ごきげんようチャンネル


"Obama got in, and he is the pawn of globalized interest." Naomi Wolf



マルクス「史的唯物論の定式」の読み方 結果を過程と混同した歴史 

よく知られているように、マルクスの「史的唯物論の定式」には、次の言葉が含まれている。

 

 

 

「この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。」

 

 

 

この部分の理解について、いまだに定説といえるものがない。

 

 

 

「それは、過程と結果を混同するためである。」

 

 

 

と、三浦つとむは指摘している。(津田道夫編集・解題『三浦つとむ 意志論集』績文堂、2013年、184頁)

 

 

上記のマルクスの文は、「その上に」とか「そびえ立ち」といった空間的表現からうかがえるように、ある過程が生んだ「結果」についての客観的な叙述である。土台の上に上部構造が立っていて、それに対応した意識諸形態が存在するという、客観的な状態を述べている。

 

つまり、ここでのマルクスの叙述は、

 

 

 

<土台 → 上部構造 → 意識諸形態>

 

 

 

の順になっているが、ここでマルクスが言っていることは、人間の社会活動を結果から見ると、土台と上部構造と意識形態の三種が構造をなしているということである。



ところが、結果ではなく、運動する過程の角度から見ると、マルクスの叙述とは異なる順が正しくなる。過程から見れば、

 

 

<土台 → 意識諸形態 → 上部構造>

 

 

 

という順に規定される。これは、<土台 → 上部構造 → 意識諸形態>というマルクスの上記の叙述とは、順序が異なっている。

 

三浦つとむは、このことをやや具体的に、

 

 

「過程としては、まず物質的な生活諸関係があり、そこから支配階級の要求が生まれ、国家意志に反映し、その維持を委託する権力が生まれる。」同上、184頁

 

 

と言い換えている。社会は<物質的基盤とその生産 → 支配階級の観念に基づく活動 → 国家権力の編成と活動>の順に規定される。過程から見れば、土台がまず規定するのは意識諸形態であって、上部構造ではないのである。

 

なるほど、三浦つとむがいうように考えた方が、歴史の見通しは良くなる。

 

 

これに付け加えれば、いったん成立した意識諸形態(政治活動など)は、土台や上部構造のあり方を規定したり、上部構造(企業、政府など社会の組織)が土台や意識諸形態のあり方を規定したり、土台が直接上部構造と一体化したり(たとえば、土地の領主がそのまま政治支配層となる封建社会)することになる。(下図)

 

 

 

 

 

 

上部構造

     ⇆

 ⇅      意識諸形態

     ⇆

土台

 

 

 

 

 

 

マルクス『資本論』の中の文章で、私が以前から位置づけに迷っていた部分も、こう考えるとその意味が見えてくる。

 

それは、<商品の生産 → 商品の交換の必要 → 交換の必要に規定された商品所有者の意志>という過程の必然性を述べた、次の部分である。

 

 

 

「商品たちは自分で市場に出かけて、自分で交換しあうことができない。... これらの物を商品としてたがいに関わらせるためには、商品の保護者たちが人格としてたがいに立ち向かいあわなくてはならない。... 一方は他方の同意を得てのみ、したがってどちらも両者の共同の意志行為に媒介されてのみ、自分の物を譲り渡すことで、他人の商品を手に入れるのである。だから彼らはたがいに私的所有者として承認しあわなくてはならない。この権利関係の形式は、法律として発展しているかどうかにかかわらず契約であり、経済的関係が反映している意志の関係である。この権利関係または意志関係の内容は、経済的関係そのものによって与えられる。」(『資本論』第一巻、第二章「交換過程」冒頭。訳文は筑摩書房マルクス・コレクションIV、129頁より)

 

 

 

人の意識は、自分が所有している(と思っている)もの(個人的には私有物、地位、情報など。社会的には「土台」)に規定される。所有するものは、物質(体外)でも観念(体内)でも良い。所有に規定された意識が意識諸形態(行動や表現)となり、社会的に分有され止揚されて、上部構造(私的には服務規定や企業組織、公的には法律や国家機構の編成など)を生成・変容させる。

 

 

上記のマルクスの文は、主として土台=物質的生活過程の範囲での叙述であり、そこで生まれる意識(「意志」)が、「法律」のような上部構造の規範を規定する面は詳しく書かれていない。その意味でこれは断片的な叙述であるが、<物質(商品生産)→観念的物質(商品所有者としての意志の表現)→社会(商品所有者の相互承認を保護する法律、裁判所など上部構造の編成)>というマルクスの過程的把握が垣間見える例である。

 

 

 

こういう風に考えていくと、史的唯物論といっても、案外と常識的なものだという感じもしてくる。

 

われわれ個人は、

 

 

 

<物質 ⇆ 観念的物質 ⇆ 社会 ⇆ 物質...>

 

 

 

という絶えざる相互循環のうちにある。身体という物質があって、その中で認識を作り、それを表現して、社会関係をとりむすび、そのなかで身体としての自分を再び制御しては認識を作り... という右回りの循環を繰り返している。この循環がうまく反復されるには、社会関係の表現を認識して自分の身体をコントロールする、といった左回りの循環(フィードバック)も必要である。

 

そして、社会全体もまた、左右両方向の、この循環の構造のうちにある。このことを指摘しようとしたのが、「史的唯物論の定式」の真意であろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 史的唯物論から史的連関論へ | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
概念とは、それに無限に接近する認識の過程である

むかし、

 

 

1=0.999....

 

 

という話を数学の解説書で読んで、腑に落ちない感じが残った。

 

たしかに 0.999... は1にどんどん近づくだろうが、1とイコールだと断定されると、「ほんとか?」と感じたのだ。

 

 

 

そこで、知り合いの物理学者に聞いてみた。すると、両辺を0.999... で割って、

 

 

1÷0.999...=1

 

 

 

と考えたらどうかとアドバイスされた。

 

 

これなら左辺はたしかに1に限りなく近づくから、けっきょく1と同じに扱って良い、と言われれば、少し納得しやすくなる。

 

 

これらの等式は、考えてみればすごいことを言っているのかもしれない。すべての数字は、それに無限に接近する過程を含んでいる。つまり、無限の接近は、それそのものに等しい。あるものに無限に接近することが、そのものを成就するということである。数とは、それに無限に接近する過程そのものだという思想が、ここから読み取れるのではないか。

 

数学の世界では、数字とは、それへの無限の接近のことであると確認されているのだとすれば、概念とは、無限に接近する認識のプロセスだとみなせることになるのではないか。

 

人間は、私的な認識と公的な概念のあいだを、絶えず行き来している。絶えず行き来しながら、個々人は認識を深め、社会が共有する概念を発達させている。してみれば、概念とは、客観的にそこに「ある 1」ように見えるが、主体的には、そこに「無限に近づく 0.999... 」認識のプロセスのことなのだと考えてみたらどうだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | トランスグラマー 希望の文法へ | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
円空 すべてを領収書にした人

円空は、なぜあんなにたくさんの神仏を彫ったか。

 

木にはもともと神が宿るとされてきた。だから木を変形すれば新しい神=仏ができると考えたからだという見方がある。つまり神を仏に変えつづけ、そこに喜悦を感じたのが円空であった。


円空の作品が人を惹きつけるのは、なぜか。その理由は、円空がいっさい報酬をもらわず、感謝のしるしとして神仏をつくりつづけたからである。

仏師は、仏像をつくるのが仕事であるから、作品は「請求書」になる。ところが円空は報酬を期待せず、純粋な心で神仏を彫った。円空は「領収書」として神仏を刻んだのだ。要求ではなく感謝。だから円空仏は自由である
 

 


岐阜県の高賀(こうか)に、円空記念館がある。高賀は白山山系の修験の聖地のひとつで、円空が何度か滞在し、たくさんの円空仏が残っている。

 

 


http://www.horado.com/kouka/enku.html

 

 

 

円空が木に登っている等身大の人形ディスプレイもある。それを見ていると、「そんなこと気にするな!」と、円空が私たちを叱ってくれる。

 

ここには、円空が12万体造像をなしとげた最後の像、歓喜天像もある。円空はここで造像をやめ、三年後に入定すると予言した。そして「千日行」を行ったあと、関の弥勒寺で即身仏になった。元禄九(1695)年、64歳。

 

最後は、自分の身体そのものを領収書にしてしまった。すさまじい一生だった。
 

 

ぜんぶ領収書にすれば、人生は自由になる。

 



 

 

 

 

    地蔵菩薩は庶民の円空仏かもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
問題の追求が、問題の解決である

生き方の要点は、自分で決めた対象の本質を追求しつづけることである。無限に解決に向かっている人は、ある意味で、問題をすでに解決している。



ひろさちや氏の文を紹介しよう。
 

 


「わたしは子どものころ、こんな話を祖母に教わりました。

大量の糊(のり)が必要になりました。そこで牛若丸は、ちいさな箆(へら)でもって少しずつ飯粒(めしつぶ)をこねて糊をつくり始めました。それを見て、弁慶は言いました。

「そんな悠長なやり方では間に合いませんよ…」

弁慶は大きな鉄の鉢(はち)に飯をどっさり入れて、金棒でもってかきまぜました。もちろん、そんなやり方で糊ができるはずありません。

「あんな、急いだらあかんで。ゆっくりしいや……」

祖母はそんな教訓を語ってくれました。人一倍せっかち者だった祖母の言葉だから、聞いておかしかったですね。

これでおわかりのように、問題の解決は、その解決方法によってものすごく違ってくるだけでなく、どういうふうに解決するかが決まれば、おのずから問題が解決されてしまうものです。ある意味では、問題の解決方法そのものが問題の解決でもあるのです。」

 

 

(ひろさちや『50歳からの仏教入門』講談社、1998年、31-33頁)
 

 


ひろさちや氏の文はつづく。


 


「山登りをするときに、頂上をきわめることだけを考えていると、自分はまだこれだけしか登っていないと思って、絶望感におそわれます。植物採取でもしながら登ると、知らずのうちに頂上にまで来ているようなものです。

わたしたちに、極楽浄土に往きたいといった願望のあるかぎり、蜘蛛の糸はのぼれません。目標が設定されていると、かえって目標が遠くに感じられます。

蜘蛛の糸をのぼるには、そののぼっているという意識すら捨ててしまうことです。自分にとって蜘蛛の糸だけが「世界」だとしっかり信じられたとき、そこに救いがあるのでしょう。」

 

(ひろさちや同上書、59-60、34-35、185-186頁より抜粋)
 

 

 


解決と同等の解決方法とは、道中を道楽にするということである。これが、自分の主体性を確立することになる。

 



 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバスタイルの塾「希望」を作りたい | 00:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
アメリカで銃規制が困難な理由 

アメリカで普通の市民が銃を保持できる根拠になっているのは合衆国憲法修正第二条であるが、その文言が玉虫色であることが問題を紛糾させる一因になっている。

 

 

http://www.npr.org/2013/01/07/168834462/the-2nd-amendment-27-words-endless-interpretations

 

 

その文言とは、次の通りである。

 

 

 

 

修正第2条[武器保有権] [1791 年成立]

 

規律ある民兵団は、自由な国家の安全にとって必要であり、国民が武器を保有し携行する権利は、 侵してはならない。

 

Amendment II

A well regulated Militia, being necessary to the security of a free State, the right of the people to keep and bear Arms, shall not be infringed.

 

 

 

この条文は、文の前半と後半がコンマでつながっているだけなので、非常時に「規律ある民兵団」を作るという限度において「国民」の武器の保有・携行を権利として認めているのか、それとも民兵団に限らず、国民一般の権利として武器の保有・携行を認めているのか、そこがあいまいである。

 

ただ、常備軍が存在する今日では「民兵団」の必要性は小さいので、条文の後半に力点を置いて読み、武器保有・携行が国民の権利として認められていると理解する人が多いようだ。

 

日本国憲法は半世紀以上改正されていないから古くさい、という人がいるが、「古くさい」といえば、上記のような18世紀の条文が残っているアメリカ合衆国憲法のほうが上である。合衆国憲法には、修正条項が27も付け加えてあって、ある意味で不恰好であるし、上記のように、独立のころの特殊な事情をひきずったあいまいな文言も残っている。

 

むろん、問題は憲法にどう書いてあるかということ以上に、今日のアメリカ人が、今日のアメリカ社会を背景にして、銃の問題をどう考えるか、というところにある。アメリカでは、銃生産が兵器輸出大国アメリカの基盤にもなっていることもあり、銃の保有が必要だとか、国民の権利だとする社会通念は、なかなかなくならない。

 

また、広いアメリカでは、警察の手を借りることもできない山地に住んでいる人もおり、身を守るために武器が必要な場合もある。銃の保持が「権利」だという意識が広まったのは、NRAのようなロビー団体による意図的キャンペーンによるもので、実はわりと最近の話だともいう。

 

ひとつ有力なのは、上記の記事にあるように、「責任保険 liability insurance (人に損害賠償責任を負ったときにその損害額を補償する保険)」への加入を銃保有者に義務づけるという方法である。このように、銃保有者の責任を大きくするという間接的な方法ならば、かなり有効に機能する可能性がある。

 

 

実際には、アメリカに長年住んでいる人でも、街中で一般人が銃を携行しているのはあまり見たことがないという話もきく。外部のわれわれが思うほど、一般のアメリカ人は銃に固執しているわけでもないのかもしれない。ならば、オーストラリアで実施したように、民間人が保有する銃を政府が一定額で買い取り、処分するという処置も考えられる。

 

 

銃からの自由。それが実現できれば、アメリカ社会はもっと自由になれるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 憲法改正 | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
私の「行雲百景」 北斎は雲である

葛飾北斎の富嶽シリーズは、死の象徴たる富士山が、生きた人間の営みをのぞきこんでいる構図が基本になっている。

 

人間が画面に登場しない例として、有名な「凱風快晴」があるが、これも富嶽を左下に降りて行くと、人家が存在するように感じられる。人間が描かれていないからこそ、自然と人間の対比が迫ってくる。(なお、この作品は画家の視点が上空にある点でも画期的と思う)

 

 

 

 

『冨嶽三十六景』より《凱風快晴》
文政(1818〜30)末〜天保(1830〜44)前期

 

 

 

 

私はこのごろ、空を見ては写真を撮っている。

 

雲は、面白い存在だ。地(如来)にある水(菩薩)から沸き起こり、風(天部)のエネルギー(明王)を受けて、あるとき、ある形をとり、流れて行く。雲はやがて消え、別のものに形を変える。

 

このプロセス全体を満たすものは、光(大日、阿弥陀)である。

 

地は生の世界、空は死の世界。だから空には人間がいない。しかし、空を見る人間は、空に人間を見ている。

 

雲は、生と死の統一であり、北斎も、雲として生き、消えた。

 

 

 

こういう仏像的な比喩は、古代人が残した素朴な洞察にすぎない。しかしこの洞察は、喜怒哀楽に陥りがちな人間を、宇宙の運行の中に客観的に位置づける手助けをしてくれる。

 

 

 

 

 

 

          地の生と空の死。人は行く雲の如し。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 10:06 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
耳は発声器官である

音声学の古い本を読んでいたら、おもしろい言葉があった。

 



「音声の産出に関与する音声器官 speech organ を広義に解すれば、耳も加わる。しかし、耳の関与についての研究はあまり進んでいない。」(枡矢好弘『英語音声学』こびあん書房、1976年、32頁)

 

 


耳が発声器官!?? その理由は、自分の発話を自分で聞くことで、人はつねに自分の発話をチェックしている。つまり耳は発声に不可欠だから、発声器官のひとつである(53頁)。

なるほど。

普通の音声学の本には書かれていないが、ひょっとすると人間は耳の穴(耳腔)も使って喉頭原音を共鳴拡大させているのかもしれない。もしそうなら、耳はまさに発声器官である。

そもそも耳(聴覚)がなかったら、発話を覚えることができない。ろうあの人たちの大部分は、喉などに異常があるわけではなく、耳が聞こえないために発話ができないたちである。その意味でも、耳は発話に不可欠の「発声器官」のひとつなのだ。

そう考えると、耳だけではなく、肺だって、横隔膜だって、発声に不可欠だ。そして胃も腸も脳も、それがなければ生きることもできない以上、発声に不可欠ともいえる。

 

声を発するのは主に口腔周辺の器官だが、声を受けるのは耳である。口と耳、両方あって言語は可能になる。これは、ヘーゲル流に言えば、人は自己疎外(音声を発出)したあと、外界を媒介にして、自己帰還(音声を受容)しなければならないということの、生理的な一例ということになるのかもしれない。

 


というわけで、「発声器官」をもっぱら喉・口・鼻に限定している音声学の教科書は、おおいに反省すべし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 日本に英語はない | 00:04 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
宇宙は人間に優しくない だから人間に歴史が生まれた

日本では浄土教系の宗派が多数派だが、じつは密教のほうが、宗教の本来の姿を汲んでいると思う。

 

千手観音や不動明王のように、密教の仏像には異形のものが多い。仏たちが人間ではないことは、一見しただけで明らかである。密教では、人間の世界と仏の世界がはっきりと分かれている。これは、仏の本来の姿を表していると思う。

 

じっさい、キリスト教だって、ユダヤ教だって、イスラム教だって、神は人間から超絶していて、人間の影響を受けない。

 

神仏とは、宇宙の道理の擬人化であるが、宇宙は人間を救おうとして存在するわけではない。人間のほうが宇宙に救われるように工夫しながら生活しているのであって、宇宙の側には人間をとりわけて救う必要もなければ、そうする理由もない。

 

だからこそ、人間は懸命に祈るのだ。だからこそ人間は、少しでも神仏が振り向いてくれたとき、天を仰ぎ、地を踏んで感謝するのだ。お百度参りしかり、寺社作りしかり、豊作の祈りしかり、収穫の祝いしかり。

 

 

とりわけて人間を救うと誓った阿弥陀如来や観音菩薩は、神仏のなかの異端者である。異端者だからニセモノだというのではない。彼らが異端者であることを知っているほうが、阿弥陀や観音への感謝は増すということだ。

 

 

人間の力が及ぶ範囲から完全に外れた存在。それを神仏と呼ぶ。人間は懸命に神仏を欲するが、神仏のほうでは、人間に特別関心をもついわれはない。人間と神仏の関係をそうとらえるとき、人間の歴史が姿を現してくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 00:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
仏像は、古代の宇宙観である

亡くなった西村公朝師の大著『仏像の再発見 鑑定への道』(吉川弘文館、1976年)に、仏像に現れた仏教の世界観をうまくまとめた文章がある。

 

 

仏像には如来、菩薩、明王、天部の四種があるが、その相互関係は、次のようになっている。

 

 


如来  この宇宙の森羅万象は、どこからか来て、仮の姿をとったものである。人間も花も鳥も山も川も、いま「そうであるかの如き」姿をしている。この世にあるすべてのものは、本質のわからない「如」(にょ)の世界から「やって来た」のだ。ゆえに、この世のすべてのものを「如来」という。
 

 

菩薩  「われわれの周囲にいる各如来は、おたがいに助け合っているのです。その助けられたAと、助けてくれたBの関係は、BがAに対して菩薩になっているのです。」「菩は香草(こうそう)、薩は救うという意味です。」 たとえば「人と米の関係は、米は人に対しては菩薩になります。」26頁 こうして、ある如来は他の如来の菩薩となり、世界が助け合っている。

 

 

明王   如来かつ菩薩たる米は、「太陽と水、すなわち地・水・火・風・空の働きが加わって成長します。この偉大なエネルギーを明王といいます。」26頁  明王は、如来・菩薩を生む宇宙エネルギーの擬人化である。

 

 

天部   「こうした宇宙のバランスを護っているのが天部と解釈できるでしょう。」26頁

 

 

 


こうしてみると、確かに、この四種以外にこの宇宙にはなにも必要ない。

 

如来の本質は自己運動する宇宙の摂理そのものであるから、如来の目は内省的な半眼に造り、静かに座っている作例が多い。菩薩は、立っていたり、片足を少し出したり、動物に乗ったりと、今にも助けようとする姿勢をとる作例が多い。明王や天部は、エネルギーや守護の活動そのものであるから、力強い姿のものが多い。

 

仏教で四大(しだい)とされる地水火風は、如来(地)、菩薩(水)、明王(火)、天部(風)と相性が良い。偶然だが、現代物理学が宇宙の基本相互作用とする力も、四種類である。

 

 

そして、

 

 


この宇宙のすべてのものが如来であり、たがいに菩薩になりあうのですから、この宇宙には無数の仏がいることになります。」26頁

 

 


宇宙とは、「無数の仏」が出現したものなのだ。この豪華絢爛なイメージから、曼荼羅が描かれ、無数の明王、天部が創作された。

 

 

 

 

なにものも絶対ではなく、すべてが連関して調和する世界。仏像が表すものは、このviewpoint(観点)そのものだ。


 

 





 

 空と近淡海(ちかつあわうみ)。向こうは比叡山系。

「空海」と「最澄」が一枚になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
それでも希望 hope は残る ハリケーン被害の島から 

ハリケーン Irma によるカリブ海の被害が報道されている。

 

 

 

 

http://time.com/4938103/hurricane-irma-caribbean-island-st-martin-anguilla/

 

 

 

 

あらためて地図を見ると、カリブ海には、セントマーチンやアンギラのように、フランス、イギリス、オランダの領土になっている島がかなりあることに気づく。住民は、これらの宗主国に支援を求めている。

 

現地では、ハリケーンによる直接の災害のほか、商店の略奪や水の汚染が深刻になっているようだ。

 

有力な宗主国を持たない島々は、支援を求める先もないのだろうか。

 

 

アンギラに住むカナダ出身の女性が、こう言ったという。

 

 

 

「いま頼りになるのは、希望だけです。」

 

"All we are really living on is hope."

 

 

 

 

 

...

 

 

 

 

以下、上記の報道から抜粋。

 

 

As reports of desperation mounts, governments of France, Britain and the Netherlands, who administer a number of territories in the region, have had to defend themselves against criticism over their response to the disaster.

 

The Netherlands announced that it was sending extra troops to the Dutch side of St Martin and French President Emmanuel Macron promised to rebuild his country’s overseas territories destroyed by the hurricane. He added that 11 people have died in St. Barts and St. Martin, raising Irma’s overall death toll to at least 38.

 

British Foreign Minister Boris Johnson defended the country’s response to the “unprecedented catastrophe” on the BBC on Monday. He will be flying into the region and Britain’s Department for International Development says 1,000 military troops have been deployed, providing shelter kits, food and water in Tortola and Anguilla.

 

For Gough, help couldn't come sooner. "My neighbors and their four children are drinking water from a contaminated cistern" she said. "All we are really living on is hope."

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバスタイルの塾「希望」を作りたい | 08:44 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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