ごきげんようチャンネル

Life is for those who have a hope.

Action is of those who embrace a yearning.

History is made by life and action, hope and yearning.


God is Music. 神は音楽である

先日、アメリカ人の歴史学者(ベルギー史)と話したとき、宗教の話になったので、

 

 

 

「キリスト教の神様のイメージって、白いヒゲの老人でしょうかね」

 

 

 

と聞いてみた。すると、

 

 

 

「そう。それも、なぜか神は白人でないといけないことになっている」

 

 

 

と答えた。私が「ふむふむ」と思っていたら、

 

 

 

「でもね、私にとっては、神は音楽だ。 God is music. 」

 

 

 

と言う。もう少し説明してくれと言ったら、

 

 

 

「うーん、説明はむずかしい。とにかく、神は音楽だ」

 

「バッハみたいな?」

 

「そう」

 

 

 

神や音楽の本質は、言語を超えた高度な概念である。

 

詩や小説、そして人の生き方を見ることが、そういう高みに連れて行ってくれることもある。

 

人間の歴史は、概念の開発と、その実現の歴史である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | イエスの虚像 | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
英語は大文字で個性を表す

英語には、「個性は大文字で表す」という原則がある。個性とは、「これは一回しか現れない」という社会共通の概念であり、個人による、その認識である。

 

例えば、人名は、この世に一回しか現れない個性を表している。だから、Michael Jackson のように、大文字を使う。

 

駅の名前 Tokyo Station や、通りの名前 Fifith Avenue, 曜日 Monday が大文字ではじまるのも、それぞれの個性を表しているからである。

 

英語の文を大文字で書きはじめるのも、「この文は、この文章のなかで、一回だけ現れる個性的なものだ」という認識の表現である。

 

看板の文字が大文字になりやすいのも、それらが表すものが「そこにしかない」個性的なものだからである。

 

また、歴史の中で、その日は一回しかないから、すべての日付は個性の表現である。しかし、数字には大文字がないので、 "April 16, 2017" のように月名だけが大文字で表記される。

 

the FBI のように、theのつくタイプのものもあるが、「一回だけ存在するもの=個性は、大文字で表記する」という英語の原則は、一貫している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  学校の標語。すべて大文字で表現することで、標語の個性を強調している

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
生老病死は観念である 

物質には、生も死もない。

 

生物の「生」と「死」を観察すると、物質的なあり方にちがいがあるだろう。しかし、生物を構成している物質じたいは、みずからの物性にしたがって運動し、変化しているだけで、生きたり死んだりしない。

 

 

 

「誰も、自分の死を体験することはできない」

 

 

 

という。死んだとき、人はもはや生きていない。生きていない以上、死は体験できない。

 

このロジックが成り立つのも、生も死も、観念上の存在だからである。

 

 

 

老いも病いも、人体という物質の集まりがもつ相互関係の変化である。物質じたいは物性にしたがって運動しているだけで、老いもしないし、病んだりもしない。

 

してみれば、人間にとって不可避な「四苦」(生老病死)とは、肉体を構成する物質の相互関係の変化であり、その変化を概念としてとらえた言葉だということになる。

 

 

 

 

人間から見たとき、この世の実在は、

 

 

 

物質ー物質の相互関係ー観念的現実

 

 

 

の三層になっている。

 

宇宙を構成する物質は、滅びない。観念も、個人の認識は個人の肉体とともに滅びるが、社会的な概念はいくつもの世代の肉体に宿るから、かなりの期間、存続しうる。

 

確実に変化し、必ず滅びるのは、個体を構成する物質の相互関係である。たとえば、ひとつの生命体を支える物質の相互関係は確実に変化し、滅びていく。

 

生老病死とは、人体を構成する物質の相互関係の、生成・変化・滅亡をとらえた概念である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | ブッダ暗殺 | 00:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ヨーロッパ中世にみるトランス・ヒストリー

西暦1000年頃から1200年頃、ヨーロッパで変革が静かに進行した。それは、農業・商業・金融の発達という土台の変革=生産力の増大が、新しい意識をもつ社会層を作り出し、彼らが各地の都市という上部構造を確立したプロセスであった。

 

 

 


農業革命から都市の繁栄のシンボルとしてのゴシック建築

 


壁を少なくして高いガラス窓をもうける壮大なゴシック建築は、フランスにはじまり、ヨーロッパを席捲した。このゴシック建築は、建設機器や資材運搬法の革新によって可能になった。

そうした建築技術の革新の背景には、11世紀から13世紀にかけておこった農業革命があった。

製鉄技術が進歩して、鉄犂(すき)、蹄鉄、鉄斧が普及し、深耕や開墾が容易になって、収穫量と耕作面積が数倍になった。水車、三圃制農法の導入もはじまった。この時期の農業革命は、のちの産業革命にも匹敵するという(山田圭一『ゴシックのある大聖堂』クレオ、2006年、41ー43頁)。

農業の発展は、商業・手工業を活発にした。栄える都市のシンボルとしてゴシック大聖堂が計画されると、多くの市民がよろこんで献金した。

 

農地が豊かになった結果、都市にゴシック建築という花が咲いたわけである。

 

 

 

 

都市民・商人のための「ページの革命」

 


農業革命の始まりの頃、紀元1130年から1200年ころにかけて、ヨーロッパで製本法の革新(「ページの革命」)が進行し、黙読可能なテクストが出現した。(イバン・イリイチ「テクストと大学」『環』藤原書店、14(2003年夏)号、100頁)

「ページの革命」とは、次のような特徴をもつ書籍の普及を指す。
 


単語の分かち書き
大文字・小文字の書き分け
見やすい字体の開発
句読記号、かっこ、ハイフンの使用
段落分け
章にタイトルをつける
ページや章の番号づけ
巻頭に目次
脚注
索引
より小さく、扱いやすい製本
 


発展する都市の多忙な市民・商人が文化の担い手になり、読書の高速化と黙読の必要が増したことから、持ち運びが容易で読みやすい、廉価な本が普及した。すなわちテキストの個人化がすすんでいたのである。そして15世紀の活字印刷が、この傾向をさらに推し進めた。

都市民にとって、本のページは、カソリック教会から独立した思考の場を提供した。のちのプロテスタントの出現は、12世紀頃からの「ページの革命」を前提にしていたのだ。




文字によるヨーロッパ地方語のラテン語からの独立

 

  

11世紀後半は、ドイツ、フランス、スペインで、ラテン語とは異なる独自の文字化がすすみ、それぞれの現地語による文学作品が花開いた。逆に、英語だけは非文字化していった。この現象は「大分水嶺 the Great Divide」と呼ぶにふさわしいという(大黒俊一『声と文字 ヨーロッパの中世 6』(岩波書店、2010年、10、104頁)。

 

この時期以降、口頭表現はつねに隠れた参照系としてのテクストにもとづいて行なわれるようになる。人はつねに書き言葉に(ほとんど無意識に)規制されながら語るようになる。(同前書、111頁)

 

こうして、ヨーロッパでは11世紀後半以降、各地方語は、音声を文字で補強しつつ、ラテン語から独立していった。8−9頁。

 

 

 

 

 

 

農業革命による収穫量の増大→都市の商業・金融業の繁栄→ 都市民にも読みやすい書籍の普及と、声の文字化による地方言語のラテン語からの独立→ ゴシック建築の登場。

つまり、農業・商業の発展という「土台」の変革が、都市民・商人の意識形態を変化させ(たとえば文字・書籍を通した地方語の確立)、この意識諸形態の発展が、独立都市という上部構造(そのシンボルがゴシック建築)の形成をうながした。

 

こうした12世紀ころの変革が、その後のルネサンスと宗教改革を準備した。

 

 

 

 

人は、暮らしの中で日々意識諸形態を作り、その蓄積が土台と上部構造を作る。土台に起こった変革は、人々の意識諸形態を通して上部構造の再編をうながす。土台と上部構造は、意識諸形態を媒介として相互に連関しあう。

 

人々の意識を先導するものは、時代の希望・憧れ、つまり社会の意志である。

 

こうした人間社会の連関の形式は、国境を越え、時代を越える。私は、こうした歴史観を「トランス・ヒストリー」と呼んでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二期咲桜。今咲いている。

 

       二期咲桜。11月のいま、咲いている。

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
観念論か唯物論かではない 人間にとって実在するのは、観念と現実の連鎖である

人は、あたかも目の前の現実を直接見て行動しているようにみえる。

 

しかし実際には、自分の観念を鏡にして現実を理解し、その理解をもとに行動している。

 

人間にとって現実は、観念を媒介にして現実となる。

 

人間は、現実についての観念にもとづいて、現実をコントロールしようとする。

 

 

 

 

現実⇨観念現実⇨<観念現実観念⇨現実> ...

 

 

 

 

ここで現実とは、身体の内外の物理的な世界や、人間の行為とその結果である。観念とは、人間が体内で抱く非物質的な意識、認識、概念である。

 

観念⇨現実の部分をとると、観念が出発点になっているので、観念論のようにみえる。現実⇨観念の部分をとると、唯物論が正しいようにみえる。

 

だが、<観念⇨現実>は、身体(たとえば脳)という物理的な前提があってはじめて可能である。<現実⇨観念>も、人間の認知や概念化という観念的能力を基盤にしている。物理的な現実があれば、それに対応する観念が自動的に生まれるというものではない。

 

つまり、上記の連鎖は、観念論か唯物論かではなく、物質の世界とは異なる、人間にとっての<実在の運動>である。

 

 

 

...

 

 

 

現実と観念の連鎖は、全体が非物質的な、人間にとって実在する運動であるが、なかなか見えにくいことが、ひとつある。

 

この連鎖は、個人だけでなく、社会的・集団的にも進行しているということである。

 

これまでの哲学は、観念の集団性・社会性をあまり考慮しなかった。それは、哲学を営む認識が、個人の体内で発生するからである。

 

現実と観念の連鎖にもとづいて個々人が行う行動すなわち意識諸形態を、物質面で規定する全社会的な仕組みが土台であり、精神面で規定する全社会的な仕組みが上部構造である。そして土台も上部構造も、個々人の意識諸形態の産物である。

 

意識諸形態も土台も上部構造も、現実と観念を連鎖させる人間の営みによって成立している。

 

全社会で進行する現実と観念の連鎖の仕組みを、マルクスは「社会構成体」と呼んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 哲学は終わった | 00:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
それはドアではない! 和訳とローマ字読みが、人々を日本語に閉じ込める 

ドアのように見えるが、じつは壁に描いた絵。

 

そういうだまし絵を、どこかで見たことはないだろうか。

 

 

 

 

 

 

https://ameblo.jp/mobilegrande/entry-11772250724.html

      フランス製のだまし絵スクリーン

 

 

 

 

外国語たとえば英語を習得しようとするとき、日本では和訳とローマ字読みに頼る伝統がある。

 

じつは、和訳とローマ字読みは、壁のだまし絵である。それは外国語の世界に通じていない。

 

 

 

明治改元から150年。幕末以来の英語熱は今も続いているようだ。和訳とローマ字読みがだまし絵であることは、この150年で証明された。しかし、英文法にも発音習得法にも、はかばかしい革新はない。

 

 

これからやるべきは、次のことである。

 

 

 

言語にはそれぞれの社会がつくった概念の体系があるから、それを解明して人々に説明する。この説明には、日本語を使って良い。

 

言語にはそれぞれ独自の息・声・音の体系があるから、それを解明して練習できるようにする。この練習法も、日本語を使って説明して良い。

 

,鉢△鮖箸辰董自分の認識を表現したり、他者の表現を認識する機会をたくさんつくる。すると、和訳もローマ字読みもせずに外国語の世界に入れる。

 

 

 

この三つのステップは、壁をいっさい回避し、いわば上空からヘリコプターで、外国語の世界に直接乗り込むシナリオである。

 

私は、英語の ,鉢 をほぼ解明した。を実行する場が、まだない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバスタイルの塾を作りたい | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「社会的作法」が人間を支配する その過程を解明することが学問の目標だ

「作法」というものが存在することは、誰もが知っている。

 

作法は、物質のあり方(身のこなし、姿勢、衣装、道具など)によって表現される。だが作法が表すものは、人間が観念的に理解する何かであって、物質ではない。

 

 

 

「交換価値は、物に費やされた労働を表現するための、ひとつの限定された社会的作法であるのだから、為替相場と同じく、自然的素材をまったく含むことはできない。


(マルクス『資本論 第一巻』初版第一章。訳文は、筑摩書房版マルクスコレクションIII、2005年、321頁。資本論第二版では、新日本出版社版、第一巻、140頁。太字は引用者)

 

 

 

そして、ひとつの社会構成体を編成するほどのパワーをもつ「社会的作法」が存在する。資本はその例である。資本とは生産諸手段が「自立的な支配的諸力に転化」したものであり、人類の歴史に現れる「生産関係」のひとつであると、マルクスは述べている。

 

 

 

「資本は、物ではなく、一定の、社会的な、一定の歴史的な社会構成体に属する生産関係であり、この生産関係が、一つの物 [たとえば、それぞれの社会構成体] にみずからを表し、特殊的な社会的一性格を、この物に与えるのである。」(マルクス『資本論』新日本出版社版、第13巻、1425頁。太字は引用者)

 

 

 

近代の社会構成体は、資本という生産関係が「みずからを表し」たものである。資本は物質(人間を含む生産諸手段)に支えられて運動するが、物質そのものではない。資本は、人間の思考と行動を制約し、社会全体を規定する強力な概念的(規範的)実在である。

 

ふだんあまり意識しないが、私たちは多様で広大な概念の世界に生きており、概念に照らすことで現実を理解している。われわれの社会において、株式市場が成立したり会社が倒産するのは、「資本」という概念が「社会的作法」として実在するからである。

 

言語も宗教も法律も慣習も音楽も演劇も家族も学校も会社も物づくりも、つねに「社会的作法」という概念的実在(人間の思考と行動を現実に規定する力)を参照しながら行われる。

 

考えてみれば、これは常識でもある。

 

問題は、こうした「社会的作法」の創造と展開と変質の具体的なプロセスを解明することであり、人文・社会系の学問の目標のひとつも、そこにあるべきである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
土台は社会の生存条件、上部構造は社会の活動条件。それらは意識諸形態=生活という実体から生まれる 

生活 life とは、意識諸形態を作ることである。歩くこと、話すこと、食べること、ものを作ること、しぐさ、ファッション。人間の行為のすべてが意識諸形態である。芸能や信仰は、高度な意識諸形態である。

 

大人の生活すなわち意識諸形態の大きな部分を占めるのが、職業である。多くの職業によって、自分と社会の生存条件つまり土台が維持・変革される。

 

人々の生活すなわち意識諸形態は、社会を規律する上部構造の維持と変革にも寄与している。公務員や政治家のように、社会の観念的な活動条件すなわち上部構造を維持したり変革することを職業とする人もいる。

 

土台は生存条件、上部構造は活動条件。土台も上部構造も、人々の生活すなわち意識諸形態の産物である。人々の生活すなわち意識諸形態がもつ、物質的な面が土台として総括され、観念的な面が上部構造として集約される。

 

そして意識諸形態は、土台(社会の物質的生存条件)と上部構造(社会の観念的活動条件)に規定される。

 

土台と上部構造は、人々の意識諸形態=生活を媒介として、互いを支えあい、変革しあう関係にある。

 

土台の編成と上部構造の編成は、生活すなわち個々の人間の意識とその形態を超えた、全社会的に運用される高度な概念によっている。ルソーやマルクスのような社会思想家は、個人の意識を超え、全社会を動かしている概念体系の生成と崩壊のプロセスを解明しようとした。

 

全社会を総括し集約する、この高度な概念の変遷が、<社会構成体の歴史>の内容をなす。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の歴史 トランス・ヒストリー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
言語は貨幣でつくった首飾りである

社会の誰にでも価値(概念)が理解されるという意味で、言語は貨幣に似ている。

 

だが、言語が伝える意味は文ごとに異なるから、むしろ言語は、まちまちの使用価値をもつ商品にも似ている。

 

言語は、貨幣なのか商品なのか。

 

マルクスは、商品が社会的にもつ価値を、解読できない文字にたとえた文を書いている。

 

 

 

価値は、どの労働生産物をも一個の社会的象形文字 [外形はあるが、概念が不明な対象物] に変えてしまう。ずっと後になって人間たちは、この象形文字の意味を解読しようとして、人間自身の社会的生産物の秘密に探りを入れるようになる。というのは、使用対象を価値として規定することは、言語と同じく人間たちが社会的に作りだしたことだからである。」

 

(マルクス『資本論』筑摩書房マルクスコレクション版、114頁。太字は引用者)

 

 

 

たしかに、商品の価値の正体(抽象的人間労働)は、古代の象形文字が伝えようとする概念に似て、なかなか解明できない。

 

だが、現在使われている言語の文字が伝える概念は、その社会に住む人間には明らかであるように思える。言語はその時代、その社会で通用する商品的貨幣であり、貨幣的商品である。

 

とはいえ、言語を作り、その意味を享受するには、対価がいらない。つまり言語は基本的に無料で作れるし、無料でもらえる。だから言語は、商品・貨幣とまったく同じ性質のものではない。

 

どうやら、言語の仕組みと経済学上の概念は、ねじれた対応関係にあるらしい。

 

 

...

 

 

言語と経済学上の諸概念の対応関係は、次のように整理できる。

 

左が言語の諸要素、右が、それに対応する経済学上の諸概念である。

 

 

 

対象  原材料

 

認識   原材料調達・加工労働 具体的有用労働

表現   商品出荷・陳列労働  具体的有用労働

 

 

語彙としての概念     価値  ← 抽象的人間労働

言語規範としての概念   労働規範

 

 

表現体=言語  商品。  労働と価値を含んだ生産物(物象)

音声・文字   貨幣体系(価値表示のための表象的単位からなる体系)

 

意味         伝達される概念としては交換価値、伝達される認識としては使用価値

 

伝達      商品流通・生産物の分配

意味の受容   消費

 

 

 

音声・文字による表現体すなわち言語は、多種の貨幣(一般的等価物)を集めて作った首飾りである。使用した貨幣の種類とそのつなぎ方、すなわち首飾りの素材と形によって、異なる意味が伝達できる。

 

 

...

 

 

ところで、上記の対応表には、重要なものをひとつ追加しなければならない。それは、

 

 

自己  労働力

 

 

である。

 

マルクスは、労働(認識・表現)と労働力(自己)の関係について、次のように述べる。

 

 

 

「人間の労働は、ふつうの人間なら誰でも特別の発達を経ることなく自分の肉体的な有機労働のなかに平均的にもっている単純な労働力の支出である。」(『資本論』筑摩書房マルクスコレクション版、69頁。太字は引用者)

 

 

 

ならば、言語の「労働」たる認識・表現は、「自己」という労働力の支出にほかならない。また、人間の自己には、社会の誰もが「平均的にもっている単純な」レベルがあり、その「平均」は年齢に応じて増大することも、ここから読み取れるだろう。

 

われわれの身体は、自己という観念的労働力をもち、自己を発揮することによって、体内に抱いた対象を、規範としての概念によって認識・表現した表現体、すなわち言語を作る。それは、労働者が労働力を発揮することによって商品を作るプロセスと同じ構造である。

 

自己による言語労働(認識・表現)の結果、われわれは<現実世界の自分>と、<自己による観念世界>というふたつの世界をもつことになる。

 

認識は、自分がいる現実世界の私的な出来事だが、概念を用いた言語は、自己がつくる社会的な観念世界である。社会的な言語が作る観念世界を鏡にすることによって、われわれは自分がいる私的な現実世界を知る

 

既存の言語学は、自己という社会的労働力の存在と成長、そしてその労働力がつくる観念世界の現実超越性・現実照出性に十分気づいていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | 希望の文法 トランス・グラマー | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「この道十年」は長いか? 

「パソコンの父」といわれるアラン・ケイ(1940〜)の次の言葉は有名だ。

 

 

 

未来を予言する最良の方法は、未来を創造することである。

 

まず何が必要なのかを決定し、つぎにそれを実現するのだ。」

 

(Alan C. Kay(鶴岡雄二訳)『アラン・ケイ』アスキー、1992年、128−129頁)

 

 

 

では、「未来を創造する」には、どうすればいいのか。彼は、

 

 


「研究段階のアイデアが消費者向け最終製品になるまでには、まちがいなく10年はかかる」

 

 


と書いている(同上書、128−129頁)。

 

画期的なアイデアが人々に受け入れられ、定着するには、10年はかかるということである。

 

 

 

なぜ、「まちがいなく10年」なのか。同書によると、

 


第一に、多くの実例がそれを証明している。ビデオゲーム、アーケードゲーム、パソコン、ゼロックス、プログラム言語… いずれもアイデアの発見から実用までに10年以上かかっている。

第二に、よいアイデアの価値を明確に認識することは、当事者にとっても世間にとっても、容易なことではない。たとえばゼロックス社バロアルト研究所は最良の発見をしたのに、その価値が認識できず、そのままになってしまった。

第三に、アイデアを現実のものにするのに3年ほどかかる。

第四に、いちおう完成したようにみえても、あらたな重要問題が出てくるので、改善の時間が必要になる。
 

 

10年かかるということは、十分な準備と人材と資金があれば、10年後には確実に技術革新ができるということでもある。

 

 

 

個人でも、専門的な分野で一人前になるには10年かかるという話も、よく聞く。

 

若い頃の10年は、長いように思える。だが、なにごとも10年あれば一人前のプロになれるとすれば、価値ある時間でもある。

 

 


新しいアイデアを普及させるのに必要な時間。プロになるのに必要な時間。それが「まちがいなく10年」だということは、若い人が覚えておくといいことのひとつかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

 

 

 

 

| 三浦 陽一 (みうら・よういち) | スタバスタイルの塾を作りたい | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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