ごきげんようチャンネル


あきらけき かがみにあへば すぎにしも いまゆくすゑの こともみえけり

         大鏡


偽札の世界 観念世界の独立性について

ある人が面白いことを言った。

 

 

「偽札は、気づかれなければ完全にお金の役割を果たす。お金の本質は、偽札がよく表している。」

 

 

その通り。価値とか値段というのは、完全に人間の観念である。

 

これでいくと、次のようにも言える。

 

 

「嘘の言葉は、気づかれなければ完全に言葉の役割を果たす。言葉の本質は、嘘がよく表している。」

 

 

言葉(概念表象にもとづく認識の表現)の本質も、完全に人間の観念である。

 

電車のなかで海外小説を読むときのように、人間の観念は、一次的観念(いま電車のなかにいるという自覚)からさえ独立できる。

 

人間の高度な観念性を率直に認めること。観念を構築し、観念に照らしあわせることによって、人間は現実を理解し、変革していることに気づくこと。

 

観念は偽札である。偽札であるがゆえに、現実を照らしだす。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
権力とは、成員を選定・配置し、その行動規範を決定して組織を統合する指導力

権力とは何か。政治学の滝村隆一氏は、

 

「規範にもとづく支配力」(『国家論大綱』第一巻上、302頁)

 

だと規定している。機能や制度や人格のレベルで権力を理解せず、観念的な規範のレベルでとらえたところが優れている。

 

だが、もともと規範とは、支配力として作動する観念である。権力とは規範にもとづいた観念的な支配力だというだけでは、権力の特性を十分とらえていないという印象が残る。

 

権力の定義は、

 

「組織成員を選定・配置し、成員の意志を服従させる全体意志を決定し、全体意志実現のための行動規範を設定して、組織を統合する指導力」 

 

としたらどうだろう。

 

権力は、成員の離脱・加入の条件を決定し、成員を配置する権限を握っている。国家権力とほかの権力とのちがいは、その組織である国家からの離脱や他の国家への加入が、個人の自由意志ではそうとうに困難であり、ときに個人の意志をまったく認めないところにある。

 

また、権力は個々の成員が抱く意志(個人の規範)よりも上位の規範である。すなわち、一人一人がどんな意志(規範)をもっていようが、否応なしに行動させる<規範の規範>(社則、法律、方針、目標など)を決定し、それによって成員の行動を指導し組織できる力である。指導力を裏づける手段として、権力は賞罰権ももっている。

 

権力が作動する組織では、直接には行動が問題にされる。私的な会話などは、個人の精神レベルの事象(意識形態)である。むろん、こうした私的な意識形態を、組織の指導力にかかわる危険な行動の一種と権力がとらえることはありうる。

 

成員の行動規範の決定に、なるだけ多くの成員を形式的にせよ参加させて「手続き的正義」を確保し、権力の指導力を増す。これが会議や選挙などの民主主義的手段の意味である。

 

 

 

歴史は権力現象に満ちているから、権力の概念はトランス・ヒストリーにとっても根幹的である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 08:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ドラえもんの実在性について 観念世界の結合性と自立性

現実世界に実在するかどうか、かつて実在したことがあるかどうかは、真偽の判断には関係するが、それが概念であるかどうかには関係がない。

 

現実実在性の疑わしいものについても、概念をつくり、観念世界をつくることができる。

 

だから「ドラえもん」という概念は立派に成り立ち、マンガも映画もつくれる。「お化け」は、物質的には不在かもしれないが、概念としては成立するから、お化け屋敷がつくれる。

 

いったん成立した観念世界(概念)は、人間の行動をとおして現実世界を構成する。

 

そのとき、概念は強力な実在性を帯びる。

 

観念世界は、現実世界と結びつきつつ、自立している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
バッハの前では客体でいい

早朝のFMでバッハの教会音楽が放送されることがある。

 

バッハの音楽は、安心して座っていれば、それでいいというところがある。

 

自然に「聞こえる」でいいという安心感。

 

あるバッハ研究家が、バッハの教会音楽は、けっきょく聖書の言葉の意味を音楽で表現したものだと述べていた。

 

聖書の言葉が主体であり、自分の音楽はその客体であればそれでよい。聖書に現れた概念を、音の組み合わせでロジカルに、しかも感性の悦びをもって表現するのだ。

 

きっとバッハは、そういう態度で作曲したのだろう。

 

バッハを聴く。いや、バッハが聞こえる。音が主体で、私はその客体だ。バッハが選んだ聖書の言葉を、ほんとうの主体として私が受け入れられれば、なおいい。

 

バッハの音から私がつくる心の転体。それがバッハの音楽の内実だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 06:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
史的唯物論は歴史認識のための規範(概念体系)である

史的唯物論とは、どういうレベルの、どういう存在か。

 

観念のトランスでは、主体たる認識力が、概念を規範としながら自分の意識に投射し、意識を認識へと転態させ、この認識の概念表象を規範として表現態をつくる。

 

歴史も観念のトランスのひとつであり、主体たる認識力が、概念を規範としながら自分の意識に投射し、意識を歴史認識へと転態させ、この歴史認識の概念表象を規範として、歴史にかんする表現をつくる。

 

史的唯物論は、歴史認識をつくるさいの規範(概念体系)の提案である。史的唯物論は観念上の規範であって、物質的な現実そのものではない。

 

史的唯物論の概念体系は、ひとつのトランスとして叙述できる。史的唯物論のトランスでは、個人・社会の認識力を基盤とする生産諸力(生産力・組織力)が主体となり、社会(土台・上部構造・意識諸形態)を客体として投射し、社会が転態して、社会構成体という転体(土台・上部構造・意識諸形態の編成)となる。

 

史的唯物論に依拠してつくった具体的な歴史表現は、自他の検証にさらされる。

 

このようにして、史的唯物論は活用され修正され洗練される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:51 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
どの主体も客体であり転体である

トランスは存在=運動の形式であり、それは主体・客体・転体そして規範という四つの位置がつくる型である。

 

型であり、形式にすぎないから、それぞれの位置にたいていのものが置ける。

 

ということは、どの主体も客体であり転体になり、どの客体も主体であり転体になり、どの転体も客体であり主体になりうるということである。人間世界のトランスの場合、まんなかの規範にも、たいていのものを置くことができる。

 

それがわかると、自分は主体であると同時に客体であり、転体であり、誰かの規範にもなっていることに気づく。すると、自分が主体だとばかり考える自己中心発想を避けることができる。

 

また、任意のものを主体、客体、転体、規範のどれかの位置に置き、それにたいして他の位置になにを置くか...と考えていくと、柔軟な発想が湧いてくる。

 

たとえば、ボールがゴールの入ることを規範に置いてみたら、それにふさわしい主体、客体、転体はなんだろう? と考えられる。それがサッカーのチーム作りになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
結果は瞬間。プロセスこそ永遠

客観的な結果は目に見える。だが、目に見える結果は一時的なものだ。

 

本質=規範は、目に見えないプロセス。だから永遠へとつながることができる。

 

近代日本のキリスト教文学のさきがけ、内村鑑三(1861-1930)の「基督信徒(きりすとしんと)の慰(なぐさめ)」(1893年)に、こういう話が書いてある。

 

 

支那宣教師某四十年間伝道に従事して一人の信徒を得ず、然れども喜悦以て世を逝(さ)れり。彼は得し処なかりしや。否。師父ザビエーは東洋に於て百万人以上に洗礼を施したりと雖も、恐くは現世より得し真結果に至つては此無名の一宣教師に及ばざりしならん。

 

 

中国に40年宣教して一人の信徒も獲得できないまま、喜んで死を迎えた男。この宣教師は、有名なザビエルと比較しても「真結果」を得たのではないかと、内村鑑三はいう。

 

現世的な結果は、なるほど結果ではあるが、神の基準からすれば、規範を生き抜くことのほうが「真結果」なのだ。

 

奈良薬師寺が金堂を再建しようとしたとき、大手企業から巨額寄付の申し出があったが、管主・高田好胤さんはこれを断った。庶民に写経を呼びかけ、それを薬師寺に永久保存しながら資金を集める道を選んだのだ。時間はかかったが、10億円の費用は無事に集まった。

 

庶民に写経を呼びかけるという地道なプロセスそのものに価値がある。あえて遠い道を選ぶほうがいい。高田好胤さん自身も、ますますそう確信していったという。

 

永遠の解決に入っていること。それが解決である。

 

完成への永遠のプロセスのなかにいること。それが完成なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
仏教は空になった

佐々木閑『集中講義 大乗仏教』(NHK出版、2017年)を読むと、仏教史とは、「空」の思想が観念的に蒸留されていき、ついには仏教が「空」そのものになってしまう過程であることがわかる。

 

紀元前5世紀のブッダの段階では、感覚は実在するが、概念は感覚を組み上げた架空の集合体だと見た。たとえば「私」は、縁起によって存在するようにみえる架空のもので、それじたいは実在しないという。このように、架空の「空」に翻弄される「業」を断つために、出家修行が必要だとされた。これはある意味で合理的な、因果則にのっとった「空」の思考である。57ー60頁

 

それが紀元前後の『般若経』段階になると、因果則の裏側に因果則を超えたシステムがあるとし、それを「空」と呼ぶようになった。この世は、理屈をこえた超越的な法則によって動いているという神秘思想である。般若心経が「ぎゃていぎゃてい...」というマントラで終わるのは、ブッダのような発想では必要になる苦しい修行や難しい学習をしないでも、マントラの神秘的な力にたのめばよい、という思想の表れである。大乗仏教は、この神秘的な「空」の思想により、出家修行を不要とみなすことで成立した。69頁

 

さらに、おそらく般若経よりも50年から150年遅れて成立した法華経になると、「空」という語がほとんど登場しなくなる。これは法華経じたいが「空」を体現した力をもっているので、「空」という言葉をつかう必要がないという発想が背景にある。95頁

 

法華経とほぼ同じころ成立したらしい浄土経典では、ブッダより偉い阿弥陀仏が創作され、その力にまかせればよいとなったので、ますます「空」という語をつかった説明はおこなわれなくなった。123頁

 

 

仏教は、はじめ哲学的な因果の洞察だったものが、時とともに宗教的な神秘思想へと変貌した。この変貌をよく示すものが、「空」の概念内容の変化だということになる。

 

この変貌は、仏教の集団的な認識の深まり(共業ーぐうごうー)の跡なのだろう

 

仏教は、いまや「空」そのものへと昇華しているようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の哲学 世界はトランスする | 00:04 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
<社会全体の認識力>というものがある

自己とは、認識力のことである。

 

自己の集まりである社会にも、認識力がある。たとえば、中国には中国国家と中国人の認識力、韓国には韓国国家と韓国人の認識力があって、彼らはそれぞれの立場から鋭くものごとを認識する力をもっている。そして同時に、彼らには認識できない側面、つまり盲点もかかえている。日本も同様である。

 

こうした<社会の認識力>は、社会的に継承される体験、つまり日々つくられる歴史によって育まれる。

 

古代において戦争は、国家という全社会支配の力を生む原動力であった。近代国家が内戦・外戦ともにみずから否定するとすれば、それは国家の歴史的変質を意味する。日本の場合、本土での内戦は西南戦争をもって終結し、近代日本国家はもっぱら外戦を仕掛けて、ついに敗北した。

 

自分で仕掛けた国外戦争によって国家も住民も追い詰められた経験をもつ社会は、そのことから独自の認識力を身につけることになる。日本国憲法はそのような独自の経験の表現である。それは理念の言葉で書かれており、この理念を鏡として、戦後日本の住民は自分の認識力をつくっていった。日本は世界にさきがけて、戦力不保持・交戦権否定の歴史的段階に入ろうとしたのである。

 

他方、自分からしかけた大戦争で完全に敗北したことのない社会、そうした歴史の認識がない個人にとっては、自国の戦力をみずから否定するなど、馬鹿げたことに見える。戦力不保持・交戦権否定の意味を認識できる歴史的体験がないからである。

 

浄土教には「共業(ぐうごう)」という言葉がある。個人がつくる業のほかに、みんなが共通に出し合う業があって、それが世界のあり方に影響を及ぼしていることを指す。

 

業は、人間が不可避的につくる認識と行為の集積で、良い業も悪い業もある。

 

共業によって、社会の生産諸力が養成される。社会の認識力は、そうした生産諸力のひとつ、すなわち共業の一種である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
なぜ人類史は自然過程か 歴史法則が長期的に貫徹する

自然過程としての歴史。それは長期的に貫徹する。

 

ならば、人間の「自由意志」は、この自然過程にどう含みこまれるか?

 

ここで、高校の物理の「力の合成」の説明を引用させてもらおう。

 

 

 

「力はベクトルであり、どれもが同じ方向を向いているとは限りません。違う方向を向く力同士の合成はどう考えればよいでしょう。

 

 

たとえば

 

 

  

 

 

このような2つの力があった場合、数学のベクトルの加法にならいます。すなわち平行四辺形の対角線が合力となります。

 

 

 

 

 

もし  2つの力の角度が120°であるなら  この青い三角形は正三角形であり、平行四辺形の対角線の長さは各辺の長さと同じになるので、

 

 

 

 

合力は 2N となります。2N + 2N が 2N となるのです。4N とはなりません。

 

 

 縦方向の成分は打ち消し合ってしまい、 横方向の成分だけ残るからです。」

 

 

 

http://wakariyasui.sakura.ne.jp/p/mech/tikara/gousei.html#ittann

 

 

 

「力の合成」の原理は、歴史の理解にも役立つ。

 

自由意志による人間の行動をひとつのベクトルだとすれば、人間が二人いてベクトルが二つ集まれば、ひとつの平行四辺形になる。その結果は、上記の「力の合成」が示すように、個々のベクトルの方向とは異なるし、量も単純な和にはならない。

 

このように合成された力が無数に集まって、社会全体の方向が決まる。個々の人間の行動は自由意志によるが、全体の方向は、個々の人間からみれば「無意識、無意志」に決まっているようにみえる。つまり社会全体の方向は、個々人の自由意志を超えた「自然過程」のように貫徹していく。

 

この自然過程は、多くの逸脱、逆行、中断をともないながら、長期的にはある一定の方向へと進む。人間は、それがどの方向であるかを洞察することもできる。その長いプロセスにおいて働く諸法則を洞察することもできる。

 

こうして方向と法則が洞察できたら、それらを加速したり遅延させたりすることもできる。知恵と努力次第では、歴史の方向と法則を修正することさえ不可能ではない。

 

 

 

 

資料:エンゲルスによる「歴史(力)の平行四辺形」の説明

 

 

「歴史のつくられ方というのは、多くの個別意志の葛藤のなかから最終結果が いつでも生れてくるものであり、しかもそれらの個別意志はそれぞれまた多く の特殊な生活条件によってそのような個別意志になっているのです。

 

つまり無数の、たがいに阻害し合う力、すなわち力の平行四辺形の無限の集まりがあり、 そのなかからひとつの合成力――歴史的結果――が生まれるのであり、それ自身はまた全体として無意識に、また無意志にはたらく力の産物とみなすことができるのです。

 

なぜならば、個々の一人ひとりの者がもとめるものは、他のそれぞれの者によってはばまれ、そして出て来るものはだれもがもとめなかったものということになるのです。

 

こうしてこれまでの歴史はひとつの自然過程のように経過していますし、また本質的には同じ運動法則にしたがっています。

 

しかし、個々の意志が―そのそれぞれが体質や外的な、最終的には経済的 な事情(それ自身の個人的な事情または一般的-社会的事情)にせまられて、そ のもとめるところがきまってきます―

 

―そのもとめることを得られず、溶け合って全体の平均、すなわち共通の合成力が生れるからといって、個々の意志イコール・ゼロとみなすべしなどと考えてはなりません。

 

それどころか、個々の 意志はそれぞれ合成力に寄与するのであり、そのかぎりでそのなかに含まれているのです」

 

 

(エンゲルスからヨーゼフ・ブロッホへの手紙、1890年9月21日、全集第 37 巻。太字は引用者)

 

 

http://benkaku.typepad.jp/files/tokuchou.pdf

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:03 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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