ごきげんようチャンネル

"Life is too short to wake up with regrets." author unknown
           

チキンラーメンからカップヌードルへ 形式の改善で世界食品に飛躍

日清食品の創立者・安藤百福(ももふく)氏が1958年、自宅の小屋でインスタントラーメンを発明した時の話は、よく知られている。

奥さんが天ぷらを揚げるのを見て、味付けした麺を乾燥させる方法を思いつき、工夫の末に、インスタントラーメンが誕生した。

インスタントラーメンは、お湯をかけただけで食べられる「魔法のラーメン」として人気になった。しかし、安藤氏の工夫はまだ続く。

1966年、欧米視察に出た安藤氏は、紙コップにチキンラーメンを砕いて入れ、フォークで食べている人の姿を目にする。飛行機で配られたマカデミアナッツの容器に密閉用の「フタ」がついていることにも感心する。

そして1971年、世界初のカップ麺「カップヌードル」が発売された。

カップヌードルは、チキンラーメンがカップに入っただけのようにも見えるが、これが大きな飛躍となった。

 

 

 

 

安藤百福氏は、チキンラーメンを開発するとき、五つの目標をもっていたという。



 屬泙真べたい」と思ってもらえるおいしさ。

調理と食事に手間と時間がかからないこと。

常温で長期間保存できること。

ぢ燭の人に腹いっぱいになってもらえる価格。

ケ卆古で安全であること。

(日清食品『インスタントラーメンまるごとガイドブック』より)
 

 


この五つは、どれもすぐれた商品に必要な要素であろう。

しかし、キチンラーメンがこの五つを満たしているとしても、そこにはひとつ欠けているものがあった。それは、<人間すべてに通用する普遍的形式>をもつことである。

チキンラーメンは、ドンブリひとつで作り、そのまま箸で食べられる。それだけでもそうとうな普遍性があった。しかし、ドンブリと箸がないと食べられないということはまだ不便な点でもあったし、世界的に通用する食べ方でもなかった。

中身ではなく、形式(容器・道具)に問題があったのだ。

それをカップとフォークでクリアしたのがカップヌードルである。これによってインスタントラーメンは、人間すべてに通用する普遍的食品として完成したのだ。
 

いまでは、インスタントラーメンは世界で年間1,000億食近くも食べられているという。

 

 

 


安藤百福氏は、

 

 

「食足世平(しょくそくせへい)‐食足りて世は平らか‐」

 

 

という言葉が好きだったという。「食は足りて当然であり、それが平和のもとだ」という考えであろう。

考えてみれば、外国語だってそうありたいものだ。英語ごときに多くの人がやたらと時間と労力をとられるのは馬鹿げている。
 


「語足世平 — 語り足りて世は平らか」

 

 

すなわち「英語のような共通語は、誰もが普通の努力でできるようになって当然であり、それが平和のもとだ」という考えを、知恵と工夫で実現すべきなのだ。
 



 

 

 





(おわり)




 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバ・スタイルの塾を作りたい | 05:23 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
学説がビジネス的に試される時代 机上の議論は終わった おわり

そもそも、現代の英文法はどうあるべきなのか。

 


もともと、言語表現の対象とその認識はつねに具体的である。しかし具体的な言語表現が成立するには抽象的なルール(言語規範)にのっとっている必要がある。

そしてこの抽象的なルールは、つねに具体的な表現によって表現される。抽象的なルールを直接記したルールブックが人間の前にあらかじめ置かれているわけではない。

そこで、このルールブックをあえて作ろうとするのが文法の研究である。

料理にたとえれば、わかりやすいかもしれない。

料理は具材の扱い方を知っている人間によって作られたのだが、結果として見えるのは調理された具材だけである。

出来上がった具材の様子を分類することは、料理を知る出発点になるだろう。しかし、それだけで料理を作るルールがわかるだろうか。

料理のルールは個々の料理のなかにではなく、料理人の意識のなかにあるはずだ。文法学者は、料理(表現結果)を観察分類するだけでなく、料理人の意識(表現を生んだルール)のなかに入り込み、その内容を表現しなければならない。

 

 


英文法を体系化しようとする努力。それを支えている動機の一つは、それによって学習者の苦労を少しでも軽減したいという実践的な意図であろう。いわば、レシピを明らかにすることによって、誰もが普通の努力で一定の料理が作れるようにしたいということである。

 

現代の社会の中で、一体どうすれば、そうした実践的な意図は実現するのだろうか。


オグデンのベーシックイングシッシュが想定したように、小中高の学校教育の枠で新たな「仮説の体系」を検証・普及することは、旧仮説が制度的に確立しているため、大きな決断と長い時間と膨大な費用が必要であろう。

ザメンホフのエスペラントが期待したように、善意にもとづくボランティアベースの非営利的な方法で新しい言語体系を普及させることも、大きな困難があると思われる。

半世紀前にチョムスキーが成功したように、一人の魅力的な学問的「仮説」を大学教員レベルの専門家が大挙して検証するような光景も、しばらくは起こらないであろう。

日本の「英会話学校」は、上記のような学校教育やボランティアや学問とはちがう枠の存在であり、ビジネスベースのものであるが、真に革新的な「仮説の体系」をもっていないためにおのずから限界が見え、最近では市場が頭打ち状態になっている。

 

 

 


以上のことから、英文法の新しい体系を開発するには、次のような戦略が考えられる。

まず、誰かが仮説の体系をつくり、たとえば本として出版する。しかし、これだけでは何も起こらない。

教育行政が真価不明の新理論をすぐに採用することはありえないし、全国の学校でそれを教える体制もない。そして英語教育の専門家をひきつける魅力をもつ第二のチョムスキーは、おいそれとは現れないだろう。結果、たとえ本が多少売れたとしても、それ以上のことは起こらない。

そこで、その「仮説の体系」をもとにした商品をつくり、ビジネスラインで普及をはかる。ビジネスである以上、商品と商法が稚拙ならばどこかで失敗するだろう。それはこの「仮説の体系」にはさしたる価値がないことの証明とみなしてよい。

逆に、もしも商品と商法がすぐれていれば普及するであろう。普及すればするほど、新しい「仮説の体系」の価値が多くの人に理解され、欠点が修正される。そうなれば商品と商法がますます洗練され、購入者はさらに増える。

ここにポジティブなサイクルが生まれ、革新が進行する。

 

 



英文法ひとつをとっても、もはや学者の机上の作業でなにかが起こる時代は終わったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバ・スタイルの塾を作りたい | 04:52 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
学説がビジネス的に試される時代 机上の議論は終わった その1

安藤貞雄『現代英文法講義』(開拓社、2005年)

英文法を総合的にあつかった学術書としては、比較的新しいものに入ると思う。

ときどき参照しているが、説明が詳しく、例文に格調高いものが多いうえに、いまの文法論で何が議論されているかもわかる。

英文法研究の現状を総括した大作と高く評価したうえで、いくつか気になることを記しておきたい。

 


 


「はしがき」に、本書は「豊富な用例を…体系化した学術書」だという説明がある。v頁。

「用例を体系化した」という表現は、本書の基本的な立場を示している。言語事実(実際の用例)から出発して、それらを分類整理すること。それが文法学の役割だということであろう。

著者は「GB理論やミニマリスト・プログラムの視点」もとりいれようと試みたと述べているが、それでは「節操がない感じがある」という。vi頁。

つまり著者は、ここ数十年、日本の英語界を席巻した生成文法の超演繹的な手法に満足できず、「言語事実から帰納的に原理原則を導き出す」ことを基本と考えており、これを著者は「科学的」な「手順」と呼んでいる。vi頁。

私としては、著者が生成文法に距離を置くところには同感できても、用例を収集・整理することで英文法が「体系化」できたり「科学的」になるという発想には違和感がある。

「体系」とは「個々別々の認識を一定の原理に従って論理的に組織した知識の全体」(デジタル大辞泉)といった意味なので、そこにはひとつのまとまりを感じさせる原理や一貫性があるはずである。

しかし、本書がどういう原理による「体系」を提示しているのか、39章からなる目次を見ても、私には読み取れない。

 


 

「体系」ならば、たとえば英文法の知識の全体を論理的に組織した一枚の図が描けるはずである。一枚の図でなくても、著者の考える英語の全体像が本書のどこかに書かれていてしかるべきである。

おそらく、全体像に近いのは第2章「文型」あたりであろうと思われるが、そこには著者独自の8文型論が書かれているものの、8つの文型を貫く原理については言及がない。

ここにこの本の特徴があらわれている。「8つ」というところまではよく整理されているのだが、整理しただけで終わっている。「8つ」を貫く英語文型の根本原理は何かといった考察には踏み込もうとしない。

けっきょく著者のいう「体系化」とは、おそらく「網羅的」という意味ではないかと思う。

ひとつの言語の文法の全体を描こうとする以上、網羅(しようと)することは必要である。しかし網羅(しようと)したから「科学的」であるとは限らない。

雑多なものを雑多なままで集めるだけでなく、よく観察していくつかの種類に分別するのは、昆虫採集的な意味で「科学的」であるかもしれない。

しかし今日、対象を分別して並べてみせるだけで「科学」とは普通言わない。

そのような言語事実が発生するメカニズム、その言語事実を分類する原理や、分類のプロセスを明らかにする作業が必要である。本書にはそれがない。

 

 

 

本書は、たんに文法現象を紹介し記述するだけでなく、常に「なぜに?」という疑問に答えようとしたこと、すなわち「説明文法」たらんとしたことが「最大の特徴」だという。v頁。

しかし、読者の一人として私にはそれが実感できない。どこがたんなる「記述」ではなく「説明」になっているのかが見えないのである。

もちろん、「説明」らしい部分がないわけではない。

たとえば受動態の分類で、

 I was interested by what you told me. (動詞的受動態)

◆I am very interested in chess. (形容詞的受動態)

の二種類があるといい、

「形容詞[的受動態]の特徴はveryに修飾される点、決定的にはby以外の前置詞をとる点である。」

という。344頁。

なるほど、何かが「説明」されたようにも思える。しかし、正確にはいったい何を「説明」しているのだろうか。

ふたつの受動態の分類の「原理」なのだろうか。だとすれば、その「原理」はなんなのだろう。

それとも、ここに書かれているのはふたつの受動態の区別のテクニックの「説明」にすぎないのだろうか。

だとしたら、それは文法現象のたんなる「記述」とどれほど違うのだろうか。
 

 

 

 

 

 

 


 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバ・スタイルの塾を作りたい | 04:51 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
世界の料理の違いは、水の違い 中国料理・フランス料理・日本料理

在来作物を活かした料理を元に、広い視野で地域起こしに貢献している奥田政行さんの講演。

 

 

 

http://www.nhk.or.jp/radio/player/ondemand.html?p=1940_01_6405

 

 

 

色々な面で大変参考になる話だが、ここでは、料理の根本についての奥田さんの一言が面白かったので、メモしておく。

 

 

 

 

・中国料理 ... 海で獲れたものを乾かして広大な内陸に運ぶ過程で、表面にカビが生えたりしやすい。きれいな水が得られないこともある。そこで、油で揚げたり、蒸したりする技法が発達した。

 

 

・フランス料理 ... カルシウムの多い硬水の土地柄なので、素材の旨みが水に染み出しにくい。そこで、時間をかけて煮詰めたソースを別に作り、それを素材にかけるという方法が発達した。

 

 

・日本料理 ...  軟水の土地柄なので、素材の旨みが水に染み出しやすい。そこで、旨みを直接水に与えて、そのまま食べる方法が発達した。

 

 

 

 

どんな素材を使うにせよ、水を使わない料理は少ない。だから、水のあり方は料理の仕方に根本的な影響を与えるということだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 人類史どれどれ虫眼鏡 | 18:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ブッダ最後の平和の教え 名古屋・日泰寺のこと おわり

先に書いたように、明治の日本の仏教宗派は、シャムから贈られたブッダの遺骨を我が物にしようと争った。

それは、ブッダ入滅後にインド各地の国王たちが演じた遺骨争いの再演だった。とはいえ、インドの王たちが争ったがゆえにブッダの骨は各所に分散され、その結果、遺骨は今日まで残存したとも言える。逆に、日本の仏教宗派たちは、争ったがゆえに遺骨は分散されず、超宗派で守ることになって名古屋に安住の地をえた。

分配するか中立化するか。

かつて中国は列強の利権の対象つまり「分捕り」の犠牲になったが、皮肉なことにそれが当面の「平和」的解決の方法でもあった。他方、スイスや南極のように、どこの国とも同盟せず、どこの国のものにもせず、中立を堅持することで平和をもたらす方法もある。分配は対象が大きい場合に、中立は対象が小さい場合に、それぞれ有効な方法かもしれない。

いずれにせよ、ブッダの遺骨をめぐって人間は二種類の紛争解決法を編み出した。ブッダは、亡くなってからも「平和」のための知恵をわれわれに教えてくれたのかもしれない。

 

 


ヨーロッパには、各地に「イエスの骨」と称するものがあり、全部集めると千人以上のイエスを復原できるという。仏教でも、塔にあるブッダの骨を拝むと増殖するという伝説がある。(永田諒一『宗教改革の真実―カトリックとプロテスタントの社会史』講談社現代新書、2004年、78頁)


イエスは火葬されなかったし、しかもしばらくして復活し、天に召されたというのだから、「イエスの骨」がどこかに残っているというのは、意味不明でもある。
 

 






(おわり)

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 04:57 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ブッダ最後の平和の教え 名古屋・日泰寺のこと その2

ブッダは火葬のあと、遺骨が各地に配布された。日泰寺にあるのはその一部である。


伝承によると、八十歳のブッダは、ある村の河で沐浴したあと身を横たえ、弟子たちと村人に囲まれて瞑想に入り、入滅した。その時、花びらが舞い散り、雷が光り、地震が起こった。    

ブッダの入滅を聞いた七ヶ国の王と軍隊が遺骨を求めてやってきた。はたして遺骨は誰の手にわたるのか。

状況が緊迫したとき、あるバラモンが

「ブッダは慈悲と忍耐を説かれました。そのブッダの遺骨をわれわれが争うのはよくありません。ここは遺骨を八つに分け、それぞれが持ち帰って各地に塔ができるようにしましょう。」

と説得した。

遺体が火葬され、遺骨の分配が終わると、そのバラモンは分配に使った鉢を持ち帰り、自ら塔を作った。遅れてやって来た一国は、遺骨ではなく灰を持ち帰り、やはり塔をつくった。

 

日本の寺にある塔は、もともと仏舎利(ブッダの遺骨)を納める施設という観念があるが、こうした仏塔の起源はインドにあり、その形は鉢型の土盛りのような塔であるという。おそらく、インドの塔が鉢の形をしているのは、遺骨の分配に鉢を使ったことからきているのだろう。日本の塔の頂上にある相輪の伏鉢が、インド型の仏塔の名残りとされる。

 

 

それにしても、2400年前の人物の真骨が特定され、その一部が日本にある。ブッダは卑弥呼より600年くらい前、聖徳太子より1000年くらい前の人だから、ブッダの遺骨の実在は驚異と言えるだろう。

科学者なら、「その遺骨、DNA鑑定したい!」と思うかもしれない。ブッダがガンダーラ仏にみられるようなアーリア系の血筋だったかどうかについては諸説あるので、DNA判定したら、そういうこともわかるかもしれない。

 

 

 

ちなみに、ブッダの真骨は中国でも発見されているという。

西安に近い法門寺。高さ47メートルの巨大な八角塔を1987年に修復したとき地下宮が発見され、2400点あまりの唐代の文物が出てきた。そのなかに、八重の箱に納められたブッダの指の骨が四個発見されたのだ。

この話は中国政府発行の観光案内パンフに載っていたもので、パンフには塔の写真とともに透明ケースに入った四つの指骨の写真が掲載されている。

なぜそこにブッダの指骨があるのか、どうやってブッダの真骨だと判明したのかなどは記されていない。
 

 

 

 

 

 


 

 

(つづく)

 

 

 


 

 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 04:56 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ブッダ最後の平和の教え 名古屋・日泰寺のこと その1

夏になると、名古屋の日泰寺という大きなお寺のことを思い出す。そこには、ブッダの本物の遺骨を納めた塔がある。


正面から見ると、草庵風の拝殿があり、その向こうに、白い塔の基壇が見える。まわりは木立。大塔の全容を見せず、白い基壇だけを垣間見させることで、ブッダらしい親しみやすさと、教えの厳粛さが表現されている。

それにしても、なぜブッダの真骨が名古屋にあるのか。

 

 


 


1898(明治31)年のこと。ネパールでイギリスの駐在官が古い墳墓を発掘し、一つの壺を発見した。壺には、紀元前の文字でブッダの遺骨であると記されていた。

他の文献の記述とも符合したため、これはブッダの真骨だと判定された。身長5メートルと言い伝えられたり、架空の人物とみなされることもあったブッダだが、この発見によって実在の人物であることが確認されたのである。

さてイギリスは議論の末、ブッダの骨なら仏教国がふさわしいと、シャム国(タイ)に譲渡した。その一部がシャム国王から日本にプレゼントされることになった。

シャムでうやうやしい儀式を行い、1900(明治33)年、お骨は来日したが、日本の仏教諸宗派は骨をどこに納めるかをめぐって争った。そして数年後、広大な用地を用意して熱心に誘致した名古屋に決した。遺骨は、超宗派の形式で管理されることになった。

それが今日の日泰寺である。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 04:55 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
名前が思考を誘導する 「銃規制」「放射線」「安保」

アメリカでは、銃の規制が長いあいだ問題になっている。

 

銃規制を強化すべきとする勢力は、自分たちの運動の目的が

 

 

"gun violence prevention"(銃暴力予防)

 

 

にあると規定している。問題は、銃による過剰な暴力であって、銃の保持そのものに反対するわけではないことを示唆しているわけである。

 

他方、銃規制の強化に反対する勢力は、問題を

 

 

"a debate over gun rights" (銃保持権論争)

 

 

 

と呼ぶ。銃の保持を「権利 rights」と呼ぶことで、銃規制の強化が当然視されないように工夫しているわけである。

 

 

いずれの勢力も、問題を "gun control " と直接的に呼ぶのを避けて、迷っている人たちの反発を回避しつつ、問題の本質を自分に有利なように定義している。

 

 

 

http://www.npr.org/blogs/itsallpolitics/2013/02/26/172882077/loaded-words-how-language-shapes-the-gun-debate

 

 

 

この記事は、こうした言葉使いの違いは枝葉末節のことではなく、まさしく問題を難しくしている一因だと指摘している。

 

 

 

 

 

 

1991年の国際プルトニウム会議で、イギリスのアリス・スチュアートは、長期の研究の結果、「低レベル放射線」というより「ピンポイント放射線」というほうがよいと考えるに至った、という報告をして注目された。

 

放射線は「針の先で突くようにして細胞の核を傷つける」のが大きな特徴である。だから「ピンポイント放射線」というのが適切だと。(市民意見広告運動編『核の力で平和はつくれない』合同出版、2012年8月、9頁)

 

もしマスコミが、「低レベル放射線」ではなく「ピンポイント放射線」と報道しつづけたとしたら、どうだろう。放射線の危険性についての人々の認識は、もっと鋭くなるのではないか。

 

 

 

 

 

 

言葉使いが人の思考を誘導している例といえば、日米「安保」とか「安全保障条約」もそうである。

 

普天間基地をかかえる宜野湾市の市長は、次のように書いている。

 

 

 

「沖縄で脅威の議論をすると、海兵隊や米軍そのものが脅威だということになります。その米軍がわれわれをどこかの直接的な脅威から守っていると信じる人は、沖縄には一体何人いるのか。」(伊波洋一『普天間基地はあなたの隣にある。だから一緒になくしたい。』かもがわ出版、2010年10月、89-90頁)

 

 

 

騒音や事故や犯罪など、日々の「脅威」だけでなく、米軍が沖縄に集中して存在するということは、沖縄が「敵」の最初の攻撃目標になることも意味する。

 

沖縄にとって米軍の存在は「安保」ではなく、「脅威」というほうが当たっている。

 

ならば、在日米軍が日本の「安保」のためだと表現する人は、沖縄を「日本」から除いて考えていることになる。日米「安保」という表現は、「沖縄排除」という側面を長期にわたりおおいかくす効果をもってきた。

 

 

 

 

 

 

最後に、先の記事にある言葉を引いておく。

 

 

"Words do more than just describe the world. 

 

They literally define it. They shape and frame it."

 

 

 

http://www.npr.org/blogs/itsallpolitics/2013/02/26/172882077/loaded-words-how-language-shapes-the-gun-debate

 

 

 

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 米軍基地のなくし方 | 07:04 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
価値の尺度は社会的必要時間 ロビンソン・クルーソーが証明してくれる おわり

マルクス『資本論』は言う。

 

 

 

「労働の有用な性格を無視するなら、労働に残るものといえば、それが人間労働の支出であるという事実だけである。裁縫労働と織布労働は、質的に異なる生産活動であるとはいえ、どちらも人間の脳髄・筋肉・神経・手などの生産的支出であり、この意味でともに人間の労働なのである。」(『資本論』』第一巻、第一章、筑摩書房版、68頁)

 

 

 

労働価値説は、個々の労働の質的な違いを捨象してしまえば、商品と呼べるものの価値の源泉は、なべて<人間の労働>であるという抽象的な認識である。孤島のロビンソン・クルーソーがたった一人であらゆる労働をこなしていく姿は、労働価値説のいう「労働」という概念を理解しやすくしてくれる。

 

そして『資本論』は、次のように述べる。

 

 

 

「ところで、上着とリネンはたんに価値一般であるだけでなく、特定の大きさの価値でもある。かりに一着の上着が20エレのリネンの二倍の価値があるとすれば、この価値の大きさのちがいはどこから生じるのか。それは、リネンが上着の半分の労働しか含まないこと、すなわち上着を生産するための労働力は、リネンを生産する場合よりも二倍の時間をかけて支出されなければならないことから生じる。」(『資本論』同上訳書、70頁より要約)

 

 

 

個々の労働の質のちがいを度外視して、あらゆる労働を抽象的で均一な「労働」にまで還元してしまったとき、なお残る商品の価値の大小は、なにを根拠に生じるか。

 

それは、その商品を完成するのに必要な「時間」以外にありえない。

 

 

 

 

 

 

以上のように、マルクスの労働価値説は寓話でも仮説でもなく、ロビンソン・クルーソー物語さながらの推論を通じて得られる必然的な概念、すなわち人間世界の客観的真実なのである。

 

 

そして『資本論』は、ロビンソン・クルーソーの物語について、次のように述べている。

 

 

 

「彼がおこなう生産活動はそれぞれ異なっているとはいえ、同じロビンソンの異なる活動形態にすぎず、したがって同じ人間の労働の異なるやり方にすぎないことを彼は知っている。

 

彼は必要に迫られて、自分の時間を異なる活動のあいだに几帳面に分配する。わがロビンソンは、時計、簿記原本、ペンを難破船から救いだすと、ただちに良きイギリス人らしく自分自身について帳簿をつけはじめる。

 

彼の財産目録は、…さまざまな生産物の特定量のために彼が平均して費やす労働時間などの明細を含んでいる。

 

ロビンソンと、彼が自分で作り出した富たる種々の物との関係は、ここではきわめて単純で透明である。この関係のなかに、価値のすべての本質的な規定が含まれているのである。」(『資本論』第一巻、第一章、同上訳書117-118頁より要約)

 

 

 

労働価値説は、ロビンソン・クルーソーの物語のなかに単純化されたかたちで示されている。

 

 

...

 

 

 

ところで、『資本論』を読む人は、マルクスの叙述がもっぱら経済の話だと思っているかもしれない。しかし、マルクスの論理は、労働に限らず、「人間の脳髄・筋肉・神経・手などの生産的支出」(『資本論』第一巻、第一章、同上訳書、68頁)、つまり人間の労力支出全般についていえる。

 

たとえば言語は、労働と同じく、<人間の平均的能力の生産的支出>という面をもっている。

 

 

 

「人間の労働は、ふつうの人間なら誰でも特別の発達を経ることなく自分の肉体的な有機組織のなかに平均的にもっている単純な労働力の支出である。」(『資本論』第一巻、第一章、同上訳書、69頁)

 

 

 

これは「社会的平均的労働力」と呼ばれるものの説明であり、この労働力の発揮が「抽象的労働」であるが、同じことが言語についてもいえる。

 

 

 

<人間の言語には、ふつうの人間なら誰でも特別の発達を経ることなく、自分の肉体的な有機組織のなかに平均的にもっている単純な創造力の支出という面がある>

 

 

 

言語の場合、この「社会的平均的労働力」にあたるものは何か。この問題、じつに面白いのだが、ロビンソン・クルーソーのことから離れてしまうので、ここでは答えだけ言っておこう。

 

それは、自分を対象化した「自己」である。「自己」は、社会の誰もが、年齢相応に(すなわち平均的習得時間によって)獲得していき、かつ社会全体の平均として認められる「社会的平均的言語能力」として、個々人に分有されている。この自己が、三浦つとむのいう「自己分裂」を行うのであるが、この話は、別の機会に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 史的唯物論から史的連関論へ | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
価値の尺度は社会的必要時間 ロビンソン・クルーソーが証明してくれる その1

 

 

労働価値説では、商品の価値はそれを生産するのに必要な社会的・平均的労働時間によって規定されるとする。

 

そう聞くと、「まあそんなところかな」と、漠然と認める人もいるだろうし、根拠がよくわからないと感じる人もいるだろう。

 

ところで、ロビンソン・クルーソー物語の社会科学的解釈といえば、かつては大塚久雄氏の「悔い改めた中産的生産者・ロビンソン・クルーソー」論が有名だった(大塚久雄『社会科学の方法 — ヴェーバーとマルクス』岩波新書、1966年)。

 

増田義郎氏の完訳と解説によって、いまや大塚説は大幅に訂正された(ダニエル・デフォー(増田義郎訳・解説)『完訳 ロビンソン・クルーソー』中央公論新社、2007年)。

 

そして、増田訳のロビンソン・クルーソー物語を読む中で、労働価値説は人間世界についてのリアルな認識なのだと、私は思うようになった。

 

...

 

 

たった一人で孤島に遭難したロビンソン・クルーソーは、労働なしにはなにひとつ得られない。

 

自分が乗っていた船が近くに座礁していたので、ロビンソンはペン、インク、紙、望遠鏡、聖書などをそこから島に運びこむ。

 

これらは他人の労働の産物で、出来合いのものであるが、これとて、船から島へと運ぶというロビンソン自身の労働(労働の対象物を移動させる交通労働)なしには利用できない。

 

彼の30年近い孤島生活を支えたのは、狩猟と耕作という労働であった。労働が<自分自身を生産する=生き延びる>ための基本であることは、ロビンソンの生活が証明している。

 

 

また、ロビンソンはたった一人であったために、分業というものの威力も実感する。

 

 

 

「手伝う人や道具があれば簡単にできることも、それをひとりでやるとなると、どんなにたいへんな労働となり、莫大な時間を必要とするか」(増田訳前掲書、116頁)

 

 

 

遭難から一ヶ月ほど経って、サバイバルの要領がわかってきたロビンソン・クルーソーは、次のように日記に書く。

 

 

 

「11月4日 今朝、仕事をする時間、銃を持って出かける時間、睡眠の時間、娯楽の時間などを決めた。雨が降らない日には、2、3時間銃を持って歩き、それから11時ごろまで働いて、生きる糧を食べ、ひどく暑い気候なので12時から2時までは昼寝をする。そしてまた夕方働く。」(増田訳前掲書、74頁)

 

 

 

一日は24時間しかないので、どの労働にどれくらいの時間をあてるかが、彼の生活を決めるもっとも基本的な要素となった。じっさい、ロビンソンは、どの労働にどれくらいの労働時間がかかるかをしきりに気にしている。

 

 

 

「今日と翌日の労働時間は、全面的にテーブル制作に当てる。まだへたくそな職人だから、それもしようがない。しかし、時を経て、必要に迫られて、私は完全な職人になった。だれでもそうなると思う。」(同上74頁)

 

 

 

普通の社会では他人と分業しているから、必要時間こそ労働の価値の尺度であることが見えにくいが、ロビンソンのように孤独な場合、それが見えやすい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 史的唯物論から史的連関論へ | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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