ごきげんようチャンネル

科学とは、正確に驚くことである。 Y.M.
           

英語冠詞の a(n) は、英語独特の「形態」を表す 「兵器としての強姦」について おわり

英語の冠詞 a(n)は、形態を表す。形態は、<個・回・種>という三つの面に分けることができる。個・回・種のうち、どれかの面をもつ概念は、a(n)で表現できる。英語では、<個・回・種>を、いずれも「形態」としてとらえ、a(n)で表現するのである。

 

こうして表現されたa(n) は、話し手・聞き手に「形態の出現」という認識を喚起する。

 

このような、冠詞 a(n)による形態概念のとらえ方と形態認識の表現方法は、英語という言語を支える主柱のひとつである。これは、「兵器」を英語でなんというかといったこと以前の、英語の概念・認識の作法そのものだからである。

 

単語帳で、日英の語彙をつなげて覚えるのも、たいへん役立つ。その根本的な理由は、近代日本語の語彙の多くが英語を筆頭とする西洋語の翻訳語なので、対応関係が良好だからである。

 

しかし、英語には、個々の語彙以前の、基幹部分がある。それが発音、文型、冠詞、前置詞なのである。

 

これらの理解と記憶と活用が、あなたの英語の土台をつくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 12:07 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
英語冠詞の a(n) は、英語独特の「形態」を表す 「兵器としての強姦」について その2

ひとつだけ、冠詞の例をあげよう。

 

バルカン紛争やアフリカの内戦などの経験を通して、最近注目されているのが、「兵器としての強姦 rape as a weapon of war」 という概念である。国連のユニセフが、この概念の由来をていねいに説明している。

 

 

 

https://www.unicef.org/sowc96pk/sexviol.htm

 

 

 

戦時の強姦は、共同体全体を崩壊させるために有効な「兵器」とみなされる傾向がある。これは中国での日本軍の強姦に先例がある。

 

さて、

 

"rape as a weapon of war"

 

やや長いこの表現が、すんなりと覚えられて、自分でも正確に言える。「英語ができる」とは、そういうことができるということである。それには、冠詞が理解できているかどうかが影響してくる。

 

rape と war には、冠詞がない。どちらも動態あるいは状態(あるものの動きや有様)を名詞化した概念、いわゆる抽象名詞だし、このフレーズ全体が、動態あるいは状態を表す抽象名詞だからである。ある文脈での特定の rape 事件なら、theで特定性を表すこともできる。

 

それでは、weapon に冠詞の a があるのはなぜか。weapon 「武器」「兵器」とは、殺傷・破壊という特定機能のために、物質がとる「形態」の名前であり、形態をもつものは、独立した<個>の面をもつ。そしてここでは、冠詞 a が、weapon という形態がもつ<種>の面も表している。a weapon で、「一種の兵器」といった意味である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 12:06 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
英語冠詞の a(n) は、英語独特の「形態」を表す 「兵器としての強姦」について その1

英語をやりたい、やる必要がある人はかなり多いと思うが、そういう人に一言アドバイス。

 

英語を本当にやりたいなら、発音、文型、冠詞、前置詞の四つを攻略するとよい。

 

どれも、日本の英語教育で軽視されたり、説明不足だったりするものばかりである。だが、軽視や説明不足の原因は、それが重要でないからではない。

 

日本語と英語の大きなちがいは、とくにこの四つに現れている。にもかかわらず(だからこそ?)、日本語に「訳す」と視野から抜け落ちやすいし、そもそも理解と習得の方法がよくわからない。ゆえに、見て見ぬふりをするか、わかったような気分でごまかすしかなかった。

 

われわれ日本語人の多くが英語をものにできなかったとすれば、それは英語を使う機会がないこともあるが、この四つがよく理解できておらず、説明もされていないことも一因である。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 12:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
人は観念で報復する 米連続殺人犯に「七生」の刑

久しぶりにドラマっぽいものが見たくなって、米CBSの番組"48 Hours" から、 "Serial Confessions" という犯罪の実録を見た(2017年6月放送)。

 

 

 

http://www.cbsnews.com/news/todd-kolhkepp-case-confessions-of-the-s-c-serial-killer-kala-brown-rescue/

 

 

 

ノースカロライナで成功した不動産業者の男(白人)が、じつは七人を殺害した serial killer だったという実話。何度も人を殺しながらつかまらず、自分が管理し、他人が入れない広い土地に小屋をつくり、そこに女性を二ヶ月監禁していたのが発覚して逮捕された。

 

つかまったあとはあっけらかんとして罪を認め、「外で、俺の後頭部を撃って殺してくれ  Take me out back, shoot me in the back of the head.」とうそぶく始末。

 

しかし、犯行をすべて認めるのとひきかえに死刑は免除され、この男にくだった刑は、「七生プラス60年」であった。"He was given seven consecutive life sentences plus 60 years."

 

「七生(しちしょう)」というと、仏教ではこの世に七回生まれかわるほどの長い時間をいい、「七生報国」などと使う。

 

この男の場合、七人殺したから「七生」なのだろうが、この判決には、人間の観念性がよく表れていると思う。

 

七回生まれなおしても、すべて刑務所、プラス60年。たんなる表現、観念の問題のようにもみえるが、それにも意味がある。

 

事件の処理は、民事なら賠償金など、刑事では刑罰ということになるが、いずれも観念の世界での報復が目的である。

 

人間は、社会は、観念の世界をもっている。ある意味でそこが、人間の究極の住処である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 06:03 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
概念は「幽霊」(マルクス)である

商品生産社会では、労働は具体的有用労働として使用価値を生み出すと同時に、抽象的人間労働として価値を生み出すという話が資本論に出てくる。

 

具体的有用労働のほうはイメージがわきやすいが、抽象的人間労働は、どの労働でも同質であり、量(時間)によって測るしかないような抽象的なものだというのだから、少々わかりにくい。

 

この点について、資本論はかなり懇切に説明している。

 

たとえば、裁縫と織布は異なる二種の具体的有用労働だが、一人の労働者がかわるがわる、両方行っている状態を考えることもできる。ある季節には農民で、ある季節には建設労働者になる人もいるかもしれない。

 

裁縫と織布、農作業と建設労働は、具体的有用労働としては質が異なるが、一人の人間が両方こなしうることを考えると、両者に「同じ実体」すなわち単一の抽象的な人間労働が含まれていることがイメージしやすい。

 

どれも同一の人間が行う労働である以上、共通した「実体」が含まれているはずである。

 

ここまでくれば、それが労働者Aであるか労働者B であるか、労働Cであるか労働Dであるかとは無関係に、人類がおこなう商品生産活動すなわち「労働」という抽象的な質そのものの存在が見えてくる。

 

こうして、

 

 

「労働の有用的性格を度外視すれば、労働に残るのは、それが人間的労働力の支出であるということである。それら[裁縫労働と織布労働]は、人間的労働力を支出する二つの異なった形態にすぎない。」

(マルクス『資本論』第一巻第一編第一章「商品」、資本論翻訳委員会版、新日本出版社、75頁)

 

 

このように、マルクスがいう「抽象的人間労働」とは、動物ではなく「人間」であれば通常可能な労働行為のことで、「人間の脳髄、筋肉、神経、手などの生産的支出」すなわち「平均的に、普通の人間ならだれでも、特殊な発達なしに、その肉体のうちにもっている単純な労働力の支出」のことである。(前掲書、75頁)

 

動物でも植物でもない、類としての人間がおこなう商品生産活動ならば、それは抽象的人間労働である。

 

労働について言えることは、同じく人間ならではの活動である言語についても、あてはまる。

 

「人間にしかない、労働といえるもの」が抽象的人間労働であるならば、「人間にしかない、言語といえるもの」が「言語」である。このレベルでは、どこの言語であるか、方言か標準語か、どんな発音体系・文字体系か、といった「具体的有用言語」のレベルの要因はすべて消失して、いわば透明で均質な「言語」があるばかりである。ここに、「抽象的人間言語」とでもいうべきものが浮かび上がってくる。

 

マルクスは、抽象的人間労働においてはあらゆる具体性が消失し、「幽霊じみた対象性 gespenstige Gegenstaendlichkeit しか残っていない」と描写した。(マルクス『資本論』第一巻、筑摩書房版、60頁)。

 

同じように、抽象的人間言語においては、あらゆる形態や具体性は消失し、「幽霊」のような実体だけが見出せる。この実体が、概念である。

 

言語の理論は、この抽象的人間言語=概念を最奥の実体性として構築されねばならない。

 

 

 

追伸:言語という概念の世界では、人間は幽霊の世界にいる。言語では、人間は幽霊になるのだから、完全に幽霊としてふるまえばよい。この原理がわかっている人が、いっちゃってる人である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 05:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
”いっちゃった” 世界のほうが本物の世界だ おわり

そもそも観念は、人間の生理的機能のうえに、新しい機能を加えることによって生まれたものである。

 

たとえば、人間特有の観念的活動のひとつに言語があるが、言語の声に使っている人体の器官には、声専用のものはひとつもない。

 

声帯は、もともと気管に飲食物が入らないようにするための門であり、声帯の原音を共鳴させる声道、咽頭、鼻腔は、がんらい呼吸器官であり、声を調整する歯、舌、唇は、もともと消化器官である。人間は、生物として生存を確保するための人体器官を応用し、言語のために再利用しているのである。

 

宗教もまた、これに似た面がある。宗教は本質的には観念であるが、それは寺院、聖像、僧衣、経典、朗唱、儀式などの物理的な装置によって荘厳され、人間の組織によって布教され維持される。宗教は、社会組織としての生存を確保するための物理的・人的装置を動員し、うまく利用しているのである。

 

しかし、だからといって言語や宗教は、物質に依存する二次的な虚構の世界だとばかり考えるのは、早計である。それもそうだが、ここではむしろ、言語や宗教が、あれこれの思想よりもはるかに長い生命力をもつことに注目したい。

 

いったん成立した言語や宗教は、独自の観念の世界を形成し、自律的に発展していく。生理的・物理的な基盤から跳躍し、独自の非生理的・非物質的な世界を創造する。それは「いっちゃった」世界である。

 

私がいいたいのは、いっちゃった世界では、いっちゃったことを考えればいい、ということである。

 

普通の世界から、なぜいっちゃったかと質問されたら、思いついたことを答えておけばいい。いっちゃった世界は言葉では説明できない。説明できなからこそ、いっちゃってるのだから。

 

考えようによっては、いっちゃった世界のほうが、本物の世界である。それは人を鼓舞し、人に希望を与えるからである。

 

じっさい希望とは、いっちゃった世界そのものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 13:06 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
”いっちゃった” 世界のほうが本物の世界だ その2

じっさい、人間にとって観念が実在しないとすれば、「三時から会議する」という通常の社会行為でさえ成り立たない。「三時」も「会議」も観念にほかならず、この共通の観念に従って各自が行動するから、この会議は行える。「三時から会議する」という観念の実在は、人間の行動によって日々証明されているのである。

 

問題はここからだ。

 

「三時に会議する」なら、普通である。観念の世界の真髄は、そんなところではとどまらない。

 

観念は、「いっちゃう」レベルまでいって本物になる。

 

「いっちゃった」例として、宗教がある。

 

世界史をみると、イスラム教、キリスト教、仏教、ヒンドゥー教といった信者が十億人を越える大宗教は、いずれも古代の大文明から生まれ、あるいは大文明を生んだ観念で、今日まで千年以上の生命を保っている。

 

哲学と称するような思想は、時代とともに死んだものが大半なのに、こうした宗教は時を超えて生きている。

 

それは、宗教が「いっちゃってる」からである。

 

時代が変わろうが、王が死のうが、国家が交代しようが、常識が変わろうが、宗教が与える観念は地上のあらゆるものを超えている。

 

じつは、こうした超越的な観念の体系こそ、<観念のなかの観念>であり、観念の底力を示すものだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 12:32 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
”いっちゃった” 世界のほうが本物の世界だ その1

ここ数年、私が模索してきたのは、観念の世界の根拠づけである。

 

 

 

「観念的なものは、物質的なものが人間の頭のなかで転換され翻訳されたものにほかならない。」(マルクス『資本論』第二版後記(1873年1月)、岡崎次郎訳『資本論』第一分冊、大月書店、40-41頁)

 

 

 

かつてこうした言葉は、「観念といわれるものも、結局は物質のあり方にほかならない」という意味に理解されることがあった。

 

人間の心のなかで、観念はどのような論理にしたがって生成されるか。人間存在のこの基幹部分が解明できなかったことも手伝って、観念はただの仮象(人間の思い込み)で、本当に存在するのは物質だけであるといった、単純化された「唯物論」が隠然たる力をもつことがあったのである。

 

マルクスは、そういう意味での唯物論者ではなかった。例えば、マルクスのこの文にある、「人間の頭のなかで転換され翻訳される」というプロセスは、観念の生成そのものである。上記の引用文でマルクスは、むしろ人にとって、目に見えない観念が実在することを認めていると読むべきであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 12:14 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
”いっちゃった”人には勝てません 

最近、新聞に川久保玲さんのインタビュー記事が載っていた(朝日新聞、2017年6月22日)。

 

 

 

「うちみたいな裏街道」

「新しいことをいつも探していることが使命です。探し続けるだけです」

「ファッションデザイナーはアーティストではありません。ファッションはビジネス」

「私の仕事は新しいものを作ってビジネスにのせることです」

 

 

 

これを読みながら思い出したのは、以前にテレビで、ドン小西さんが言ったセリフ。

 

有名人のファッションを批評するコーナーで、司会者が「ところで、ドンさん、ご自分のファッションを批評するとどうなりますか?」と水を向けた。するとドン小西氏が、

 

 

 

「オレはもういっちゃってるからさ」

 

 

 

思わず笑ったが、これは名言ではないか。

 

世の中には、いっちゃってる人がときどきいる。川久保玲しかり、ドン小西しかり。どの街にも、いっちゃってるおじさん、おばさんが何人かいるのではないだろうか。

 

先日、起業アドバイザーをしている人が、「スティーブ・ジョブズは、人が理解に苦しむくらい、IT製品づくりが好きだった。だから人がついてきたのだ」と言っていた。ジョブズも、いっちゃった人だった。

 

人生、いっちゃうのが正解である。大正解である。

 

いっちゃった人に、いまさら「もどってきて」とは誰も言わない。なぜいっちゃったのかもわからないから、ついていくしかない。

 

ついていくしかないとき、その人がボスである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 11:14 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
三層の思想で生きる おわり

同じことは、諸個人が関係を結ぶ「社会」についてもいえる。

 

社会にも、富・志・語の三層がある(マルクスの「土台・上部構造・意識諸形態」)。なかでも社会を先導するのは「志」である。会社という社会の志は、社訓などで表現される。近代国家という社会の志は、憲法で表現される。

 

いま話題になっている憲法改正は、日本という国家の「志」を正式に変更しようとするもので、その変更は、日本の富と語のあり方にまで影響を与える。

 

 

...

 

 

 

思想のエッセンスは、志(こころざし)である。認識論でもなければ存在論でもない。どんな神をあがめるかでもない。ましてや、過去の人がそれで生き、今はそれで生きる人がいない死んだ思想は、参考にはなっても自分の思想にはならない。

 

以上は、思想とはどういうものか、という形式的な規定であって、特定の思想内容を述べていないようにみえるかもしれない。だが、思想とはなにかを形式的に規定することは、思想を考えるさいの前提であり、それじたいが思想である。

 

これまでの「思想」に欠けていたものは、このような「思想という形式についての思想」なのだ。

 

思想とは、志に先導された自覚的な生き方という形式を指す概念であり、その内容は、個人や社会が個別に決めるものである。学業であれ、仕事であれ、家族の幸福であれ、その実現が自分の念じる志であるならば、その念は自分の思想である。若いころは志がいくつもあり、どれも可能のような気がするものだが、それも自分の志のあり方である以上、しっかりと念じるなら、どれもが自分の思想である。

 

また、人が生きているなかで漠然と信じている内容は、ある種の思想といえるかもしれない。「私はいつか死ぬだろう」とか「少しでも世の中の役に立ちたい」といった感覚的な内容も、人がそれをもとに生きているなら、思想といえるかもしれない。

 

ただ、思想というときは、もっと自覚的で明確なものでありたい。それで生きている live by it といえるような、力強さがほしい。

 

自分は、この社会は、なにをめざしており、そのためにどんな富、どんな語りがふさわしいかを、自分で決めて、着実に実行すること。それが「思想をもっている」といえる生き方である。

 

 

 

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 06:57 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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