージすると良いかもしれない。

 

 

 

 

物質的現実  ー  個人が作る認識  ー  社会が共有している概念

 

 

 

 

話者の直接の表現対象は、話者体内の個人的認識であって、体外の物質的現実ではない。このことは、認知文法の浸透などでかなり理解されるようになった。問題は、個人的認識と社会的概念の区別と関係が、まだあまり理解されていないことである。

 

個々の例文は、社会的概念をもとにした個人的認識の表現である。こうした個々の例文がもつ「意味」を分類することが、そのまま社会的概念の解明になるのではない。will の概念は、個々の例文(認識例)や他の関連概念を参照しながら、研究者が言語によって独自に言い表す必要がある。

 

will の概念は、「話者の確信」である。この概念は、will の例文や、may, can, must など、話者の判断の揺れを表す同類の概念との対比において定めることができる。この単一の概念から、個々の認識においては、意志とか推量といったいくつもの「意味」が派生してくる。

 

 

氏の『表現英文法』(2013年)の will の項には、「will が表す4つの意味」という相関図が掲載されている。図の中心にある will から、「意味の表明」「推量」...といった四つの「意味」が 放射状に派生している様子が描いてある。281頁。

 

ところが、四つの「意味」の中心にある "will" のところには、何も書かれていない。このことが、本書の弱点を象徴している。そこにwillの概念として、「話者の確信」と書きこめばよかったのである。この本にあげてある、いくつもの will の例文は、「話者の確信」という概念をもとにした話者の認識の表れとして、どれも説明できる。

 

 


 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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