ごきげんようチャンネル

"Life is too short to wake up with regrets." author unknown
           

文字の力・編集の技 新古今・聖書・論語

田淵句美子『新古今集 後鳥羽院と定家の時代』(角川選書、2010年12月)。

 

後鳥羽天皇が上皇になって(1198年)から承久の乱で隠岐に流される(1221年)までの20年余り。鎌倉幕府が成立して間もないころ。醍醐天皇の古今集(910年ごろ)につづく<中世初期のルネッサンス>ともいうべき宮廷文化が華ひらいた。

 

後鳥羽院(1180–1239)は身体強健の全能人で、騎馬、武芸、水練、刀剣の鑑定、蹴鞠、笛、琵琶などの技芸をたちまちマスターした。

 

彼は和歌にも打ち込み、さまざまな趣向をこらした歌会を開く一方、広く歌を募集して秀歌を編集させた。その精華が新古今集(約二千首)である。

 

歌は他の技芸とちがって文字になる。文字はコピーできるので諸種の写本が生まれ、新古今は今日まで残存した。

 

後鳥羽院の話で印象に残るのは、彼がヴァーチャル編集の技術を使っていることである。

 

隠岐に流された後鳥羽院は、隠岐と京都の歌人たちに歌を作らせ、それを隠岐に送らせて、みずから歌集をつくった(『遠島御歌合』田淵前掲書、215頁)。

 

七百年以上も前に京都から日本海の隠岐まで歌を送らせ、互いに会うことなく、文字のうえだけで編集して歌集ができたのである。

 

まるで今日のメール送信やデジタル編集である。

 

 

遠距離送付と切り貼りによる、時空を越えたデジタル編集技術は、江戸期に編集された俳句の「句合(くあわせ)」でも活用されていた。

 

たとえば、仙花編の『蛙合(かわずあわせ)』(貞享3年)は、芭蕉庵に集まった俳人たちが20番の句を競いあい、その結果を判定したという体裁になっている。

 

ところが実際は、俳人たちが一堂に集まってつくったのは一部分で、じつはその後時間をかけて、「折にふれ番(つが)えられて完成していったもの」であった(楠元六男『江戸の俳壇革命』角川文芸出版、2010年、4353頁)。

 

現代でも、雑誌のインタビュー記事なるものが実際にはメールのやりとりを編集したもので、現実には会合していない場合がある。

 

こうした編集を、事実や外見を裏切る不当なやり方と見る向きもあるだろう。

 

しかしこれを、文字という物質的存在の、人間からの独立性を利用した技術的工夫とみることもできる。

 

キリスト教の聖書や論語のような中国の古典も、もとは散在していた資料を、文字の独立性を利用して編集したものとされている。

 

 

 

 

 

 

後鳥羽ルネッサンスを生んだ情熱は、後鳥羽院の死去を契機に衰退していった。短かかったとはいえ、強力なリーダーが美意識を先導した時代であった。

 

その息吹は文字によって、今日に伝わっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 言語の資本論を書く | 09:17 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
土台とは、人の生活のことである 史的唯物論の概説本を読み直す

金子ハルオ『経済学 上 資本主義の基本的理論』(新日本新書、初版1968年)

 

ずいぶん前に出た本だが、マルクス経済学や史的唯物論の一般向け概説書として、かつてはよく読まれた(手持ちの1986年4月版で、50刷)。

 

この本には、今日見てもなかなか柔軟な説明をほどこした部分があって、おもしろい。

 

たとえば、「労働力の価値」については、次のように説明している。

 

資本主義の社会では、労働力の価値は「労働者とその家族(その社会の標準的な労働者一家)が生活するのに必要な生活手段の価値に等しい」。そして、その「生活手段」の費用には三種ある。74-75頁。

 

費用の三種とは、

 

]働者自身の維持費...日々の労働による生命エネルギーの消耗を回復するために必要な費用

家族の生活費...次世代の労働者を補充するために必要な費用

O働者の育成費...労働者の技能育成と熟練のための費用

 

である。そして、この費用には、物質的要素だけでなく精神的要素が含まれていることを、次のように説明している。

 

 

 

労働力という商品も、価値と使用価値をもっています。...労働者の生活は、社会的にみると、洋服を着たり食事をしたりする物質的・肉体的生活であるだけではなく、本を読んだりテレビを見たりする精神的・文化的生活でもあるのですから、労働力の価値は、他面からみれば、ほかの商品の価値のばあいとはちがって、物質的要素のほかに精神的要素を含んでいます。」(74-75頁。太字は引用者)

 

 

 

別の箇所では、この本は「生産関係の総体」を「土台」と呼んでおり、「生産力」は「土台」と対立的に統一されるもので、この土台(生産関係)と生産力の矛盾が、「人間社会の発展の原動力」だと述べている。27, 29頁

 

これだと、生産力すなわち技術や機械の力を含む人間の労働力は、「土台」ではないことになる。労働力じたいは上部構造でも意識諸形態でもないから、もし労働力ひいては生産力が「土台」に含まれないとすれば、労働力は社会のどこにも居場所がないことになる。

 

ところが、上記の引用部分では、労働力は「商品」すなわち生産関係の産物であると明記している。そして、「労働力の価値は...精神的要素を含んで」もいるのだから、けっきょく、労働力を売る人とその家族の全生活が、「土台」であるはずである。

 

この本にみられるように、土台とは「歴史的な...社会の経済構造」27頁 である、といった説明が、過去にはよくあった。「経済構造」というと、工場やオフィスのような労働現場や、商品の売り場、ビジネスモデル、家計、雇用関係、産業構造、地域経済の結合状態、経済指標の変動のようなものがイメージされがちで、家族関係や娯楽などの精神的活動を含む、人の生活全体というニュアンスを感じにくいところがある。

 

社会は、意志的(組織的)富や意味的(意識的)富のあり方としてもみることができる。なかでも土台とは、社会全体を物質的富(人を含む)の生産・交通・消費のあり方からみる思想のことである。

 

土台すなわち物質的富(人を含む)の循環としての社会という見方は、社会をみるひとつの角度にすぎない。しかしそれは、<意識をもち組織をつくる物質・生物としての人>という面から見ているだけに、もっともベーシックな社会観であるといえる。

 

本書のような、1960年代末に出た概説本にも、「土台」とは社会全体を見渡すひとつの思想なのだということが垣間見えると思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | よみがえる史的唯物論 | 06:28 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
土台の思想 物質連関として社会をみよ

物質連関とは、広義には、文字通り原子・分子レベルの物質どうしの連関のことであり、宇宙はこの連関によって運行している。太陽系も地球も人間も生物も、物質連関の一部である。

 

しかし狭義には、物質的富の生産・交通・消費という角度からみた人の社会のあり方を、物質連関と呼ぶこともできる。これが、マルクスのいう「土台」である。

 

物質的富というと、商品や貨幣のような、人の労働が加わった物象 Sache をイメージする人が多いかもしれない。しかし、物質的富の中核は、観念的物質としての人である。労働主体たる人が、人を生産し、交通し、消費する。これが土台の中核的プロセスである。物象は、人が人を生産・交通・消費するための媒介である。

 

人が労働対象とする自然(地形、位置、地下資源、気候、植生など)は、土台が成立するための対象的条件である。

 

自然を対象的条件とし、物象を媒介として、人が人を生産し、交通させ、消費する。その様式を、人と人との「生産関係」、あるいは土台の「生産様式」と呼ぶのだと、私は考える。

 

この観点からみると、人の組織である上部構造は、土台そのものではないが、ことごとく土台の存立に寄与するためのものととらえることができる。子どもの生誕・養育・教育を担う家族・学校は、土台の主人公たる人づくりのための上部構造である。警察・軍隊・病院は、人や社会の安全を維持するための、いわば土台を枠づける上部構造である。企業や国家も、物質的富の潤滑な生産・交通・消費に寄与する上部構造である。確かな上部構造は、豊かな土台を生む。上部構造は人の集まりであり、それじたい物質的富とみなすこともできるから、上部構造は、土台のなかの上部構造だともいえる。土台なくして上部構造はなく、上部構造なくして土台もない。

 

そして、観念的物質としての人は、自分の意識を対象にして思考し、それを意識諸形態として表現する。会話、ニュース、スピーチ、文書、作品などを通して、人は意味を交換しあいながら、上部構造と土台を維持・発展・修正していく。多彩な意識諸形態は、柔軟な上部構造と土台を生む。意識諸形態もまた、広義の物象であり、それじたい物質的富とみなすこともできるから、意識諸形態は、土台のなかの意識諸形態だともいえる。土台なくして意識諸形態はなく、意識諸形態なくして土台もない。

 

こうしてみると、土台とは、現実の人々の人生(マルクス『ドイツ・イデオロギー』がいう Leben) を、物質的富の生産・交通・消費とみなす観点から、リアルに認識する一個の社会観、ひとつの思想である。

 

人を見たら、「この人も物質的富を生む物質的富だ」と思え。みずからをかえりみて、「自分は物質的富を生む物質的富として、本来の能力を発揮できているか」と反省しろ。建物、道路、コンピュータ、商品、お金をみたら、「これは人が生命を生産・交通・消費するための物質的媒介だ」と思え。政治家は、物質的富の源泉たる人々の労働が適切に編成されている社会かどうかを、つねに検討しろ。

 

人が人を生産・交通・消費する仕組みとしての社会。

 

土台の思想を身につけたとき、それがトータルに見えてくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | よみがえる史的唯物論 | 20:45 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
マルクス永遠の誤読 『経済学批判要綱』序説の場合 おわり

こうした誤読は、マルクスの文脈が複雑で、たどりにくいことも一因である。

 

しかし、原因はそれだけでなく、のちにつくりあげられていった「史的唯物論」において、主として物質的生産の様式が注目され、それがマルクスの社会観の基礎だという歪んだ理解が流布したことが関連していると、私は思う。

 

そして、のちの史的唯物論では、商品などの物象だけでなく、人の観念もまた社会的に規定されながら"生産 Produktion " されるという観点が弱かったことも関連しているだろう。

 

 

 

ところで、同じマルクスの「序説」には、上記の部分のあと、冒頭と同趣旨の文が再びくりかえされている。

 

 

「だから生産が話題になるとき、つねに話題になっているのは、ある一定の社会的な発展段階にある生産ー 社会的な諸個人による生産である。」(筑摩版、145頁。太字は引用者)

 

 

「諸個人による生産」という訳も、私の見方からすれば、誤訳である可能性がある。そこで、この箇所の原文をネット版で参照してみると、ややこしいことに、今度は別の意味での戸惑いを感じる。

 

 

 

Wenn also von Produktion die Rede ist, ist immer die Rede von Produktion auf einer bestimmten gesellschaftlichen Entwicklungsstufe - von der Produktion gesellschaftlicher Individuen.

 

(http://www.mlwerke.de/me/me13/me13_615.htm#Kap_1 太字は引用者)

 

 

 

最後の太字にした部分は、"Produktion der gesellschaftlicher Individuen" となるほうが自然に思えるが、どうだろうか。

 

 

 

...

 

 

 

こうしてみると、マルクスは、まだまだ正確に読まれていない。

 

このことは、字句の解釈や誤植の有無といった問題にとどまらない。マルクスは、本気で正確に読み直す必要がある。

 

正確に読めば読むほど、マルクスの思想は、現代のわれわれに正確な示唆を与えてくれるからである。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | よみがえる史的唯物論 | 17:20 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
マルクス永遠の誤読 『経済学批判要綱』序説の場合 その2

もちろん、この部分の正確な意味を把握するためには、後続する文との関係も考慮する必要がある。

 

だが、マルクスがつけた小題「(1)生産」の部分だけでも、訳本で九頁くらいある。しかもマルクスが生前公刊しなかった、比較的自由なメモであるから、その文脈をたどることは容易ではない。

 

こうした事情が、この文の正確な読解をむずかしくしている。

 

そこで、私の個人的な読解であることをお断りしたうえで、結論から述べてみたい。

 

先のマルクスの文にあった "produktion der Individuen" とは、「諸個人生産すること」であり、「諸個人生産すること」ではない。

 

この文のあとにつづく内容をみると、スミス、リカードが議論の出発点においた「ばらばらの個々の猟師や漁夫」(この訳文は、前掲の筑摩版142頁による。以下同じ)や、ロビンソン物語の歴史的起源である。つまり、ここでマルクスが問題にしているのは、なぜ過去の経済学は、こうした「生まれながらに独立した主体たち」142頁という観念から出発したのか、ということである。

 

この問いに対するマルクスの答えは、その直後に書かれている。

 

 

 

「18世紀のこの個人は、一方では封建的な社会形態の解体の産物 das Produkt であり、他方では16世紀以来、新たに発展した生産力の産物 das Produkt であった。」(筑摩版、143頁)

 

 

 

ここにいう「個人」とは、スミス、リカードが議論の出発点においた「ばらばらの個々の猟師や漁夫」のことである。

 

こうした「ばらばらの」諸個人、「生まれながらに独立した主体たち」というのは、当時の経済学が社会的に規定されて観念的に生産したもの、すなわち "gesellschaftlich bestimmte Produktion der Individuen" だと、マルクスはいうのである。

 

ここにいう”諸個人の生産 Production der Individuen" とは、諸個人による物質的生産のことではなく、いまみれば「ばかばかしい」144頁 ような”ばらばらの諸個人”という観念を、過去の経済学が生産したことを指している。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | よみがえる史的唯物論 | 17:12 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
マルクス永遠の誤読 『経済学批判要綱』序説の場合 その1

マルクスが残したメモである『経済学批判要綱』の「序説」(執筆1857年。マルクス39歳)を、筑摩書房版の訳で読みはじめたところ、冒頭の部分にちょっとした違和感があった。

 

その訳文は、こうなっている。

 

 

 

 

「(1)生産

 

(a)当面の対象は、まず物質的生産(である)。

 

社会のなかで生産する諸個人 ー したがって諸個人の手でなされる社会的に規定された生産こそが、当然ながら出発点である。」

 

(筑摩書房マルクスコレクションIII、2005年刊、142頁より。太字は引用者。以下、「筑摩版」と呼ぶ)

 

 

 

 

違和感があったのは、私が太字にした部分である。

 

 

マルクスの原文は、次のようになっている。

 

 

 

 

 

1. Produktion

 

a) Der vorliegende Gegenstand zunächst die materielle Produktion.

 

 

In Gesellschaft produzierende Individuen - daher gesellschaftlich bestimmte Produktion der Individuen ist natürlich der Ausgangspunkt.

 

 

(http://www.mlwerke.de/me/me13/me13_615.htm#Kap_1 太字は引用者)

 

 

 

 

 

この部分の岩波文庫版(初版1956年)の訳は、

 

 

 

「一 生産

 

a) ここでとりあつかう対象は、まず物質的生産である。

 

社会で生産をおこなっている個々人、したがって個々人の社会的に規定されている生産が、いうまでもなく出発点である。」(287頁。太字は引用者)

 

 

 

となっている

 

 

逐語的に訳すと、岩波文庫版のように「個々人...生産」のようになるのが通常で、大月書店版や新日本出版社版でも、そのような訳になっている。

 

いずれにせよ、原文の "Produktion der Individuen" は、<個々人生産すること>なのか、<個々人生産すること>なのか、これだけではあいまいである。

 

 

そこで参考のため、この部分の英訳を探してみると、次のような例がある。

 

 

 

 

 

 

1. PRODUCTION 

   

 

 

a) To begin with, the object before us is material production. 
   

 

Individuals producing in society -- and hence socially determined production by individuals -- is of course the point of departure. 

 

 

(http://www.marx2mao.com/M&E/PI.html#intro  太字は引用者)

 

 

 

 

 

ここでは明確に、「個々人による生産 production by individuals」となっている。筑摩版は、英訳を参照したのかもしれない。

 

 

いずれにしても、 "Produktion der Individuen" を、筑摩版が「個々人の手による生産」と訳したのは、<個々人生産する>という意味であることを明確にしようとしたからであろう。

 

私は、これは一種の誤訳であると思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | よみがえる史的唯物論 | 17:10 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
小中高の数学も、改革の可能性はない

十年余り前に、こんな本が出ていた。

 

 

上野健爾・岡部恒治編『こんな入試になぜできない - 大学入試「数学」の虚像と実像』(日本評論社、2005年4月)

 

 

最近見つけたので、のぞきこんだら驚いた。小中高の数学、そして大学入試の数学の状況は、英語科の状況に酷似しているようなのだ。

 

本書の「まえがき」に、こうある。

 

 

 

「我が国の制度上の重大な欠陥は、問題点を明らかにしてその改善をはかろうにも、改革のための制度が不備であり、その実現のためには大きな障害が横たわっていることである。

 

本書に指摘されているセンター試験の問題点ひとつをとっても、その改善のための制度は備えられていない

 

大学入試はマスコミを通して、様々なかたちで『評価』が行なわれているが、建設的な評価にならないのは、改善のための制度が確立していないからである。」(iii頁。太字は引用者による)

 

 

 

これは、問題のありかをズバリ突いている。そもそも、改革するための「制度」がない。だから、教員個人や個々の学校がいかに努力しても、なかなか全体の改革につながらない。

 

日本では、教育改革の道筋が、教育制度に埋め込まれていない。だから、あるものの存在が大きくなる。「学習指導要領」である。

 

本書には、

 

 

「制限が多く、数学の授業時間数の少ない学習指導要領が諸悪の根源。」287頁

 

 

という指摘がある(京都大学・上野健爾氏)。

 

 

...

 

 

最近、愛知県の教員養成系の大学で週に一回教えている人から聞いたことだが、そこの教員も学生も、ある傾向があるようだという。

 

 

<学習指導要領の内容を、生徒にいかに楽しく、要領よく教えるか。それが教員の仕事だ>

 

 

これが彼らの暗黙の、しかし堅固な了解になっているらしい、というのである。

 

ひとつの問題についても、いろいろな見方がある。社会科学系の学問をやってきたその人は、そういう視点からの講義を心がけているという。ところが、その大学の学生には、そういう講義は歓迎されない。

 

教員も学生も、

 

 

<目標は、上の誰かが決めてくれる。われわれの仕事は、その目標をいかに要領よく達成するかを工夫し、実践することだ>

 

 

という態度で固まっている。だから、「いろいろな見方」のような面倒なことはいいから、早く答えを言ってくれ、という雰囲気なのだという。

 

実際、そういう兵隊発想の人でないと、教員試験に合格しにくく、学校でも歓迎されないのかもしれない。もしそうなら、この教員養成系大学は、まさしく教員養成にふさわしい教育をやっていることになる。

 

教員志望者たちが、「お上の兵隊」という発想に染まっているとすれば、戦前の師範学校と変わらない。

 

 

...

 

 

 

本書の編者あとがきに、こうある。

 

 

「[文科省には] これまでの間違った教育行政に対する反省も、学習指導要領で被害を受けた世代に対する思いやりも、何ひとつ見られない。」(292頁。太字は引用者)

 

「教育は未来の大人を育てる大切な制度であるという観点がわすれさられ、教育を単なる個人の問題としてしか捉えることのできない、日本社会の貧困さ」(291頁。太字は引用者)

 

 

英語についても、VRとか、会話ロボットとか、アクティブラーニングだとか、とかく新手段、新手法が話題になる。だが、いま流布している英文法の内容とか言語観の欠陥を、根本的に改革しようという気運はあまり感じられない。

 

そしてなにより、数学にせよ英語にせよ、教育内容を改善するための制度が貧困であることが、教育に希望をなくさせる根因になっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 07:10 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「リストアップ」は、立派な日本語です

三省堂編集所編・アラン・ウェインライト監修『これで通じる!和製英語の徹底チェック』(三省堂、2004年2月)

この本に並んだ、ニセモノ英語200個を見ていると、ニセモノ造りには、三つほどパターンがあるようだ。

 


”集讐畩蠏

そこまで言わないのが英語、というタイプ。

「キャッチボール」 →  Let's play catch.  20頁。
「リストアップ」 → I listed the candidates. 133頁。

とくに「リストアップ」は、「巧妙につくられた和製英語」(133頁)だと、著者を唸らせた名作。英語ではlist だけでいいのだが、日本語では、「リスト」といえば名詞という語感が強いためか、「アップ」をつけて、動詞っぽくしたのかもしれない。

「アップ」の逆の「ダウン」にもニセモノが多い。「ダウン」をつけると、なんとなく動詞っぽい感じがするからか。

「スピードダウン」 → They obviously slowed down. 135頁。
「イメージダウン」 → It damaged her image. 155頁。

 

 


表現不足型

,箸狼佞法◆屬修海泙巴擦すると、英語としては困る」というタイプ。

「ハーフコート」 → This half-length coat is brand-new.  45頁。
「ショートカット」 → Her short haircut is very cute. 44頁。
「スーパー」 → They went to a supermarket.  31頁。

 

 


F伴発展型

英語の表現から相当かけ離れているタイプ。

「オーバースロー」→  overhand pitch  (over-throw は”悪送球”) 21頁。
「カンニング」 →  He cheated in an exam. 156頁。
「ビーチパラソル」 → That beach umbrella looks fine. 69頁。
「オーダーメイド」 → This is made-to-order shirt.  13頁。

このほか、aやtheのような冠詞や‐sがないなど、文法的に英語ではないものも「独自の発展」型に入りそうだ。

used book (古本屋の看板。一冊しか本がない?)

 



 

 

 

 

このように、和製英語は<英語の表現を借用した日本語>である。

上記の三タイプは、英語としてみれば間違っている場合だが、たとえ文法的に英語に合致している場合でも、日本語(カタカナ)で表記し、日本語として発音したなら、それはやはり日本語だというべきである。いわば、英語まがいの日本語である。

 

これを「日本語風の英語だ」などと思っていると、「そのまま話せば英語として通用する」と勘違いしてしまう可能性がある。

 

もう一度言う。カタカナエーゴは、立派な日本語である。

 




 

 

 

 

 




 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 22:45 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「他人の人生を生きるな」 スティーブ・ジョブズのスタンフォード大スピーチから 

アップル社の創立者のひとり、スティーブ・ジョブズ(Steve Jobs 1955-2011の有名なスピーチがある(スタンフォード大学の卒業式で。2005年6月)

 

原稿を読み上げる表情はそうとう緊張していて、新製品の名プレゼンのようにはいかなかったようだ。

 

しかし、スピーチの内容がいい。

 

自分が大卒ではないこと、望まれない男の子(母親はまだ学生で、しかも女の子がほしかった)として生まれ、すぐに養子に出されたこと、裕福でなかった育ての親のお金で授業料の高いカレッジに入ったが授業に興味がもてず半年で中退したこと。所持金もなく貧しい生活をしたこと。

 

自分のめぐまれなかったところ、ダメだったところをはじめに述べて聴衆の共感を獲得している。

 

そして、カレッジでカリグラフィー(アルファベットの書道)のクラスをとり、文字の美しさに魅了されたことが、コンピュータ画面の開発に役立ったと述べている。

 

ジョブズは根っからのデザイナーだったのかもしれない。

 

14分ほどのスピーチで、ジョブズが若者に送ったメッセージはただひとつ。

 

 

 

There is no reason not to follow your heart.  Don't waste your time living someone else's life. 

 

自分が好きで仕方がないことをすれば、それでいいのです。他人の人生を生きてはいけない。

 

 

 

 

ということである。

 

自分の膵臓ガンについても告白している。

 

このスピーチには、つきつめた雰囲気があり、どこか死の影がつきまとっている。

 

 

 

スピーチは、次のセリフで終わる。

 

 

 

"Stay hungry, stay foolish."   

 

そこに留まるな。危険を犯せ。

 

 

 

これは人を永遠に鼓舞する言葉かもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバ・スタイルの塾を作りたい | 08:40 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
スティーブジョブズの朗読がかっこいい アップルの革命宣言

英語の発音の授業で、私がときどき学生に見せる映像がある。

 

エジソンやガンジーやレノンやアリなど、型破りな偉人たちの実画像とともに、スティーブジョブズの声でナレーションが流れるというシンプルな構成。アップル社の名前は、まったくでてこない。

 

 

 

http://jp.youtube.com/watch?v=No1MxAnHuJM&NR=1

 

 

 

きっかり60秒。日本企業のコマーシャルではめったにお目にかかれないスタイルだ。

 

 

 

英語の表現に、

 

"Think out of the box."

 

というのがある。自分の狭い世界から抜け出して、全体をよく見てみよう、という呼びかけの言葉である。ジョブズのナレーションにタイトルをつけるなら、"Act out of the box." とでもなるだろう。

 

ああ、企業は、こういうメッセージを世に送ることもできるのだ。

 

 

 

 

...

 


このコマーシャルには日本語版もあるが、ナレーションは英語版のほうがシャープな感じなので、メモしておく。

 



"Here's to the crazy ones, the misfits, the rebels, the troublemakers, the round pegs in the square holes, the ones who see things differently.

They were not fond of rules and they had no respect for the status quo.

You can quote them, disagree with them, qualify or vilify them.

But the only thing you can't do is ignore them, because they changed things, they pushed the human race forward.

And while some may see them as the crazy ones, we see genius, because the people who are crazy enough to think they can change the world are the ones who do."

 

 

 






 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバ・スタイルの塾を作りたい | 08:10 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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