ごきげんようチャンネル

 魚、水を行くに、行けども際なし  道元『正法眼蔵』



英語を演奏する技術

中部大学の鶴田正道教授(当時。現在名誉教授、音楽美学)が、学内誌でこう述べている。

 

 


「総合芸術論でバイオリンを教えています。

バイオリンが大変すばらしいのは、楽譜が論理的に音楽になることですね。楽譜で見たのをすぐ音にすることができて、耳で聞くことができる。頭と心が瞬時に一致するんですね。

体を使いますから右手と左手が合わないといい音がしない。心身を整えて真剣に取り組める。」

(中部大学『ANTENNA』2008年8月号、2頁)

 

 


この文は、歌と比べたときの楽器の利点を述べている。

 



◆楽譜を「黙読」したり「音読」する(口ずさむ)のではなく、バイオリンのように指板上に音が整然と配列された楽器を使うと、楽譜に表された音どうしがもつ論理的関係が可視化されて、「楽譜が論理的に音楽になる」

 


◆楽器で演奏すると、「黙読」や「音読」とちがって、音楽を客観的に「耳で聞くことができる」



◆楽器は両手を使い体を使うので「黙読」や「音読」以上に「心身を整えて真剣に取り組める」



◆こうして、楽器を使うと「頭[論理的な理解]と心[音楽的な意味の表現]が瞬時に一致する」

 

 



自分の声を自分で聞く「音読」にまさる方法がある。それは、自分の身体を楽器にして演奏することである。

英語を楽器のように演奏する。身体を楽器にして両手で英語を演奏する。

その技術が、サウンド・ステップス(イングリッシュ・ジムの一部)である。
 

 

 

 


参考:三浦陽一『なぜ英語の発音はむずかしい?』(中部大学ブックシリーズ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の学校 イングリッシュ・ジム | 00:00 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
仏教は宇宙の創始や終焉をあまり考えない、古代の無限縁起の世界観

仏教では、世界が因縁(直接的な力が因、間接の条件が縁)によって運行されていると説く。これを縁起の理法という。

 

仏教では、宇宙の創始者が誰かとか、宇宙の始点や終点がどんなものかについては、それほど関心をもたない。弥勒信仰のような例もあるが、その場合も、宇宙の終末が誰によって起こされるかといったことは積極的に語らない。

 

キリスト教やイスラム教は、宇宙が人間の力の及ばないところで始まり、終わると解釈する点では、仏教と発想が共通しているが、神を宇宙の創始者とし、神による世界の終末を強く意識するところは、仏教と対照的である。

 

 

どうして仏教では、始原と終末の問題はさほど重要ではないか?

 

それは、問題追求のプロセスこそ、問題の解決そのものだからである。問題の解決とは、問題を追求するプロセスにほかならない。人間は、ものごとの連関のあり方を見極め、その改善を課題にすればよく、そのあとのことは、宇宙の摂理におまかせする。宇宙は、如来などの働きとして自動的に運行されており、人間がどうこうできるものではない。

 

 

キリスト教やイスラム教の世界では、宇宙の始原と終末を神の業とし、したがって宇宙の運行にも神の秩序が隠れていると考えた。この発想が、現世の科学的探求を推進した。

 

その際、隠れたポイントは、キリスト教やイスラム教は、もともと整備された科学的世界観を持っていなかったことである。たとえばカソリックの宇宙イメージは、古代以来の常識的なレベルであった。だからこそ、神の秩序を宇宙に探し出そうとする新しい情熱が、キリスト教世界では醸成されたとも言える。

 

仏教は、科学を推進する情熱に欠けていたかもしれない。その原因は、キリスト教と違って仏教は、科学的と言ってもいいような、抽象的で相関的な世界観(如来、四大など)を、古代に作ってしまったからである。仏教は、この世界をかなりよく説明する超越的論理であった。

 

だからその後、個々の認識をより科学的な概念へと凝結させ、新しい概念によって認識を照らし出し、その認識によってさらに新しい概念を探求するという、前進的な情熱を持ちにくかったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 00:00 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
生きてるほうが珍しい  人間と宇宙、空と無の連関について

四大の一時的結合(空)としての人間。

 

人間である時間は、一瞬である。

 

一瞬でないほう(無)から人間を見る。これが宗教と科学である。

 

近代になり、科学が宗教を掘り崩していった原因は、科学と宗教の目線が「無」という共通点をもつからである。

 

宗教の物語でしか説明できなかった「無」が、科学の概念によっても説明できることがわかったからである。

 

そういう意味で、科学は近代の宗教である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天の雲が地上を見下ろしている。だが、雲は地上の水の一瞬の形にすぎないから、むしろ地上がすべての基盤である。

空に人がいて絶えず動き、それに無関心な地上の無が横たわる。

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 10:41 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
奴隷と年季奉公人の違いは、希望の違い 

ルシオ・デ・ソウザ、岡美穂子『大航海時代の日本人奴隷 アジア・新大陸・ヨーロッパ』(中公叢書、2017年4月)

 

本書は、奴隷の売買という形をとった、船による労働力の国際移動が400年以上前に存在したことを証明している。

 

人間の場所的移動は、労働力そのものの移動であり、人間社会の土台の変動の一部として、古来存在した。各地を回る商人・芸人、出稼ぎ、旅行、遊学、嫁入り、戦争による軍隊の移動、人の捕獲。

 

国際奴隷もまた、そうした労働力移動の一種である。イスラエル人のバビロン捕囚(紀元前600年ごろ)のように、推計1万人を超える人々が遠方に移送され、約半世紀の間、労働に従事させられた国際奴隷の例もある。

 

本書にあげられた奴隷は、ひとつのエスニックグループにつき、多くて数百人である。これらの奴隷は、貿易都市や船上で、貿易商人の家内労働者として個人的に奉仕する点的な存在で、農場や軍隊で集団的に使役されたのではなかった。子孫をつくる存在でもなかったようだ。

 

のちにアメリカに連れて行かれた黒人奴隷は、農場で集団労働したり、家族をもつこともあったから、同じ「奴隷」といっても、労働形態に相当な違いがある。本書が実証した国際奴隷の存在は、経済的にはそれほど重要であったわけではないようだが、人類史の埋もれた事実として、記憶する価値がある。

 

 

いくつかメモしておきたい。

 

 

○ 奴隷は、遠方へと転売を重ねるほど値段が上がった。自ら志願して奴隷になり、海外に渡った例もあるという。

 

 

○ 幼少の奴隷をもつことは、キリスト教徒とっては、憐れみの行為とみなされた。

 

 

○ キリスト教に改宗したユダヤ人に対する猜疑心と、厳しい追及ぶりが描かれている。彼らは実際には改宗していないのではないかと疑われており、監視され、怪しい行動が密告されると宗教裁判にかけられ、財産を没収された。これはけっきょく、ユダヤ人の財産がねらわれていたということではないか。

 

 

○ 本書には、奴隷が逃亡した例が紹介されていない。老齢、病気...。奴隷は、解放された後のほうが悲惨ということもあった。人は共同体を離れて生きられないということの証明か。

 

 

○ 本書を読みながら、ハタと気づかされたのは、奉公と奴隷の違いが、案外と微妙なことである。奴隷に年季が設けられることもあったらしい。購買者は奴隷として買ったつもりが、本人は年季奉公人になったつもりであったという皮肉な例もあるらしい。

 

年季奉公と奴隷の違いは、報酬の有無ということもあるが、意識の差つまり希望の有無も大きい。技術を習得し、ゆくゆくは独立した生計を立てられるという目的と希望があれば、労働の内容も自ずから高度になる。たとえ単純労働でも、いずれ年季が明けると思えば、労働の質が違ってくるだろう。

 

外見上は同じ労役でも、使役する方、使役される方が、それぞれどう思っているか。人間の歴史では、そこが重要になる。

 

希望とは、内面の問題であることに注意したい。希望があるかないか。その違いは、人間の歴史において、客観的にも大きな違いを生んできたはずだ。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
土台は生存条件、上部構造は活動条件 マルクス「ブリュメール18日」より

マルクスの「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」に、土台と上部構造の関係についての思考例がある。いわゆる史的唯物論の「公式」(経済学批判序説)とあわせて参考にすべき部分である。

 

 

 

 

 

「正統王朝派とオルレアン派... これら二分派を分けていたのは、いわゆる原理ではなく、両者の物質的な生存条件、つまり二つの異なる所有様式だった。古くからの都市と田舎の対立、資本と土地所有との対抗関係だったのである。

 

同時にまた、古い思い出、個人的な反目、不安や期待、偏見や思い違い、共感や反感、信念や信条や原理などが、彼らをどちらかの王家に結びつけたことも否定できまい。

 

所有の、社会的生存条件の、さまざまな形態の上に、さまざまな、独特に形成された感情や、思い違いや、考え方や、人生観から成る一大上部構造がそびえている。

 

一階級全体が、これら [上部構造の構成要素] を、自らの物質的な基盤と、この基盤に対応する社会的境遇からつくりだし、形成するのだ。

 

これら [上部構造の構成要素] は伝統や教育を通じて個々人に流れこんでいくので、個々人は、これら [上部構造の構成要素] が自分の行動を決める本当の動機であり、その起点であると思い込むのである。...

 

私生活では、ある人が自分のことをどう考えどう言うかと、その人が実際どのような人で何をするのかが区別されるのだから、歴史的な闘争ではなおさらのこと、政党のうたい文句や思い込みを。それの実際の体質や実際の利害と区別し、それのイメージを、実態と区別しなくてはならない。...

 

イギリスのトーリー党が長いこと、王制や、教会や、古いイギリスの制度の美点に心酔していると思いこんでいたところ、いざ危なくなると、自分たちが心酔していたのは地代にすぎなかったことを白状せざるをえなかったのと同じである。」

 

 

 

(マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」、筑摩書房マルクスコレクションIII、38-39頁。太字は引用者)

 

 

 

 

 

ここでマルクスは、土台を「社会的生存条件」「物質的な生存条件」「自らの物質的な基盤」と呼んでいる。土台に根を持つ個々人の感情、意識を、ここでは「上部構造」とも呼んでいるが、以下ではむしろ経済学批判序説の用語にならって、政治的法律的に規定された全社会的な編成の具体的形態(国家や憲法など)を、「上部構造」と呼ぶことにしよう(すると、個々人の感情、意識の表れは、上部構造というより「意識諸形態」と呼ぶべきであろう)。

 

土台は人間の物質的生存条件であり、上部構造は人間の非物質的活動条件、すなわち両者は個人の生活の前提である。生存条件が確保できないと活動条件が満たされないし、活動条件があってはじめて生存条件が確保できる。

 

個人は、単独でこれらの条件を無視したり破壊したり修正することはできない。人は組織によって、新しい土台や上部構造、すなわち新しい生存条件や活動条件を作る。

 

土台と上部構造は、個人・組織・階級にとって投射の対象であり、投射の主体でもある。土台と上部構造は、人間社会が所有する属性(条件)である。だからこそ、土台と上部構造は、人間社会を制約する実体ともなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

        湯島聖堂  東京

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
稽古とはクセをとること 舞妓さんのトレーニングに学べ

『AERA』誌に、「祇園の人間力」という小さい記事があった(2017年9月11日号、54頁)。

 

祇園の舞妓さんに必要なのは、お座敷の雰囲気を見極める感覚と、その子ならではのキャラクターだという。つまりは個性だが、個性を磨くには、どうすればいいのか。

 

 

 

「入門すると、とにかく毎日お稽古です。稽古のときには型を叩き込まれますが、型が身につくと、自然にその人らしさがあらわれてくる。個性は無理につくるものではないんです。」

 

 

 

 

現地を取材した記者は、

 

 

 

 

最初についているのは個性ではなく、癖とみなされ、それを取るのが稽古でもあるのだ

 

 

 

 

とコメントしている。

 

おそらく、場の雰囲気を見極める能力も、型を身につけ、舞妓としての自信がつくなかで養われるのだろう。

 

 

 

...

 

 

 

 

社会的に認知された概念(規範)にしっかりと準拠した認識を養い、その認識にもとづいてきちんと活動しようとすると、そこに個性が現れる。

 

クラシック音楽の演奏、体操競技、外国語...  伝統ある活動は、普遍的であろうとすればするほど個性的になるという原理によって規律されている。

 

伝統を打ち破るものも、伝統の習得から出た個性である。正統の探求こそ、最高の個性と変革への道である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバスタイルの塾を作りたい | 00:00 | comments(6) | trackbacks(0) | - | - |
創造とは、洗練された概念が自己組織化するまで磨きあげること

ピアニストの辻井伸之さんが、難曲「ラ・カンパネラ」(リスト作曲。1851年)をウィーンで演奏した時の画像が YouTube に出ている。

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=f2IRyrkmP7Q

 

 

激しい手の動きによって、鐘の音の美という曲の本質に、繊細に迫っていく姿が映っている。

 

 

辻井さんといえば、何年か前、彼がアメリカのコンクールで優勝したときのテレビドキュメンタリーで、審査員の一人が、

 

 

「彼の演奏には、天から舞い降りたような、この世のものではないような、不思議な瞬間がある。そういう天才を、私たちは待っていたのです」

 

 

というようなことを言っていた。

 

 

数年前の『タイム』に、日本人バレリーナのカジヤ・ユリコさんについて、所属のヒューストンバレー団の芸術監督が似たようなことを言っている記事がある。われわれは、ユリコさんのような、「あの説明しがたいものをもった人 somebody who has that unexplainable thing 」を探しているのだ、と。

 

 

 

“She has that ability to take your breath away at times on stage,” says artistic director Stanton Welch, who’s teaching today’s class. “That’s what you’re looking for as a choreographer and a director: somebody who has that unexplainable thing.

 

http://time.com/4037535/yuriko-kajiya/

 

 

 

しかし、芸術の主人公は、それを演じるピアニストやダンサーではない。作品を作った作曲家や振付師でもない。芸術の主人公は、洗練された概念である。芸術が目指す概念は、誰が創造し、誰が演じるかといった、生身の人間の問題とは別の次元のものである。

 

高度な概念は、自己組織化する。はじめ現実の鐘の音に触発された美の概念は、音どうしの自立的関係へと昇華する。

 

日常的現実を超えた概念の世界を、ピアニストやダンサーが表現してくれる。優れた表現の中のある瞬間に、われわれは洗練された概念の本質を認識でき、この世にあることの意味を感じることができる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバスタイルの塾を作りたい | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
will の概念は「話者の確信」 田中茂範『表現英文法』から考える

英語教育論、英語文法論で知られる田中茂範氏(慶應大学教授)の本を見ていたら、will について、氏の説明が進化していることに気がついた。

 

 

2008年の本では、

 

 

「willは現在の意志・推量を表す」

 

 

となっていた(田中茂範『文法がわかれば英語はわかる!』NHK出版、2008年、34頁)。この説明だと、「意志・推量」が誰によるものなのかがはっきりしない。

 

 

ところが、2013年の本では、

 

 

「will は発話時における話者の『意志』か『推量』を表す」

 

 

となっている(田中茂範『表現英文法』コスモピア、2013年、280頁。太字は引用者)。will は主語の意志や推量ではなく、話者の意志や推量を表す、と明記されたわけである。

 

 

しかし、will について、その他の説明部分には大きな変化がないように見えるし、そこに問題が残っていると思う。

 

 

 

どちらの本も、will が表すのは「意志か推量」であるといい、意志の他になぜ推量の意味もあるかが、かなり丁寧に説明してある。だが、氏の説明を読んでも、意志と推量の違いがピンとこない。

 

 

If it rains tomorrow, I'll stay at home. のように、条件のif 節ではwill を使わないが、その理由についての氏の説明は、どちらの本でもよく理解できない。

 

 

「時・条件などを表す節の中には、推量の余地のない確定的な内容が含まれるため、推量の意味合いがあるwill は使えない」(『文法がわかれば...』2008年、前掲、35頁)

 

「条件のif 節では推量を含まない内容(条件)を語るため、『推量』のwill は使わない」(『表現英文法』2013年、前掲、282頁)

 

 

氏が言いたいことは、if が表す条件は客観的で、will が表す推量は主観的だから、両者は同居できないということなのかもしれないが、そういう理解でいいのか、この説明ではよくわからない。

 

 

 

 

上記の ↓△箸癲∪睫世曖昧な感じがする原因は、共通していると思う。

 

 

その原因とは、文の中で、 will が表す認識上の機能、意味を分類しようとする発想が先立ってしまい、will が本来どのような概念であるかを解明しようという意識が薄いからである。

  

概念は、話者の具体的な認識とは別次元の、対象の抽象的な本質についての観念であり、認識にとっての規範である。概念は、それぞれ単一の実体として概念の世界にあり、他の概念と関係を結びながら存在している。will の場合なら、may, can, must などと共に、ひとつの群れを作っている。

 

物質的な現実のなかにいる個々の話者は、自分の具体的な認識を、概念を使って表現する。その結果として、ひとつの概念から複数の「意味」が発生するのである。

 

このことは、以下のような三層でイメージすると良いかもしれない。

 

 

 

 

物質的現実  ー  個人が作る認識  ー  社会が共有している概念

 

 

 

 

話者の直接の表現対象は、話者体内の個人的認識であって、体外の物質的現実ではない。このことは、認知文法の浸透などでかなり理解されるようになった。問題は、個人的認識と社会的概念の区別と関係が、まだあまり理解されていないことである。

 

個々の例文は、社会的概念をもとにした個人的認識の表現である。こうした個々の例文がもつ「意味」を分類することが、そのまま社会的概念の解明になるのではない。will の概念は、個々の例文(認識例)や他の関連概念を参照しながら、研究者が言語によって独自に言い表す必要がある。

 

will の概念は、「話者の確信」である。この概念は、will の例文や、may, can, must など、話者の判断の揺れを表す同類の概念との対比において定めることができる。この単一の概念から、個々の認識においては、意志とか推量といったいくつもの「意味」が派生してくる。

 

 

氏の『表現英文法』(2013年)の will の項には、「will が表す4つの意味」という相関図が掲載されている。図の中心にある will から、「意味の表明」「推量」...といった四つの「意味」が 放射状に派生している様子が描いてある。281頁。

 

ところが、四つの「意味」の中心にある "will" のところには、何も書かれていない。このことが、本書の弱点を象徴している。そこにwillの概念として、「話者の確信」と書きこめばよかったのである。この本にあげてある、いくつもの will の例文は、「話者の確信」という概念をもとにした話者の認識の表れとして、どれも説明できる。

 

 


 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
自己紹介に "I am Taro. " は、なぜおかしいか

太郎さんが自己紹介して、

 

 

 "I am Taro."

 

 

といったらおかしいだろうかと、在米20年の人に質問してみた。すると、「不自然な感じがする」とのこと。

 

 

 

" I'm Taro."

 

 

 

なら自然な感じだという。理由はわからないとのことだが、これは面白い現象だ。"I am... " というのは、「我こそは...」みたいに、気張って聞こえるのだろう。

 

 

 

そのこともあわせて、自己紹介しながら相手の名前を聞くための黄金パターンは、こうなる。

 

 

 

 

"I'm Taro, Taro Yamada.  And you are....?"

 

 

 

 

"I am" ではなく、手早く "I'm"。 相手に呼んでほしい自分の名前で、”I'm Taro"  そしてもう一度、自分のフルネーム。こうして、自分の呼び名を二回言って、覚えやすくしてあげる。

 

つづけて、"and you are...?"  と言うと、相手は自分の名前を、"Hanako, Hanako Itoh."  のように返してくる。このとき、”You're” ではなく、”You are...?” と、丁寧に尋ねる。

 

相手の名前が覚えにくい、聞き取りにくいときは、"How do you spell it? " などと聞いて、確認する。

 

 

この要領を覚えておけば、自己紹介はたいてい大丈夫だろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

           朝の月

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
コロンは「すなわち」、セミコロンは「ところが」 使い分け方のメモ

コロン:とセミコロン;をどう使い分けるか。

これはわかりにくいし、説明もあまり見かけないのでメモしておく。



■colon(コロン)[:]は、「すなわち」(that is, namely)という感じで、同じ対象について違う言い方をしたいときに使う。

 

同じことを短くいいかえるだけなので、コロンはピリオドで代用することはできない。

 

たとえば、



He lived for only one thing: money.

 

これを

 

He lived for only one thing. Money.

 

では意味をなさない。



同様の原則で、次のような用例も理解できる。



Mary: I failed in the exam.
Bob: Sorry to hear that.   (セリフの前)
 


Ladies and gentlemen: (あいさつの冒頭)
 


Dear Sirs:  (手紙の冒頭)
 


他に



The clock showed 8:15 AM.  (時間と分。「八時なのだが、詳しくいうとその15分」)
 

 

 

 



■semicolon(セミコロン)[;]は、あることを言ったあと、別のことについて、「それに対してこちらは…」という意味で対称させるときにつかう。

 

We are never deceived; we deceive ourselves. (Goethe)  「われわれはけっして騙されるのではない。みずからをあざむくだけだ」(ゲーテ)… 強く前後を対称させながらつなげている。

 

 

セミコロンは、互いに独立した内容をつなげるものなので、ピリオドにして、別の文にすることもできる。

 

 

She liked him; he was kind to her; he was rich. (ピリオドにするとニュアンスは変わるが、意味は通じる)

 

 

セミコロンの重要な用法は、consequently,  furthemore, nevertheless, however, also, besides, moreover, otherwise, hence, then, thus のような「接続副詞」の前に置いて、前後を切断しつつ接続する書き方である。

 


He graduated; however, he was unable to get any job. 
 

 

 

 

 

 


簡単には、: (コロン)は「すなわち」(=)、;(セミコロン)は「ところが」(⇔)と覚えておくといい。また、コロンのほうが使用頻度が高く、セミコロンはそうしょっちゅう使われるわけではないことも、覚えておくと役立つだろう。
 

なお、タイピングでは、コロンもセミコロンも、その後を 1スペースあける決まりになっている。

 

 

 


(以上、原田敬一『英語句読法の知識と使い方』南雲堂、1985年、41-48頁を参考にした)

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 



 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 16:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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