ごきげんようチャンネル


みにつもる ことばのつみも あらはれて こころすみぬる 三重(みかさね)のたき

   『山家集』1118

なぜ神仏習合の話はいまひとつおもしろくないか

日本の神仏習合について読むことがあるが、少し物足りない感じがする。

 

神職が書き残したものとか、残された図像を概念的に認知して、「神仏習合」の論理を分析し、論文や著書にする。

 

そういうケースが多いのは理解できるし、それは必要なことだ。

 

だが、書物や図像は、現象である。現象の背後には、それを「つくる」プロセスがあったはずで、「つくる」プロセスの規範は、土台や上部構造によって規定されている。

 

言語や図像という意識形態を支えた、土台や上部構造からの規定の変化と不変に目をむけると、神仏習合論は、もっと本格的な学問になる。

 

寺社の敷地プランや建築物の様式、寺社を支えた土地所有関係や領主・村民との社会関係、寺社じたいの組織のあり方、書物や図像の作者の立場などももっと視野に入れるとよいと思う。

 

そうすると、神仏習合という問題意識じたい、明治の神仏分離という劇的な事件に強く規定されてきたことも、より明瞭にわかってくるのではないか。

 

あることが現象した背景の説明が十分にできたとき、人はその現象を「論理的」「必然的」と感じる。

そのとき歴史の運動は、過去の社会のあり方じたいから理解され、われわれは歴史から学ぶことができる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
土台は、なぜ社会の基礎か

人間社会を物質的に支えるものを「土台」と呼ぶことがある(マルクス『経済学批判』序言)。

 

物質的なものを社会の「土台」と呼ぶのは、それなりの理由がある。

 

たとえば、神社の敷地と建物は、社会の「土台」のひとつである。そこで働いたり祭りに参加する人たちは、神社という組織=上部構造の成員である。神社の敷地と建物は、村人が住む村落や、領主が治める領地という人間の組織、つまり上部構造の入れ物になる。

 

そして、神社の神域の配置や建物の構造は、神社という上部構造がもつ意識を具体物で表した形態、すなわち意識形態でもある。

 

米のような食料は、建築物とちがって、年々生産されては日々消費されるが、これも人間社会を物質的に支える「土台」であり、建築物と同じことがいえる。

 

土台たる米は、その生産を支える人間の組織すなわち上部構造が、それをめぐって展開する物質である。すなわち米の生産方法、流通方法は、人間の組織=上部構造そのものである。

 

そして、米が精米され、保管・運搬され、消費される。その姿は、人間の意識形態でもある。

 

建築物や米は、上部構造の拠点であり、意識形態の表れでもある。つまり土台(物質的な存在)は、他の力を借りることなく、それじたいが上部構造・意識形態を表しており、自立している。

 

上部構造や意識形態は、そうではない。

 

上部構造は、土台や意識形態によって表されるほかなく、意識形態は、土台(物質的な素材)や上部構造によって表されるほかない。つまり上部構造と意識形態は、たがいを必要とし、どちらも土台に依存してはじめて存在できるという意味で、自立性に欠けている。

 

地所があってはじめて家が建ち、地所と家は人間の意識のあり方を表す。

 

それと同じように、土台(物質的なもの)を拠点にして上部構造(人間の組織)が活動し、土台と上部構造は人間の意識を表す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「上に立つ人」は、強くて優しい人

「上に立つ人」を何人かみてきたが、ひとつ気がついたことがある。

 

そういう人は、優しいのだ。

 

優しい人は、人を傷つけない。

 

リーダーは目的を設定し、人を率いてそれを遂行しなければならないから、その点では強さが必要。

 

だが、厳しさが表に出てしまう人は、リーダーとしては二流。厳しさが他人に向かってしまい、人を傷つける人には、まわりの人が心からついてこない。

 

自分への厳しさ=強さで人を優しくリードする人が一流。組織はおのずから発展する。

 

そしてサブリーダーの存在。すぐれたリーダーには、知恵のある忠実なサブリーダーがついている。

 

リーダーとサブリーダーがどういう関係にあるかが、組織全体の団結と発展を規定する。

 

 

社会は組織によって運用される。人の組織は、すぐれた建築物のように、堅牢であると同時に人を優しく導くものがよい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
地上の上部構造は組織の入れ物 マルクスの比喩は相当うまい!

海野聡(うんの・さとし)『建築が語る日本の歴史』吉川弘文館、2018年7月。

 

「建築は歴史の舞台であり、歴史を語る生き証人」1頁

 

従来の建築史学は、建築の技術面に焦点をあてる傾向があった。だが現存する建築物は、歴史的経緯をへて継承されたものであり、その存在じたいが歴史を語っている。そういう角度から、歴史的建築を見直した本。

 

そういう目でみると、建築物とか構造物というものには、三種類あるように思う。

 

 

 

 地面の上にたつ建築物は、マルクスのいう「上部構造」の入れ物である。

 

建築物じたいは物質であり、社会の<土台>であるが、人間の組織は、都市を囲む壁、墳墓、寺社教会、城、塔、公共建築物、ビル、人家など、地上の建築物を拠点にして活動する。

 

マルクスは人間の組織を「上部構造」と表現した。たしかに、組織という人間世界の「上部構造」は地上の建築物すなわち「上部構造」を拠点にしている。

 

ある社会の主要な上部構造(国家権力などの大組織)がどのような建築物を拠点にしているかを見ると、歴史の変遷がわかる。

 

 

他方、構造物は地下にも作られる。運河、水路、港湾、トンネル、地下鉄といったものがそれである。

 

山や谷のような地形のあり方も、人間が利用するときは構造物(土台)の一種である。だから人間は、山を崩したり谷に橋をかけたりして改変してきた。

 

地下のものは、目立たない。土台のなかでも下のほうにある、いわば<土台のなかの土台>である。

 

これらの地下構造物の変遷を見れば、社会の深部の変化がわかる。

 

 

 

そして、両者の中間もある。地表の道路や鉄道や航路、そして山林や耕地。作業場や機械類も、地表にありながら移動も可能な構造物であり、人間の労働(生産と交通)がおこなわれる場である。

 

これらは地下の土台と地上の上部構造の中間物、あるいは両方の役割を兼ねる存在かもしれない。

 

 

 

地上にせよ、地下にせよ、地表にせよ、土台の特徴のひとつは、人間よりも寿命が長いこと、そしてたとえ壊される場合でも、物理的に次の土台の前提になることである。

 

「土台」をつくった人たちは亡くなっても、残った建築物やその遺構は、社会の物質的基盤として長い生命力をもち、かつ歴史の「生き証人」となる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
神は音楽 生命は歌 生活はストーリー 

「神とは音楽だ  To me, God is music. 」

 

と私にいったアメリカ人がいた。

 

なるほど、うまい。だが、人間は音楽一般を聞くことはできない。

 

音楽一般を具体化したものが必要だ。それが歌である。

 

聖典、聖人、聖像は、われわれに「生」と「死」の意味を繰り返し歌う。

 

人々の生活も歴史は、歌のストーリーである。

 

われわれはストーリーによって、現実の世界から観念の世界へとトランス(自己超越)する。

 

「死」=「不帰」とは、現実の世界から観念の世界へのトランスをやめることだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:03 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
遊女言葉と兵隊言葉 一石二鳥の発明品

兵隊をやらせて下手な男優はおらず、遊女をやらせて下手な女優はいないという。

 

これと呼応するかのような話が、言葉にもある。

 

軍隊では、命令や伝達が口頭で行われることも多く、聞いただけで誰もが一律に理解できる必要があった。ふだんの地方語を超える画一性と、軍隊らしい厳格さが求められたわけで、そのためにも堅苦しい漢語が日本軍では大量に作られた(安田敏朗『「国語」の近代史』中公新書、41-42頁)。「〜であります!」のように語尾を硬い表現で統一することも、近代日本で軍隊言葉を普及させるのに効果的だっただろう。

 

遊女の言葉も、つくられた言葉であったという指摘がある。

 

 

「遊女は『オザンス』『ナンス』等の特徴的な遊女語を用いるが、これは、遊女が地方や下層階級の出であることも多く、本来の言葉遣いを簡便に隠すための人工的な言語であった。そこには、上品さ、優雅さを演出するための上方語的な要素も加味されていよう」(木田章義編著『国語学を学ぶ人のために』世界思想社、2013年、24頁)

 

 

どこの言葉でもない語尾表現をつくりだすことで、遊女の出自を消去し、同時に艶っぽい新価値を創出したのだろう。いわば一石二鳥である。

 

舞妓の言葉についても、似た話を聞いたことがある。いかにも京言葉に聞こえる舞妓の語りは、入門者の地方なまりを消し、客に特別感を与えるために教えこむ独特の言語であり、京の人々の日常語とはちがっているという。

 

 

兵隊、遊女、舞妓。

 

 

それだけではない。近代国民国家という観念世界をつくるため、明治の言文一致体や標準体による「国語」が創出されたが、その背後にあったのは、<新表現による普遍性の創造と個別性の消去>という一石二鳥のロジック(弁証法でいう直接的統一)であった。近代国家では、全ての国民が<標準>を身につけることで、<特殊>を喪失していく。日本では、そのときのポイントは、新漢語の普及と語尾表現の統一であった。

 

NHKで見事な標準語?を話すアナウンサーがいた。てっきり東京出身だと思っていたら、じつは京都出身だと聞いて、ほんとうに驚いたことがある。そういう「隠れ地方者」のアナウンサーは、けっこういるらしい。入局後にアナウンサー志望者におこなわれる「NHK語」の訓練も、全国標準を身につけさせることで出身地の形跡を消去する。一石二鳥である。

 

英語のような有力言語の簡易版(たとえばグロービッシュ)や中立版(たとえば「国際英語論」)が、それぞれの母語の違いを物質的・観念的に消去しつつ、国際的な意志疎通を容易にするものとして正当化されるのも、<標準をつくって学ばせることが特殊性を消し去ることになる>という一石二鳥である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
バッハの両眼 

バッハのマタイ受難曲の終曲。

 

久しぶりにラジオで耳にして、心が湿った。

 

この作品は、福音書の記述の音楽的再現というだけでなく、バッハによるイエスの物語の主体的解釈という面がある。

 

日本語訳ではわかりにくいが、終曲のドイツ語歌詞には、Ruhe (英語なら rest, peace)という語が何度もでてくる。しかもじっさいの演奏では、次の言葉が何度も何度も、抑えめの抑揚で繰り返される。

 

 

Ruhe sanfte, sanfte ruh!      お休みください、安らかに。 安らかに、お休みください!

 

 

こういう言葉は、マタイ福音書にはない。

 

 

ちょっと気になるのは、最終行で、満ち足りて眠りにつく "die Augen" (the eyes)とは、誰の「両眼」なのだろうということ。

 

これは、その前にでてくる Seelen (souls)、つまり「悩める魂たち」の「両眼」なのだろう。

 

それは私たちの魂のことだが、その背後に、受難のイエスの魂もあるように感じられる。

 

イエスもふくめて、みんなの魂が満ち足り、「両眼」が眠り Ruhe につくとき、この世は完成するのだろう。

 

先日亡くなった、バッハ研究の磯山雅さんのことを思い出した。

 

 

Ruhe sanfte, sanfte ruh!  

 

 

 

 

...

 

 

 

【資料】

 

 

マタイ受難曲 Nr.68 Chor 

 

Wir setzen uns mit Tränen nieder      私たちは涙してひざまづき

 

und rufen dir im Grabe zu,       そして、墓の中のあなたに呼びかけます。

 

Ruhe sanfte, sanfte ruh!      安らかにお休みください、やすらかに。

 

Ruht, ihr ausgesognen Glieder!      お休みください、疲れ果てた御体よ!

 

Ruhe sanfte, ruhet wohl!     安らかにお休みください、やすらかに。

 

Euer Grab und Leichenstein      あなたの墓と墓石は、

 

soll dem ängstlichen Gewissen      悩める良心にとっては

 

ein bequemes Ruhekissen        ここちよい憩いの枕、

 

und der Seelen Ruhstatt sein.        魂の憩いの場となるべきもの。

 

Höchst vergnügt schlummern da die Augen ein.        こよなく満ち足りて、その眼は眠りにつくでしょう。

 

 

 

http://pacem.web.fc2.com/lyrics/bach/matai_2.htm

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 08:26 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
われわれは ”I” の一例にすぎない

人間の認識力は、はじめに「話し手」という概念をたちあげる。

 

意識のなかの話し手を ”I” と呼び, その他の認識対象を O と呼ぶと、

 

 

”I”   →   O

 

 

という関係になる。この関係を認識している認識力を P と呼ぶと、

 

 

”I”   →   O

    ↑

    P

 

 

のようになり、この関係を規律する概念=規範を n (norm) と書くと、

 

 

”I”     O

   ↑ ← n

   P

 

 

のようになる。

 

認識力 P からみると、P は ”I” と同一とみなせることが多いので、”I” とは、もっぱらこの私=P のことだと思いがちだ。

 

じつは、P は ”I” でありうるもののうちのひとつにすぎない。

 

このことは、視点を換えて、 ”I” のほうから見ればわかる。

 

たとえば、He said, "I am tired." という文で、 ”I” は he であって、話し手 P ではない。

 

現実の世界に住まう P よりも、言語の世界の ”I”  のほうが広い。

 

われわれは、”I” とは「話し手」を指す一般概念であることに、なかなか気づかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
言語表象(音声・文字)は、感性的側面と超感性的側面の相互浸透である

音声・文字は、概念の表象(「直感的に浮かぶ感覚的な心像」日本国語大辞典)である。表象は、次の二つの側面をもつ。



音声・文字は、人間の身体運動が生む感性的形式である。

 

音声・文字は、概念と結びついた超感性的形式である。

 


構造言語学が音声の要素である音素をもっぱら感性的特徴によって分類しようとしたり、音声学が音素の物理的特徴を解明しようとしても、困難が立ちふさがる。

その原因は、音素は人間身体の感性的形式=動素のひとつだから、たんに物理的音響としてではなく、身体運動の規範として見なければならないし、同時に、音素は概念と結びついた超感性的な存在でもあるから、感性的特徴だけでは全体が解明できないからである。

 

そして音声と文字は、互いの性質を受け取ることでつながりを深め、かつ互いの独立性を失わない。こうしたウィン・ウィンの関係を、相互浸透と呼ぶ。

 

音声・文字の感性的側面が整備されると、音声・文字が表す超感性的な側面(概念)も洗練されやすい(相互浸透)。

 

言語学は、こうした複合的な相互浸透の発展の様相を研究しなければならない。


 

 

 

 

 

 

 





 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
言語世界が独立するロジック 認識から概念へ、概念から表象へ

リンゴの色や形などの感性的側面は、個体ごとに異なる。すなわち特殊性をもっているが、赤いとか丸いとか酸っぱいなど、すべてのリンゴに共通する属性も存在する。

その種類に属するすべての物事に共通する属性を、「普遍性」という。人間は、こうした普遍性を認識する力をもっている。

<対象の普遍性=種類としての側面をとらえた認識>という特殊な認識を、「概念」と呼ぶ。概念は抽象的な人間の心のあり方なので、それじたいには音も形もない。

この抽象的な概念を、それに対応する日本語の音声や文字で表現すると、「リンゴ」という語になる。

 

いったん「リンゴ」という語を覚えた人は、丸くて赤いものを認知したとき、個々の感性的な特殊性を止揚しつつ認識をつくり、心内に保存していた普遍的規範=概念にあてはめて、「リンゴ」と語る。このとき、リンゴという語の音声や文字は、もはやもとのリンゴとはかけ離れている。

もとのものとは似ても似つかない音声や文字、つまり身体の運動によっていつでも表現できる要素(動素)の集まりに変換できるからこそ、私たちは対象が目の前になくても、語を操作することで概念を操作し、自由に思考したり表現したりできる。

 

こうして言語の世界が現実の世界から独立する。

 

人間の普遍性認識力は概念(内容)をつくるが、概念には感性的形式が欠けており、操作・表現がしにくい。この限界(矛盾)を突破するために、概念はみずからの形式たる表象(音声・文字)をつくる。概念と表象が言語規範となり、それにのっとってわれわれは肉体をうごかし、言語という表現をつくる。こうして、言語の世界が現実の世界から独立する。

 

 

 

 

 

...

 

 

【資料】

 


「音韻とは音声の、言語規範によって規定された種類としての側面である」(鈴木覚「関係詞論」横須賀とし子『胸中にあり火の柱 三浦つとむが遺したもの』明石書店、2002年、179頁)

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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