ごきげんようチャンネル

科学とは、正確に驚くことである。 Y.M.
           

マスコミは簡単にあやつれる 政治へのインパクトを消すための婚約報道?

政治権力が、スポンサーが、マスコミをあやつる。そのための手法は、あれこれ開発され、実行されている。

 

例えば、今回の皇室女性の婚約報道。こうした、いつ報道するか調整できるタイプのニュースは、発表のタイミングを選ぶことで、権力にとって利用価値が何倍にもなる。

 

次のツイートは、その可能性に言及している。

 

 

 

望月衣塑子‏ @ISOKO_MOCHIZUKI  5月18日

朝日が報じた #加計 問題だが、NHKも同じブツを入手、トップ級で報じようとしていたが、聞きつけた官邸がその妨害の為にNHKに眞子様ご婚約をリーク、朝日に抜かれ、加計扱いも格下げになってしまったよう。皇室ネタを利用してまで暴かれたくない #安倍 首相と #加計 理事長との蜜月関係

 

 

 

この問題について、こうした見方が本当かどうかは、私にはわからない。

 

ただ、次のような話を聞いたことがある。

 

 

<ジャイアンツの長嶋茂雄氏の引退は、他に大きなニュースがないか、用心深く調べたうえで、「いまなら大きく報道される」と見込んだタイミングで発表された>

 

 

新刊書籍を新聞で広告するとき、書評欄の下とか、一面の下部とか、週末とか、見込んだ読み手の目につきやすい場所やタイミングを選ぶ。商品を第三者が評価している体裁をとった記事が、商品を売る側の費用で掲載される。

 

費用を払ってマスコミを利用する側つまりマスコミのスポンサーが、効果的な手法やタイミングを選ぼうとするのは当然ともいえる。

 

マスコミは、自分が報道しているように見えて、じつは<スポンサー>のために報道していることがある。

 

この<スポンサー>には、今日のネタを出してくれる、予算を承認してくれる、国家権力も入っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | マスコミあかん論 | 07:22 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ダンサー・田中みんさんの講演を聞いた 肉体の現実・演じた事実・他者に生まれる真実

岐阜市内の美術館で、ダンサーの田中みん(漢字は、さんずいに民)さんの講演会があったので、行ってみた。

 

聞きながら私が思ったこと。

 

・人間は、物質的な現実のうえに生きている。自然や商品に囲まれ、自分の身体のなか、他人の身体のそとに、生きている。若いころ、田中さんが発見したのは、この物質的現実だった。

 

・表現とは、社会的事実を生むことである。表現は、鍛練することで洗練された事実となるのだが、表現体を作ることじたいは個人でもできる。他人にも確認できる事実をつくれば、それは表現である。表現は「やったもの勝ち」の世界。

 

・その事実が、社会的にどれほどの真実性があるか。それは表現とは別の局面になる。他者との社会的試練によって、表現の真実性が試される。社会的行動は「感動させたもの勝ち」の世界。

 

・田中さんの師の土方巽は、58歳で亡くなった。天才は夭折するというが、現代では58歳は夭折のうちかもしれない。表現する人たちは、現実に忠実な事実をつくることで、鋭い真実を生む。若いときにこの方向へと突き進んだ田中さんが、いま試練を経て、70代という肉体的現実のなかで元気に表現しつづけている。この事実が、田中さんの表現の真実性を高めている。

 

・会場からの質問に答えたなかで、ちょっとハッとしたのは、

 

「人は互いに共感できる部分をもっている。そこに信頼して、自分の身体を使うのだ」

 

という主旨の言葉。

 

先鋭なパフォーマーは、独りよがりと見られやすい。じつは突出した独りよがりほど、人々への信頼のうえに成り立っている。

 

事実が現実に立脚しているとき、他者のなかに真実が生まれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 「人間力」論 | 06:36 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「役者が同情されたらおしまいだ」 覚悟をもつ人がプロである

最近聞いた話。あるベテランの役者が階段から落ちて足と肩を骨折した。

 

しばらくリハビリして、歩けるようになったが、ときどき痛みが走る。

 

それでも平気な顔で演じているので、周囲が心配し、大丈夫ですかと声をかけると、

 

「役者が同情されたら、おしまいですから」

 

と答えたという。

 

プロの役者は、役が演じられて当然である。演じて心配されるようでは、役者ではない。

 

 

 

「これができて当然。それが、プロとして鍛えてきた自分の証である。これができなかったら、私はプロではない。」

 

 

 

こうした覚悟は、意志の一種である。

 

プロかアマか。その違いは、「これができて当然。かならずやってみせる」という意志があるかどうかである。

 

「当然、かならず」という意志を抱いたとき、その人はプロとしての道を歩いている。

 

「当然、かならず」という意志を放棄したとき、その人はもはやプロではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 「人間力」論 | 04:14 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
皇族女性の婚約は、なぜ "breaking news" か?

夕方、レストランにいたら、皇族の長女が結婚するというニュースが、店のテレビにでた。

 

明るいニュースだったせいか、「緊急ニュース」的な、派手な扱いだった。

 

英語のニュース放送でも、 "breaking news" という見出しの字幕がでたり、アンカーが "breaking news" と言って原稿を読んだりすることがある。

 

そこで英語のウィキペディアで"breaking news" を引いたら、長い解説があった。

 

そのなかに、番組を中断してでも急遽伝える価値がある、それほど幅広い層に興味を呼び起こす情報であり、そういう方法で伝えないとあまりインパクトがない話題 ( ...It could be a story that is simply of wide interest to viewers and has little impact otherwise.)、という意味の説明があった。

 

いいかえると、ニュースとは、早く伝えるほど価値が高まり、時間が経ってから伝えたのではインパクトが減ってしまう情報のことであることがわかる。

 

ニュースは、日々消費され、表面から消えていく。長期にわたり何度もニュースになるものは、人々がそのニュースの意味を咀嚼するのに時間がかかるような場合や、報道機関が、世に警告しようという意図をもっている場合であろう。

 

いわば、ニュースは海の波のようなものかもしれない。波のように表面に現れるものが日々のニュースであり、何度も波になるものもある。その場合、第一波は早く伝えたほうがインパクトがある。こうした波の下に、大量の情報が海のように蓄積されていく。

 

皇族女性の婚約は、結婚の意志の表明にすぎない。「そう決めた」というだけのことである。ところがこの意志は、これから続く皇族独特の手続きや、華やかなウェディングの場面を予想させ、報道機関にとってはおいしいニュースである。

 

社会の事象の本質は、意志にある。意志が人や組織を動かしているのが、社会である。

 

一皇族の結婚の意志が、巨大な報道機関を動かす。

 

これも、意志が社会の本質であることの一例であろう。

 

 

 

 

 

参考:ウィキペディアの記事から。

 

Breaking news, interchangeably termed latebreaking news and also known as a special report or special coverage or news bulletin, is a current issue that broadcasters feel warrants the interruption of scheduled programming and/or current news in order to report its details. Its use is also assigned to the most significant story of the moment or a story that is being covered live. It could be a story that is simply of wide interest to viewers and has little impact otherwise.[1][2] Many times, breaking news is used after the news organization has already reported on the story. When a story has not been reported on previously, the graphic and phrase "Just In" is sometimes used instead.

 

https://en.wikipedia.org/wiki/Breaking_news

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | よみがえる史的唯物論 | 04:46 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ものごとは、三つに分けて実行するといい 

ものごとは、まず三つの層に分け、それぞれの層ごとに機会や場所を別にして訓練し、最後に総合して勝負する。

 

三つの層とは、身体、仕組み、そしてメンタル。

 

人体が足、胴体、頭から出来ているのと対応するこの発想は、いろいろなところで役立ちそうだ。

 

ギタリストが、ギターを身体で支え、音楽の構造を理解したうえで、演奏に集中する。

 

俳優が、まず意味を離れたたんなる音としてセリフをとらえられるまで練習する。そして役柄を理解し、最後にセリフの意味だけを考えて演技する。

 

戦後日本が生んだ英語の達人・國弘正雄氏が、次のように英語の極意を語っているのも、身体を三層に分けて使えということだ。

 


「息に声が乗り声に意味が乗るという境地を目指すのです。枕木を並べてレールを敷き、その上を電車が通るという感じです。野球でいえば下半身をちゃんと使えるということでしょう」(國弘正雄『國弘流英語の話し方』たちばな出版、1999年、68頁)


 

英語をたんなる息にまで解体したうえで、英語の声を通して、意味を演じよ、というのだ。

ここでリードするのは、最上層のメンタルである。最下層の身体的・物理的な層は無意識化するまで鍛える。そのうえで、中間層の理解をふまえ、意識はメンタルな最終目的に集中する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 「人間力」論 | 20:54 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ギタリスト・荘村清志さんのトークと公開レッスンを聴講した

岐阜市内の音楽ホールで、有名なギタリストの荘村清志さんのトークと公開レッスンがあるというので、行ってみた。

 

たいへん良かった。印象に残ったことをメモしておく。

 

50代だったかに、荘村さんは自分の演奏から無駄な力みをとるために、5年ほど苦しんだと語っていた。

 

多くの人が、荘村さんのように一人前になったあと方向転換に挑み、何年もかかって軌道修正に成功している。おそらくこうした模索の時期は、多くの人にとって必要なのだと思う。その苦しみがあったからこそ、現在の段階へと飛躍できたのだ。

 

こうした大人の法則? のようなものは、十代、二十代の人には理解できないだろう。いまは理解できなくても、そういうことが自分にもあるかもしれないことを知っておくと、あとで役立つと思うのだが、それを教えてあげる人がいないように思う。

 

さて、今回の私の最大の発見。それは、音楽、とくにクラシック音楽は現実を完全に超えた世界であり、現実を超えるための技術も存在するということだ。

 

それは当然のことのようでもあるが、今日は目の前で荘村さんがギターを弾く姿を見て、あらためて実感した。

 

荘村さんは、足台で左足をかなり高く上げ、ギターを45度くらいに立ててしっかり身体で固定する。左手だけでなく、右手も弦にそって頻繁に移動し、音色を自在に変化させる。右手小指は常時立てている。本人の説明では、指の腹はあまりつかわず、ほぼ爪先だけで弦を弾いているという。

 

私もギターを弾くのでわかったのだが、両膝と右脇でギターをしっかりと固定することで、荘村さんは左手と右手をギターの重みから解放しているのだ。だから、左手と右手が楽に、自由に動ける。そのせいか、荘村さんの場合、両手の移動が軽々としており、しかも指先だけで強いビブラートをかけることができる。

 

これは、ロックギターやブルースギターの演奏法と大きく違うところだ。ロックやブルースでは、左手も右手も、ギターを身体につなぎとめる役割を果たしており、ギターを両手で身体に押しつけてビブラートをかけ、生っぽい感情やフィーリングを表現する。

 

ところが、荘村さんは両手がギターからほぼ完全に解放されており、しかも、小さい音で弾く。彼自身、

 

「ギターに大きな音は必要ない。むしろ小さい音のほうが魅力的であり、音の粒もそろって美しく聞こえる。」

 

と何度も語っていた。

 

これでわかった。

 

両手をギターの重みから完全に解放し、小さく繊細な音で演奏する。小さい音で弾くことで、音量という物理世界を脱し、音質という音楽世界へと、人を引き込む。この技術によって、音楽が現実の重みから解放されているのだ。

 

この方法は、ほかの分野でも使えそうだ。現実は現実としてしっかりと把握しておく。そうするからこそ、力みを脱し、重力のない本質の世界で、自由に浮遊できる。

 

この二段構えの姿勢を習得したことで、荘村さんは今の境地を得たのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | アートする人びと | 21:52 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
旧日本軍の行為は、重犯罪である

今日、学生に、中国・海南島での日本海軍の「三光作戦」が戦争犯罪にあたるかどうか、なにを基準に戦争犯罪を考えればいいかを話した。

 

要は、刑法の概念がひとつの参考になるということである。

 

一般に犯罪では、故意intent と過失negligence を区別する。たとえば、故意殺か過失致死か。どちらであるかによって罪名も異なり、量刑もちがってくる。

 

結果は同じく「人の死亡」でも、故意と過失で大きなちがいがあるのは、人間社会の規範が「意志」を本質とすることの証左である。

 

さて、故意と過失の中間的なカテゴリーに、「未必の故意 willful negligence」というのがある。「自分は行為の対象を間違えているかもしれない。あるいは、これをしたら意図したこと以上の結果が生じるかもしれない。しかし、それでもかまわない」と思って実行行為を行う場合であり、危険を認識しながら、それを認容して行為しているので、一般に故意の一種とみなされている。

 

また、「業務上過失 professional negligence」というカテゴリーもある。「業務」とは、社会生活で反復・継続しておこなう活動をさし、高い注意義務が要求される。したがって、業務上の過失、まして業務上の故意による犯罪は、一般の場合よりも重く罰せられることがある。これも、「まあ、いいか」「このさい、やってやれ」といった怠慢または傲慢な「意志」が、注意義務の高さにてらして社会的に問題視される例である。仕事上の職務のほか、自動車の運転や銃刀の所持・使用など、危険をともなう活動は、典型的な「業務」である。

 

では、日本軍の海外での行為の一部は、どう評価できるか。

 

敵兵かどうか判然としない、無抵抗の者を殺傷する兵士の行為は、<未必の故意による業務上の実行行為>であり、刑法の概念からいえば、重い犯罪である。食料の強奪、放火、強姦が、兵士としてであろうが個人としてであろうが、故意による重大な犯罪であることはいうまでもない。

 

こうした行為が明文の戦時国際法に違反するかどうか。それは別の考察が必要になるが、刑法の概念からみれば、こうした日本軍の行為は明確に犯罪を構成するといえるだろう。

 

こうした犯罪行為は、個々の兵士が個々に行ったケースもあるが、その場合も、「業務」として武器をもっている兵士の行為を適切に管理せず、日本兵による犯罪の犠牲者を大量に生んだ日本軍当局には、「未必の故意」をふくむ「業務上」の重大な責任があるといえる。

 

人間の社会行為においては、行為の結果とともに、行為者の業務上の注意義務の有無や、行為の際の意志の内容が重視されること、結果および意志の内容からみて、日本軍と日本兵の行為は重犯罪とみなせること。

 

このように、結果だけでなく、個人および組織の怠慢ないし傲慢な「意志」に注目した歴史の認識の仕方が可能だし、今日、これは一般的にも受け入れられる考え方だろうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 靖国神社 | 06:06 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
人間と社会の研究は、なぜ遅れているか おわり

マルクスが偉大だったのは、価値→資本という目にみえない本質の世界が自立的に運動する「資本主義」という分析レベルを設定し、その成立の由来と独自の仕組みを、多大の労力をかけて追求したことにある。

 

マルクスは唯物論者だったが、その実、価値→資本という非物質の世界を正面から扱った。

 

現代人には、無自覚な唯物論者が多い。ならばなおさらのこと、価値・意志・意味という非物質の世界の驚異と脅威に敏感になれるはずではないか。

 

 

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | よみがえる史的唯物論 | 04:04 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
人間と社会の研究は、なぜ遅れているか その3

自然科学に比べて人文・社会系の学問が圧倒的に遅れている根因は、価値・意志・意味という見えない世界が厳存すること、この見えない世界は、個々の人間や社会から生まれながら、個々の人間や社会から自立して、人間と社会を強く規律していること。それを学者たちがしっかりと理解していないことにある。

 

自然科学は、物質のふるまいという現象を扱いながら、実は物質の本質たる物性を研究している。これは自明のことであろう。

 

人間や社会の研究も、人間や社会のふるまいを扱いながら、実はその本質たる価値・意志・意味を研究している。ところが、この目にみえない価値・意志・意味のあり方を研究しているという自覚が、人文・社会系の学者に不足しているのである。

 

例えば、言語は、意味という目にみえない本質を表現する表現体である。意味のさらに本質は、概念である。概念は、目に見える世界から生まれながら、もはや目に見えない独自の世界をつくっている。だから、言語という目に見える表現体を扱うときも、目に見える現実を超えた、概念の世界を扱っているという自覚が必要である。この自覚が不足していると、概念の世界を扱っているはずが、無自覚のうちに現実の世界と混同する誤りを繰り返すことになる。最近の認知言語学でさえ、こういう傾向があるように思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | よみがえる史的唯物論 | 04:03 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
人間と社会の研究は、なぜ遅れているか その2

それはそうだとして、気をつけておいたほうがいいことがある。

 

ひとつは、足、胴体、頭という目に見えるものは、目に見えない本質をもつということである。その本質が目に見えて現れたのが、足、胴体、頭である。

 

足(身体・経済)の本質は価値、胴体(生活・組織)の本質は意志、頭(観念・表現)の本質は意味である。

 

価値・意志・意味は、足・胴体・頭がつくるものであるが、同時に、価値・意志・意味という目にみえない本質が、足・胴体・頭のあり方を規定している。

 

 

 

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 


 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | よみがえる史的唯物論 | 04:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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